プロローグ
Yes-No ー君を抱いていいの 好きに なってもいいの?
そのオフィスの1番のお気に入りの場所がトイレだと言うのはおかしいだろうか?床から天井まで一面のガラス張りで、新宿の街並みが一望できた。数年前まで山に囲まれた田舎の町で暮らしてきた自分が、東京の経済の中心地を見下ろしている。通勤に1時間半かかり、安定した仕事ではないけれど、自己満足を満たすためにはこの景色だけでも充分だった。
人生には何が起こるかわからない。
自分が納得する仕事をして、息が詰まりそうな故郷から都会に住むと言う、ささやかな夢が1つずつ現実になっていた。これまで悔いはない。でもこのまま年老いていくのかな?と言う小さな不安が心の中で澱のように溜まっているような気がしていたのは、自分がもうじき40代になろうとしていることに気がついたからかもしれない。
携帯が鳴ったのは、ちょうど席に戻った時だった。電話の相手は数ヶ月前に対応した営業の人。彼のことはよく覚えている。私の隣の席の担当者が会議室で待ちぼうけさせていたのを申し訳ないと思い、話し相手にでもなろうかとドアを開けると、そこにやたらと姿勢の良い、小ぎれいな青年が座っていた。
とりとめのない世間話をする。その時に楽しそうに、口を四角形にして笑いながら、私の話を聞いてくれていた姿が印象的だった。
素敵な人だな。しばらくすると担当の同僚がやってきて、私と彼との会話はそれで途切れた。
あれから4ヶ月は経っていただろう。「メールを送ったんですが返事がなかったので電話をしてみました」と少し怒った口調で言うが、全く覚えがない。よくよく聞いてみると数日前に届いた文字化けして全く内容がわからなかったメールがそうだったらしい。
あの時の会議室での印象とは違い、強引と言ってもいいほど「食事にいきましょう」と誘ってくる。変な宗教の勧誘ではないかと疑いつつも、その勢いに思わず「いいですよ」と言ってしまった。
それにしてもなぜ今更私に連絡が来るのか?
訝しく思いながらも、数日後に約束した食事のために、その日の帰り道、近くの高島屋でスーツを買ってしまった。これでほんとに壺や印鑑でも買わされたら、とんだ散財になるだろう。
待ち合わせの日。私が勤務しているビルの入り口でその人はタバコを吸いながら待っていた。数ヶ月前に会った時にはスーツ姿だったのが、今日はジーンズにかわいい赤いトレーナーを着ている。以前来社したときには営業だったが、数ヶ月前に部署が変わり今は開発に所属しているらしい。印象が全く違ったので一瞬わからなかった。
それは相手も同じだったらしく、以前私は眼鏡をかけていたのだが、今日はコンタクトをしていたので、建物から出てきてもわからなかったようだ。
自分から「会いたい」と言ってきたのに、私本人が登場してもわからないなんて…。スーツを買ったり念入りに化粧を直したり、自分なりに準備を万端にしてこの場所にたどり着いた私は軽く傷つく。
ホントに私で良かったの? 誘いたかったのは私なの?
食事に誘われた真意を探りながら、すぐ近くのこじゃれた中華レストランに移動。特別な話もなく、その後のお互いの仕事の状況などを話してその日は別れた。
私と食事して楽しかったんだろうか?と終電を逃した帰りのタクシーで考えながら、まぁこれで二度と誘われることもないだろうと思っていた。
2回目に会ったのは彼が出張でアメリカに行く直前だった。歌舞伎町で食事をした後なんとなく帰りづらくて、カフェで取り止めもない話してるうちに、また終電の時間になってしまった。すると突然「帰るのやめておきましょう」と言う。彼の言葉に戸惑いながらも、結局またタクシーで家に着く。
自分に今何が起こっているのか車の中でよく考える。一体いつ壺を勧められるのか、宗教の本を取り出すのかと疑いつつも、彼に惹かれている自分の気持ちに気づいていた。
状況が動き出したのは、アメリカから彼が電話をくれた時だった。国際電話用のカードで、1時間以上もたわいもない話をする。電話を切る頃には、出張帰りに新宿で待ち合わせをすることまで決まっていた。
私は一体何をしようとしているのだろうか? 彼にも奥さんがいて、おまけにまだ結婚したばかりと言う新婚さんだった。年齢も多分相当下だと思われる。何より私は主人のことを愛してしたし、浮気をする気もさらさらなかった。
約束の日、新宿で出張帰りの彼を待っている間も、これから起こることを想像しながら怖いと思いつつ、でも見てみたいと言う気持ちもあり、揺れる心を抑えきれずにいた。
待ち合わせ場所に現れた彼は、まず大きなトランクをロッカーに預け、私に「はい!」と言って手を差し出す。その手を思わずつかみ、一緒に新宿の街を2人で話せる場所を探して彷徨歩く。「あなたを抱きたいとき僕はどうしたらいいんですか?」と子供のように尋ねる彼に心を持っていかれそうになる。
偶然見つけたカラオケボックス。海外出張から戻ってきたばかりで、疲れきっている彼は私の膝枕の上で目を閉じた。
思わずその唇に触れる。
何かが、小さな何かがスタートした瞬間だった。




