末《みらい》を知る者
朝の光が、窓から差し込んでいた。
昨日は特に何もせず、ただ考え事のみをして一日を終えた。
目を覚ました私は、しばらく天井を見つめていた。
昨日までとは、何かが違う。
世界が変わったわけではない。
目の前にある景色も、部屋も、何一つ変わってはいない。
それでも――私の中では、確かに何かが変わっていた。
私は知っている。
この国で、これから何が起こるのかを。
ここへ来る前に読んだ史書。
そこに記された出来事の一つ一つが、私にとっては過去の歴史だった。
けれど、この世界に生きる私にとっては違う。
それはまだ、起こってすらいない未来だ。
「……どうすればいいんだろうな」
誰に聞かせるでもなく、私は呟いた。
歴史を知っている。
それは、決して未来を知っているということと同じではない。
史書に記されているのは、起こった出来事だけだ。
その時、誰が何を思っていたのか。
なぜ、その選択をしたのか。
その出来事の裏で、誰が何を失ったのか。
そこまでは、書かれていない。
私は、昨日まで知らなかった。
父が何を考えているのかも。
この国が、どこへ向かおうとしているのかも。
そして――
自分自身が、この歴史の中で何者になるのかも。
私はベッドから降り、窓の外へ目を向けた。
朝の城下町は、いつもと変わらない。
人々が行き交い、店が開き、今日という一日が始まっていく。
誰も知らない。
この平穏な日々の先に、史書に記された出来事が待っていることを。
そして私も、まだ知らない。
その歴史が、私の知っているものとは少しずつ違う形へ変わっていくことを。
――歴史は、過去に記された瞬間から変えられないものになる。
そう思っていた。
けれど、この世界に生きる者にとって、歴史とは過去ではない。
これから、自分たちの手で紡いでいくものなのだ。
「アシュ様。お目覚めでしょうか?」
扉の向こうから、聞き慣れた声がした。
「うん。入っていいよ」
扉が開き、侍女が一礼して入ってくる。
いつもと変わらない朝。
着替えを済ませ、朝食へ向かう。
その途中、廊下ですれ違う臣下たちも、いつもと変わらない。
「おはようございます、アシュ様」
「おはよう」
笑顔で挨拶を返す。
けれど、昨日までとは違う。
私は一人一人の顔を見るたびに、史書の記憶を重ねてしまう。
この人は――
この人は、確か。
……違う。
首を横に振る。
まだ何も起きていない。
今、目の前にいるこの人たちは、私の知っている『史書で見た人物』ではない。
生きている。笑っている。話している。
そして、これから何かを選ぶ人たちだ。
だからこそ。
「……難しいな」
小さく呟いた。
朝食を終えた頃だった。
一人の騎士が、慌ただしい足取りで部屋へ入ってきた。
「アシュ様!」
「どうしたの?」
騎士は息を整えると、深く頭を下げた。
「陛下がお呼びです」
「父上が?」
「はい。至急とのことです」
胸の奥が、僅かにざわついた。
昨日のことが頭をよぎる。
父との会話。
そして、部屋を出る直前に感じた、あの妙な視線。
私は椅子から立ち上がった。
「分かった。すぐ行く」
父の執務室へ向かう。
廊下を歩きながら、私は何度も考えた。
昨日、父は何を考えていたのだろう。
そして、なぜ――
私に「すまなかったな」と言ったのだろう。
扉の前に立つ。
騎士が扉を開けた。
「失礼します」
中へ入る。
父は机の前に座っていた。
昨日と同じ場所。
けれど、その表情は昨日とは少し違っていた。
「来たか」
「はい」
父はしばらく私を見つめていた。
そして、机の上に置かれていた一枚の書状を手に取った。
「アシュ」
「はい」
「お前は、この国がこれからどうなると思う?」
突然の問いだった。
私は答えに詰まった。
知っている。
この先に起こることを。
けれど、それを口にすることはできない。
「……分かりません」
父は何も言わなかった。
ただ、私を見つめている。
その目は、まるで私の奥にある何かを見ようとしているようだった。
「そうか」
短く答える。
そして、書状を机の上へ戻した。
「ならば、今はそれでいい」
「……父上?」
「知らぬことを、知らぬと言える。それもまた大切なことだ」
その言葉に、私は少しだけ驚いた。
父は窓の外へ視線を向けた。
「人は、未来を知れば強くなれると思いがちだ」
静かな声だった。
「だがな。未来を知ったところで、それを変えられるとは限らぬ」
胸が、僅かに跳ねる。
「むしろ――知ってしまったからこそ、選べなくなることもある」
私は父の横顔を見つめた。
まるで。
まるで父は、何かを知っているようだった。
「……父上は、未来を知っているのですか?」
父がこちらを見る。
ほんの一瞬だけ、その瞳に驚きが浮かんだ。
けれど、それはすぐに消えた。
「いや」
父は首を横に振った。
「わしが知っているのは、過去だけだ」
そう言って、父は立ち上がった。
「だがな、アシュ」
私の肩に手を置く。
