常《いしずえ》は目立たない
「父上が……?」
私は思わず聞き返した。
「はい。クレンバルト・レオニス陛下です」
ダルマンはそう答えると、少しだけ姿勢を正した。
「ギルヴェルト陛下が一代で広げた帝国を受け継がれたのが、クレンバルト陛下でした」
「……父上は、祖父とは違ったのか?」
「ええ。まるで正反対と言ってもよいでしょう」
ダルマンは静かに頷いた。
「ギルヴェルト陛下が戦いによって国を広げた方だとすれば、クレンバルト陛下は――その国を安定させることに尽力された方です」
「安定……」
「はい」
クレンバルトが皇帝となった時、レオニス帝国はすでに広大な領土を持っていた。
けれど、その国が最初から今のように安定していたわけではない。
広大な領土を維持するには、それだけ多くの人々の暮らしを支える必要がある。
そして何より――、ギルヴェルトが残したものがあった。
「まず陛下が取り組まれたのは、莫大な借金の返済でした」
「……やっぱり、そこからなのか」
「はい」
私は思わず苦笑した。
祖父が残したものの中には、巨大な帝国だけではなく、巨額な借金まで含まれていたらしい。
「ですが、陛下はただ借金を返すだけではありませんでした」
「どういうことだ?」
「帝国そのものを、より豊かにしようとされたのです」
クレンバルトは、ギルヴェルトが広げた領土へ目を向けた。
帝都から遠く離れた土地にも人々は暮らしている。
しかし、それまでのレオニスには、そうした地域へ十分な経済が行き渡っていたとは言えなかった。
「陛下は各地の産業を整え、交易を活発にし、帝国のどこに住んでいても安定した生活が成り立つように仕組みを整えていかれました」
「……帝都だけを豊かにするんじゃなくて?」
「はい。帝国全体をです」
それは、戦争で領土を広げることとはまったく違う。
一つの国を大きくするのではなく――
すでに大きくなってしまった国を、一つの国として成り立たせる。
「そうして長い年月をかけ、陛下はついに――ギルヴェルト陛下が残された借金を、すべて返済されたのです」
「……全部?」
「はい。全てです」
ダルマンははっきりと答えた。
「それほどの功績を残されたことから、人々はクレンバルト陛下をこう呼ぶようになりました」
私は、その名を思い出す。
戦場へ向かう前に聞いた、もう一つの言葉。
「……『返済王』」
「その通りです」
ダルマンは頷いた。
「ギルヴェルト陛下が築いた帝国を、クレンバルト陛下は経済という別の力によって支えたのです」
「でも,祖父の呼び名と違って随分とそのままな名前じゃないか?」
「ギルヴェルト陛下はかなり目立つ功績を多く残されたので、呼び名と共にその功績も語られてきましたが……」
「父上はそうではなかったと?」
「……はい」
ダルマンは続けた。
「クレンバルト陛下も残された功績は偉大なものばかりでした。しかし,それは民達にとってすぐに実感できるものではなかったのです」
「語られなかった功績ってことか」
「そうなります」
ダルマンは静かに頷いた。
「クレンバルト陛下が行われたことの多くは、国を少しずつ変えていくものでした。経済を安定させ、各地の産業を育て、帝国全体に富が行き渡るようにする。それらは確かに大きな功績です」
「でも、すぐに分かるものではない」
「はい」
ダルマンは続けた。
「ギルヴェルト陛下のように、戦争で国を広げたわけでもありません。新たな領土を手に入れたわけでもない。ですから、語られる際も、どうしても『返済王』という呼び名だけが目立ってしまったのでしょう」
「……なるほど」
私は少し考え込んだ。
祖父は、戦って国を大きくした。
父は、その国を内側から支えた。
同じ皇帝でも、やったことはまるで違う。
「それにしても……父上の治世では、戦争は起きなかったのか?」
「はい。一度も」
「一度も?」
「ええ」
ダルマンは迷うことなく答えた。
「クレンバルト陛下は、在位中に一度も戦争をされておりません」
「……どうして?」
これだけ巨大な帝国なら、周辺国から狙われてもおかしくない。
まして、ギルヴェルトが周辺諸国を打ち破って築いた帝国だからこそ、敵も多かったはずだ。
