覆《ぎゃくてん》の一手
「……ダルマン?」
私の声に、男は馬上から静かに頭を下げた。
「随分と早い再会ですな、アシュ様」
「なぜ、ここにいる?」
「帝国軍が敵軍に包囲されたとの報せを受けましたので、急ぎ騎兵を率いて参りました」
ダルマンは馬から降りてからそう答え、背後の騎兵たちへ目を向けた。
「来てくれて助かったよ」
「お役に立てて光栄です。それに,このような場所で殿下に亡くなられても困りますからな」
ダルマンは笑いながらそう言った。
「帝都から……ここまで?」
「ええ。騎兵のみで編成しておりますので、歩兵よりは遥かに早く移動できます」
「……」
「だが、山間側から来た帝国兵は騎兵だけではなかったようだが」
「彼らは殿下が出陣する直前にレイ殿が予備として帝国領とルナリアとの国境付近で待機させていた兵士でしょうな」
私はレイの用意周到なところに感心した。
だが、すぐに一つの疑問が浮かんだ。
「……待て」
「はい?」
「どうやって、あの林を抜けてきた?」
私は、私たちが抜けてきた林へ目を向ける。
「私たちがあそこを通った時は、火矢によって道と林が燃えていた。人が通ることすら難しいほどの火だったはずだ」
それなのに――。
目の前には、無傷の騎兵たちがいる。
「馬であの中を抜けてきたというのか?」
「……?」
ダルマンは少しだけ首を傾げた。
「火、ですか?」
「ああ。あの林だ」
私は林を指差す。
「私たちはあの火に追われるようにして、こちらへ出てきたんだ」
するとダルマンは、もう一度林へ視線を向けた。
「……申し訳ありませんが」
しばらくして、ダルマンが口を開く。
「私たちが通った時、そのような場所はありませんでした」
「……何?」
「確かに火は多少残っておりましたが、騎兵が通れないほどのものではありませんでした」
私は言葉を失った。
レイとアヤも、同じように林へ目を向ける。
「そんなはずは……」
あの時の火は、確かに凄まじかった。
炎が林を覆い、近づくことすら躊躇するほどだった。
だが――。
「……火が、弱まった?」
私が呟く。
ダルマンは静かに頷いた。
「その可能性はあるでしょうな」
彼は燃え尽きかけた林を見つめる。
「しかし、なぜあれほどの火が……これほど早く」
その言葉と共に、レイが僅かに目を細めた。
「……ところで」
ダルマンがこちらへ振り返る。
「あなたは?」
その視線の先にいるのは、アヤだった。
「……私ですか?」
「はい。アシュ様やレイ殿と共にいるようですが」
アヤは一瞬だけレイを見る。
「私はアヤと申します」
「アヤ殿ですか」
「はい。少し前まで、ヴォルカグリム軍の軍師を務めていました」
その言葉に、ダルマンの表情が僅かに変わる。
「……なるほど」
だが、それ以上は何も聞かなかった。
ダルマンは再び林へ視線を向ける。
「それならば、アヤ殿ならなぜ炎が短時間で弱まったのか知っているのでは?」
「私が指揮していた作戦ですが,ここまで早く炎が弱まるのは想定外でした」
「そうですか」
ダルマンはしばらく林を眺めていた。
「一度に大量の火矢を放ったのでしょうか?」
「そのようなことは避けるよう伝えたはずなのですが……」
「ヴォルカグリムの兵士はその指示を無視したということになりますな」
「あの国の兵士は指示を無視することが多かったですから」
アヤはため息をつき,そう言った。
「ならば、最初の火勢が強かったのも納得できます」
ダルマンは淡々と続ける。
「大量の火矢が一度に油へ引火したのであれば、短時間で大きな火を起こすことができる」
「……」
「ですが、それは同時に――」
ダルマンは燃え尽きかけた林へ目を向ける。
「燃料を早く消費するということでもあります」
私は、あの時の炎を思い出した。
道を塞ぐほどの激しい火。
馬を進ませることなど、とても考えられないほどの熱。
「つまり……」
私が呟く。
「私たちは、その最初の火勢に包まれたから林へ逃げざるを得なかったのか」
「そして、ダルマンたちが通った時には、その油がかなり燃え尽きていた」
ダルマンが答える。
「ええ」
アヤが真面目で少し重たい空気を裂くように明るい声で言う。
「ヴォルカグリムの兵士が指示を無視したおかげで今は助かりましたけどね」
私は再び林へ目を向ける。
確かに、それなら説明がつく。
私たちが通った時にはその場にいることさえできなかった道を、ダルマンたちは騎兵で抜けてきた。
だが――。
「……アシュ様」