「過去を知る者には、未来を選ぶ責任がある」
その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。
ただ。
その言葉だけが、妙に胸に残った。
そして、その日の夜。
王城の中を、一人の男が静かに歩いていた。
人目を避けるように。
音を立てぬように。
向かった先は――王の寝室。
男は周囲を確認すると、懐から一枚の紙を取り出した。
そこに記されていたのは、短い文と一人の名前だった。
――二代目皇帝、クレンバルト・レオニス。
男は紙を握りしめる。
「……急がなくては」
小さく呟いた。
その言葉を聞く者は、誰もいなかった。
寝室の前に着いた時、男は疑問に思った。
皇帝の寝室にしてはあまりにも衛兵が少ない。
普段ならば、扉の前には最低でも四人。
廊下の両端にも、それぞれ数人の兵が配置されているはずだった。
だが今夜は違う。
扉の前に立っているのは、たった二人。
「……妙だな」
男は足を止めた。
二人の衛兵は、こちらに気づくと槍を構えた。
「止まれ」
「陛下より呼ばれている」
男は手に持っていた書状を見せた。
衛兵の一人がそれを確認する。
「……確かに陛下の印だ」
「通してくれ」
衛兵は一瞬だけ互いの顔を見合わせた。
そして、扉の横へ退いた。
重い扉が開くと男は中へ入った。
「失礼いたします」
返事はない。
静かだった。
あまりにも静かだった。
皇帝の寝室。
そこには、本来ならば夜遅くまで灯されているはずの燭台がいくつもある。
だが、今夜はそのうちのいくつかが消えていた。
男はゆっくりと歩を進める。
「陛下?」
やはり返事はない。
寝台には、皇帝が扉に背を向け横たわっていた。
「……お休みのところ、申し訳ございません」
男はさらに近づいた。
その時だった。
かすかに、鉄のような匂いがした。
男の足が止まる。
「……?」
何かがおかしい。
男は寝台の脇へ回り込んだ。
そして――
息を呑んだ。
「陛下……?」
皇帝は、眠っているように見えた。
顔には苦痛の色がない。
ただ、静かに目を閉じている。
男は恐る恐る手を伸ばし、皇帝の手に触れる。
冷たい。
「……そんな」
男は後ずさった。
頭の中が真っ白になる。
皇帝は――
すでに息をしていなかった。
「誰か!」
男が叫ぶ。
扉の外にいた衛兵が駆け込んでくる。
「何事だ!」
「陛下が……!」
衛兵が寝台を見る。
そして、表情を変えた。
「……陛下?」
二人の衛兵が慌てて皇帝のもとへ駆け寄る。
一人が脈を確認する。
もう一人が部屋の中を見回した。
窓は閉まっていた。
鍵も掛かっている。
「誰かが侵入した形跡は?」
「ない」
「なら、どうやって……」
その言葉を遮るように、廊下から足音が響いた。
「何があった!」
異変を察した兵士たちが次々と駆け込んでくる。
部屋は一瞬にして騒然となった。
男は、その光景を呆然と見つめていた。
そしてふと、先ほど感じた違和感を思い出した。
――衛兵が少なすぎた。
偶然なのか。
それとも――
「……最初から、こうなることを知っていたのか?」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
その夜。
皇帝は死んだ。
しかし。
誰が、皇帝を殺したのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。
そして翌朝。
王城には、ある知らせが響き渡った。
――皇帝陛下、崩御。
それと同時に、もうひとつの知らせが王城を駆け巡った。
「エドワード・ヴァイスを拘束せよ」
皇帝の第一発見者。
皇帝の死が確認される前、寝室に入った唯一の人物。
そして、皇帝の寝室には外部から侵入した形跡がなかった。
状況だけを見れば。
疑いの目がエドワードへ向けられるのは、当然だった。
「違う! 私は陛下に呼ばれただけだ!」
エドワードはそう訴えた。
「皇帝が直接お前を呼び出したのか?」
「……違う」
「ではどのように呼び出されたのだ?」
「紙です」
そう言いながらエドワードは懐を探った。
だが。
そこにあるはずの紙は――消えていた。
「……え?」
その瞬間、エドワードの顔から血の気が引いた。
あの紙がなければ。
自分が皇帝のもとへ向かった理由を証明するものは、何もない。
そして何より。
その紙が本当に皇帝の命令だったのかどうかさえ、もう確かめる術はなかった。
「エドワード・ヴァイス」
冷たい声が響く。
「皇帝殺害の容疑により、身柄を拘束する」
「待ってくれ! 私は――」
言葉は最後まで届かなかった。
兵士たちに腕を掴まれ、エドワードは連行されていく。
その背中を見つめる者たちの目には、すでに疑いの色が浮かんでいた。
こうして。
皇帝の死を巡る裁きが始まった。
そしてエドワードはまだ知らなかった。
自分が立たされようとしているその場所こそ――
皇帝を殺した者によって仕組まれた場所だということを。