それなのに――戦争が起きなかった。
「理由は、レオニス帝国そのものにあります」
「帝国そのもの?」
「はい」
ダルマンは窓の外へ視線を向けた。
「周辺諸国は、レオニス帝国を常に警戒していました」
「……祖父がいたからか?」
「それもあります。しかし、それだけではありません」
ダルマンはゆっくりと続けた。
「ギルヴェルト陛下が一代で築き上げた帝国。そして、その帝国を受け継いだクレンバルト陛下」
「……」
「周辺諸国からすれば、あれほどの戦果を上げた皇帝の息子が、巨大な帝国をそのまま受け継いだのです。わざわざ戦いを仕掛ける理由はありませんでした」
「つまり……父上が戦わなかったというより、周りが戦いを避けていた?」
「その通りです」
私は黙って考えた。
クレンバルトは戦争をしなかった。
だが、それは決してレオニスが弱かったからではない。
むしろ――強大な帝国だったからこそ、戦争そのものを避けることができていたのだ。
「クレンバルト陛下は、その状況を利用して帝国の安定に力を注がれました」
「……戦わずに、国を豊かにした」
「はい」
ダルマンは頷いた。
「それが、クレンバルト陛下の治世です」
私は改めて、父が治めていた時代のことを考えた。
戦争によって領土を広げることもなく。
敵国を滅ぼすこともなく。
ただ、この巨大な帝国を維持し、より安定した国へと変えていった。
それが父、クレンバルト・レオニスだった。
けれど――
「では、なぜ……」
ふと、疑問が浮かんだ。
「なぜ、私が皇帝になる直前に戦争が起きたんだ?」
ダルマンの表情が、僅かに曇った。
「……それは、クレンバルト陛下がお亡くなりになったからです」
「父上の死が……?」
「はい」
ダルマンは静かに答えた。
「クレンバルト陛下がご存命である限り、周辺諸国はレオニス帝国へ手を出そうとはしませんでした」
「でも、父上が死んだことで……」
「ええ」
ダルマンは一度言葉を切った。
「周辺諸国の中には、こう考える者たちが現れたのです」
そして――
「ギルヴェルト陛下もいない。クレンバルト陛下もいない」
「……」
「ならば今のレオニス帝国には、誰がいるのか、と」
その言葉を聞いた瞬間、私は理解した。
「……私か」
「はい」
ダルマンは頷いた。
「戦争に勝ち続けた皇帝の息子であれば、その戦い方を教わっている可能性があります。だからこそ、クレンバルト陛下がご存命の間は、他国も容易には手を出せなかったのでしょう」
「ですが、クレンバルト陛下は戦争をされなかった。ならば、その次の皇帝となる人物も、戦争について何も知らないのではないか。そう考える者が現れたのでしょう」
「確かに、父上なら祖父の下で戦争についての教えを受けていたかもしれないな」
「アシュ様は戦争についての教えを受けていましたか?」
「いや、全くだ」
「そうしますと——やはり帝国には隙が生まれますね」
「……そういうことか」
私は納得しかけた。
だが――そこで、別の疑問が浮かんだ。
「……待て」
「はい?」
「そもそも、なぜ他国が父上の死を知っている?」
「……」
ダルマンが黙り込む。
「帝国内ですら、父上が亡くなったことを知っていた者は限られていたはずだ」
私のそばにいた者たち。
そして、城内にいた一部の者たち。
議会に関わる者たちでさえ、その事実を知る者は限られていた。
「それなのに、なぜ他国が……?」
「……確かに、不自然ではあります」
ダルマンは静かに答えた。
「誰かが、情報を外へ流した可能性はあるでしょう」
「誰かが……」
「はい。ただ、それが誰なのかまでは、私にも分かりません」
私は黙り込んだ。
父上の死が、どこから他国へ伝わったのか。
その答えは、今の私には分からなかった。
だが、一つだけ確かなことがある。
父上が亡くなったことで、周辺諸国から見たレオニス帝国の姿は隙のある国へと変わった。
そして、その隙を狙った国こそ――ヴォルカグリムだったということだ。
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