ワンスアイヤー 2014
シンデレラエクスプレス - 私は 傘をささず帰る 笑顔だけ抱きしめて 出会えたことを とても感謝して
落ち着かない私の生活だ。香港からマレーシアのクアラルンプールに主人の異動が決まった。
いったん日本に戻り準備をし、新年早々機上の人となる。
ツインタワーが臨めるクアラルンプールの中心地のサービスアパートが新しい住まいだ。マレーシアに来て初めて「ダイバーシティ(多様性)」という世界を肌で感じる。マレー、中国、インド、英語圏の人種が入り乱れ、4つの違う文化が成立している。共通語は英語だが、みな完璧に話せる人はいない。日本人の英語のレベルの人がゴロゴロしているが、間違いを気にしていると生きていけないので、皆恐れずに話す。中には怪しい英語を話し、意味が通じていなかったり、違う情報が行きかったりということもあるが、とりあえず社会は回っていた。
日本のようにすべて理解して、100%確信して社会が回る・・・という生活に慣れていると不安になったり、不満に感じたりするけど、こういう社会は世界中に結構あるんだろうなとも思う。いずれにしてもよい経験をしている。
駐在員生活も3か所目になると慣れたもので、当初の「地元の友達を作る!」などと言う青い野望はみじんもない。それよりも素早く日本人の知り合いを作り、ネットワークを広げ、現地の情報を仕入れて、快適に暮らす・・・という考えにシフトした。到着した翌日さっそくKL日本人クラブに入会する。KLとは「クアラルンプール」の略称で、現地ではクアラルンプールなどと長々言う人は皆無だ。日本人クラブは小学校や幼稚園まで併設されているほどの規模で、趣味のクラブも充実し、建物の中にはカフェやレストラン、そして体育館などもあった。
私はここで子供たちへの読み聞かせや劇を行う「おはなし広場」と、体操、ヨガ、グルメ、料理教室などにも参加したので、ほぼ毎日クラブに通うことになった。
おはなし広場に参加する際、少し迷いはあった。
子作りを諦めた私が、子供たちを対象にしたアクティビティに参加して辛くならないのか・・・。しかしこんな機会でもなければ、私はきっとこの先子供とかかわることはないだろう。おまけに元演劇部で、元アナウンサーの私だ、しゃべることには自信がある。なので思い切って代表者に連絡をし、さっそく5日後の幼稚園への慰問に参加することにした。その際司会進行を任せてくださいと立候補もした。こうなったらとことん向き合おうと思ったのだ。名前は「おはなし・・・」という名前だが、メインは人形劇だったり、紙芝居だったり、お遊戯だったりと、読み聞かせというよりも私の好きな演劇に近い。まるで劇団のような雰囲気が気に入って、練習にも熱が入る。ほぼひと月に一度の公演を、仲間とともにこなしていくことになった。
必然的に日本に帰る機会が減る。マレーシアは案外日本から遠く、飛行機でも2度食事が出てくるほどだ。韓国はひと月に一度は帰国をしようとしていたが、香港に続き今回も2か月に1度の帰国になった。その代わり滞在は長めにし、彼と会う機会を濃密にしようとしていた。
彼は春に大学院を卒業した。仕事をしながら修論を仕上げ、無事に修士の称号を手に入れたのだ。文字にすると簡単だが、相当頑張ったと思う。特に彼の住んでいた駅は、もともと横浜国立大学に通うことを目的に選んでいたため、大学院がある新宿へのアクセスが良いとは言えない。仕事帰りやせっかくの週末に通うのはさぞ大変だっただろう。乗り換えのわずらわしさを避けるために、途中の駅で降りて20分ほどかけて歩いていたと聞いた時には、胸がつぶれそうな思いがした。
そんな彼の苦労をねぎらうために、卒業祝いには彼の好きな、そしてもちろん私も大好きな焼き肉屋さんに招待した。ちょうど彼と一緒に見ていたテレビで紹介されていたお店で、卒業したらここに行こうねと約束していたのだ。