レイの声に、私は敵軍へ視線を戻した。
先ほどまで私たちに立ち塞がっていたヴォルカグリム軍が、明らかに様子を変えている。
後方から突如現れた騎兵によって、隊列は大きく乱れていた。
兵士たちは何が起きたのか理解できていないのか、周囲を見回している。
前方にいる兵士たちは帝国軍を攻めようとしている。
しかし、後方からは帝国騎兵が迫っている。
誰かが指示を出している様子もない。
「……混乱しているな」
私が呟くと、アヤが敵軍を見つめたまま答えた。
「はい」
その声には、少しだけ複雑な響きがあった。
「私がいなくなった影響もあるでしょう」
「そこまでなのか?」
「……残念ながら」
アヤは苦笑する。
「ヴォルカグリム軍は、私が指示を出して初めて一つの軍として動いていましたから」
その言葉通りだった。
今の敵軍には、明確な意思がない。
ただ目の前にいる敵を攻撃する者。
後方へ向かおうとする者。
周囲の兵士に指示を求める者。
それぞれが別々に動き始めている。
「……なるほど」
レイが敵軍を見ながら呟いた。
「これならば」
「ええ」
アヤもほぼ同時に口を開いた。
二人が顔を見合わせる。
「「今なら――」」
声が重なった。
「……ふふ」
アヤが小さく笑う。
「どうやら、考えていることは同じようですね」
「そのようだな」
レイは再び敵軍へ視線を戻した。
「先ほどまでなら、正面から戦えば数の差で押し切られていた」
「ですが、今の敵軍はその数を活かせていません」
アヤが続ける。
「ならば――」
二人の視線が、乱れた敵軍の一角へ向けられた。
「一つずつ、崩せる」
その言葉を聞いて、私は敵軍へ目を向けた。
確かに、先ほどまでとは明らかに違う。
あれほど多くいた兵士たちが、今ではそれぞれ別の方向へ動いている。
もしこのまま正面からぶつかれば、数の差は変わらない。
だが――。
「一つずつ、というのは?」
私が尋ねると、レイが答えた。
「敵軍全体を相手にする必要はありません」
レイは乱れた敵軍の中から、一つの部隊を指差した。
「まずは、あそこです」
そこには、後方から現れた騎兵への対応に追われている部隊がいた。
周囲の兵士たちと連携することもなく、ただ迫ってくる騎兵を止めようとしている。
「後方からの攻撃に意識を向けている部隊ですね」
アヤが続ける。
「ならば、その部隊と周囲の部隊との間を断つ」
「そうすれば、孤立した部隊だけを相手にできます」
レイが頷く。
「そして、その部隊を崩したら次へ移る」
「敵が立て直す前に、また別の部隊を孤立させる」
私は二人の言葉を聞きながら、戦場を見渡した。
先ほどまでなら、敵軍の数はあまりにも多かった。
だが今は、その兵士たちが一つの軍として動いていない。
ならば――。
「……敵軍の数を減らす必要はない」
二人がこちらを見る。
「一度に相手にする敵の数を減らせばいい」
「その通りです」
レイが答えた。
「今の敵軍なら、それができます」
「しかも」
アヤが敵軍を見ながら続ける。
「ヴォルカグリム軍は、誰かが全体を見て指示を出さなければ、部隊同士が協力することはできません」
「つまり、こちらが一つを攻め始めても――」
「他の部隊が助けに来るとは限らない」
アヤの言葉に、私は小さく息を吐いた。
それならば、先ほどまでの状況とは大きく違う。
数では負けている。
だが、敵軍そのものがその数を活かせない状態になっている。
「……なるほどな」
私は思わず呟いた。
すると、横からダルマンが口を開いた。
「どうやら、話はまとまったようですな」
「ダルマン」
「はい」
「騎兵はどれほど動かせる?」
「すぐに動かせる者であれば、まだ十分におります」
ダルマンは敵軍を見た。
「ただし、騎兵だけで敵軍をすべて倒せるわけではありません」
「ああ。それでいい」
私は答えた。
「必要なのは、敵軍を倒すことではない」
剣を握り直す。
「崩すことだ」
レイが静かに頷いた。
「では、参りましょう」
アヤも敵軍を見据える。
「今のヴォルカグリム軍なら、こちらの動きに対応する前に次の部隊へ移れます」
「ならば、決まりだな」
私は前方を見る。
未だに敵軍は混乱していた。
怒号が飛び交い、兵士たちはそれぞれ別々の方向へ走っている。
先ほどまで私たちを追い詰めていた軍とは、まるで別の軍のようだった。
「帝国軍、行くぞ」
私の声に、周囲の兵士たちがこちらを向く。
「今度はこちらから――」
私は剣を敵軍へ向けた。
「崩す」




