誘《みちびき》の先に
林での戦闘が始まってから少し経った頃。
帝国軍は戦場から離れるようにヴォルカグリム軍のいない方向へ移動しながら戦っていた。
「敵は、まだ追ってきています!」
「構うな!このまま後退するぞ!」
兵士たちは迫ってくる敵を退けながら、少しずつ戦場から離れていく。
林の中では、周囲の景色がほとんど変わらない。
木々が視界を遮り、炎と煙によって、どちらへ進んでいるのかも分からなくなっていた。
「……アシュ様」
レイが周囲を見渡す。
「どうした?」
「このまま後退を続けて、大丈夫でしょうか」
「分からない」
私は正直に答えた。
自分たちが今、どこにいるのか。
どちらへ向かっているのか。
それすら、もう正確には分からない。
それでも――
「少なくとも、敵のいない方向へ進むしかない」
「……はい」
レイが頷く。
先程までいた場所からは未だにヴォルカグリム軍の声が聞こえている。
私たちはその声から離れるように、さらに林の中を進んでいった。
ヴォルカグリム軍が姿を見せるたびに、兵士たちは武器を構える。
「来るぞ!」
「迎え撃て!」
剣戟が林の中に響く。
敵を退ければ、すぐに距離を取る。
だが――
「また敵だ!」
別の場所から声が上がった。
木々の向こうから、再びヴォルカグリム兵が現れる。
「くそっ……!」
帝国兵たちは疲労を隠せなくなっていた。
先ほどの平地での火攻め。
そして、この林での戦闘。
休む暇などない。
「隊列を崩すな!」
レイが叫ぶ。
「敵を退けながら後退する!」
「はっ!」
帝国兵たちは互いに支え合いながら、少しずつ後ろへ下がっていく。
だが、ヴォルカグリム軍もまた追ってくる。
いくら倒しても、また現れる。
「……おかしい」
私は周囲を見渡した。
敵は、こちらを追っている。
それなのに、なぜか真正面からぶつかってこない。
こちらが退けば、敵も距離を合わせてくる。
そして、別の場所から新たな兵士が現れる。
「アシュ様」
レイが声をかけた。
「ああ」
私は短く答える。
嫌な感覚があった。
だが――
今は立ち止まることができない。
「後退を続けるぞ」
「承知しました」
帝国軍はひたすらヴォルカグリム軍のいない方向へ向かっていた。
それからも、帝国軍は後退を続けた。
何度もヴォルカグリム軍と剣を交え、そのたびに少しずつ距離を取る。
林の中を、ただひたすらに進んでいく。
「……まだ続くのか」
兵士の一人が息を切らしながら呟いた。
「弱音を吐くな! もう少しだ!」
別の兵士が声を上げる。
だが、誰も本当にあとどれだけ進めばいいのか分かっていない。
木々は途切れることなく続いている。
炎に照らされた景色も、煙に覆われた空も、どこか同じように見えた。
それでも――
「……アシュ様」
レイは私たちが進む方向の先を指差した。
「何だ?」
「あそこを」
目を凝らす。
木々の隙間から、光が差し込んでいた。
「……開けているな」
「はい」
兵士たちにも、それが見えたらしい。
「林を抜けられるぞ!」
その声に、兵士たちの表情がわずかに緩む。
「急げ!」
帝国軍は最後の力を振り絞り、木々の間を抜けていく。
やがて――
視界が、一気に開けた。
「……っ」
誰もが安堵のため息をつき、足を止めた。
私も足を止める。
林の外には、広い平野が広がっていた。
先ほどまでいた場所とは違う。
炎もない。
煙も、先ほどより薄い。
「……やっと、抜けたか」
私は小さく呟いた。
兵士たちも、次々と林の外へ出てくる。
誰もが疲れ切っていた。
だが――
「……待ってください」
レイの声がした。
「どうした?」
レイは答えず、遠くを見つめている。
私も、その視線の先へ目を向けた。
そこには――
高く聳え立つ砦があった。
決して帝国領のものではない。
そしてその手前に軍勢が隊列を成して並んでいた。
「……何だ、あれは」
兵士の一人が呟く。
誰も答えない。
ただ、目の前の光景を見つめていた。
砦の前に並ぶ兵士たち。
その数は――多い。
私たちがこれまで戦ってきた兵士たちとは、比べものにならないほどだった。
「……レイ」
「はい」
「あれは……」
私は目を細めた。
隊列の中央で、風にはためく旗。
見覚えのある紋章が描かれている。
「……ヴォルカグリム」
その名を口にした瞬間。
背後から、兵士たちの声が聞こえた。
「敵襲!」
振り返る。
林の中から――
先ほどまで戦っていたヴォルカグリム軍が、次々と姿を現していた。
「……っ」
私は再び前を見る。
目の前には、すでに隊列を整えた大量のヴォルカグリム軍。