このお店を皮切りに、あちこちの焼き肉店に二人で行って、おいしいお店を探索するようになる。
焼き肉だけでなく、横浜の様々な食堂やレストランに行くのが二人の楽しみだ。不思議なのは彼はとても舌が肥えていることだ。おいしさのハードルが低い私は、何を食べても「おいしい」と言ってしまうが、彼はなかなか合格点を出さない。私が以前に行って、これなら彼を納得させられるかも・・・と思って連れて行っても「普通~!」と言われてしまう。
彼から聞いた話だと、お母さんは決して料理が得意な方ではなかったようだ。それにも関わらず、彼が繊細な味覚を持っているのは、もしかしたら長年同棲していた彼女の影響か、または別居中の奥さんが料理上手だったからなのかもしれない。
いずれにしろ、私が作るものは命の危機にかかわると敬遠されることがある。賞味期限が切れている調味料なども平気で使ってしまったりすることがあるからだ。私が自信満々で作ったカレーもこれまで食べた中で一番おいしくなかったと言われてしまった。
そんな彼に大きな転機が訪れた。
突然横浜から大阪に転勤になったのだ。ちょうど大学院を卒業した後の夏に、大阪の支店の責任者として着任すると言う。彼にとっては大きなチャンスだった。おまけに大阪は彼の故郷でもあるのでお母さんはもちろん、友人たちや知り合いも大勢いる。つまり地元に戻るということだ。もともと彼とのやりとりが再開したのは、大阪で転職を考えていると言うのがきっかけだったが、10年近く経ってその目標が現実になったと言うことだ。
この年の秋、日本に帰国した際、ちょうど出張で横浜に来ていた彼に付いて、大阪に遊びに行く機会に恵まれた。2人で新幹線に乗って、まず彼の仕事がある神戸に向かう。新神戸駅で別れ、私は洋館巡りをし、彼に教えてもらった方法で大阪の梅田まで移動し、彼と再び合流した。
大阪で見る彼は普段と違っていた。
同じ言葉を話す人たちの中で、生き生きとしている感じがする。横浜では食べているところを見たことがなかったたこ焼きや、高校時代にバイトをしていたお好み焼き屋にも連れて行ってくれた。大阪の中心地に近いオフィスは小さいながらも好立地で、のびのびと仕事をしている彼の日常も垣間見ることができた。
職場を後にし、梅田の駅前の観覧車に乗せてもらい、大阪を高いところから眺める。この美しい光に包まれた街が彼が青春時代を過ごした場所なのだ。これまで何度も聞いて、行ってみたくてたまらなかった彼の地元の空気を思いっきり吸い込む。
次の日、彼は仕事だったので、私は難波と言う街を一人で訪ねてみる。まるでおもちゃ箱をひっくり返したかのような賑やかさで、歩いているだけでワクワクする。底知れないパワーのある街だ。こんな楽しい街で育った彼が、窮屈そうに関東で暮らしていたことを考えると、とても不憫に感じらる。
彼が大阪で暮らせるようになって良かった。
週末は彼の家から歩いて、あちこち観光に連れて行ってくれた。有名な西成や通天閣などを見せてもらうが、普通の靴を履いていたら足中にチマメができてしまった。彼には「なんでそんなの履いてくるの?」と怒られたが、これは彼に買ってもらった靴だった。初めて大阪で二人で歩く、その時には彼の何かを身につけたかったのだ。
翌日、一緒に食事をした後、彼が昼寝を始め、なかなか起きなかったので、次の日マレーシアに帰る私は手紙を置いて横浜に戻ることにした。
彼に教えてもらったとおりに電車を乗り換え、すんなり新幹線のホームに到着する。
列車が入線して乗り込むと、プシューっと「ため息をつくようにドアが閉まった」。
あ、シンデレラエクスプレスだ!
大好きなユーミンのこの曲が、今の私の気持ちにピッタリと当てはまる。
私は彼と同じ時間を生きているのだ、どんなに遠くなっても。