そして――
背後にも、敵。
「アシュ様……」
レイの声が、響いた。
私は何も答えられなかった。
ただ一つ。
ようやく、理解し始めていた。
私たちは――
追われていたのではない。
追い込まれていたのだ。
私は、周囲を見渡した。
前には、ヴォルカグリム軍。
後ろにも、ヴォルカグリム軍。
そして――その間に、私たちはいる。
「……いつからだ」
思わず、呟いていた。
「アシュ様?」
「いつから、私たちはこの場所へ向かわされていた?」
レイが黙り込む。
私は、ここまでの道のりを思い返す。
平地での火攻め。
林へ追い込まれたこと。
そして、何度も現れたヴォルカグリム軍。
私たちは、敵のいない方向へ逃げていた。
そう思っていた。
だが――
「……違う」
私は、目の前の軍勢を見つめた。
「私たちは、敵のいない方向へ逃げていたんじゃない」
「……では?」
「敵のいない方向へ――逃がされていたんだ」
その言葉に、レイの表情が変わった。
林の中で現れた敵兵たち。
こちらが後退すると、深追いすることなく距離を保っていた。
まるで――
私たちが進む方向を、少しずつ絞るように。
「……最初から、ここへ誘導するつもりだったのか」
レイが呟く。
私は答えなかった。
ただ、目の前に並ぶ軍勢を見つめる。
ここまで来てようやく分かった。
あの林での戦いも。
すべて、この場所へ私たちを追い込むためのものだったのだ。
私は、前方に並ぶ軍勢を見つめた。
「……レイ」
「はい」
「どうする?」
レイはしばらく周囲を見渡していた。
そして――
「右へ向かいましょう」
「右?」
「はい」
レイは短く答えた。
「賭けです」
「……賭け?」
「ここまで敵に追い込まれた以上、敵がこちらの進路を完全に読んでいる可能性は高いでしょう」
レイは前方の軍勢を見つめる。
「ならば、奴らが想定していない方向へ動くしかありません」
「なぜそれで右へ向かうことになる?」
「私たちから見て左には山間ルートがあるはずです」
「敵は帝国軍がそこへ向かうことまで想定していると」
「はい」
「だが、右も敵が待ち構えているかもしれない」
「その可能性もあります」
レイは頷いた。
「だからこそ、賭けです」
確かな根拠があるわけではない。
それでも――
今の状況で立ち止まることだけはできなかった。
「分かった」
私は頷く。
「右へ行こう」
「はっ!」
帝国軍が一斉に右へ進路を変える。
その動きを――
ヴォルカグリム軍は、ただ静かに見つめていた。
◇
ヴォルカグリム軍司令部にて——
「山間側へは行かなかったですか。帝国軍は何を考えているのでしょうか」
「まぁ、山間側へ行っても我が軍が待機しておりましたがね」
一人の兵士が笑いながら言った。
「無策であのような行動に出るとは考えられないですね」
「帝国軍も大したことないですなぁ」
ヴォルカグリム軍の将軍が言った。
「そうかもですね」
(私無しでは絶対勝てない無能どもが何を勘違いしてるんだ)
「ところで、頼んでおいた人探しは終わったのですか?」
「いえ、アヤ様からの頼み事なのでこの戦いに参加していない兵が総出で探していますが、発見には至っておりません」
「そうですか。では気長に待つとしましょう」
(人探しすらまともにできないのか!あの方さえ見つかればこんな弱い国から即刻離れてやれるのに!)
◇
帝国軍は、右へ向かって進み始めた。
目の前に並ぶヴォルカグリム軍から、少しずつ距離が離れていく。
「……追ってきませんね」
兵士の一人が後ろを振り返る。
「気にするな! このまま進め!」
レイが声を上げる。
兵士たちは足を止めることなく進んでいく。
しばらくすると、平地だった地形が少しずつ変わり始めた。
「……アシュ様」
レイが前方を見る。
「ああ」
道幅が、徐々に狭くなっている。
「少し、嫌な感じがしますね」
「……そうだな」
私は足を緩めた。
「この先に何がある?」
「まだ確認できません」
レイが答える。
それでも、帝国軍は進むしかなかった。
後ろにはヴォルカグリム軍がいる。
立ち止まれば、追いつかれる。
「進め!」
兵士たちが再び歩を進める。
そして――
「……っ!」
先頭の兵士が、突然足を止めた。
「どうした!」
レイが叫ぶ。
兵士は前方を指差した。
「……道が、ありません」
私はその言葉を聞き、前へ出る。
そして――
目の前に広がる光景を見て、息を呑んだ。
「……崖、か」
そこから先には、大地がなかった。
深い谷が、目の前を横切っている。
帝国軍の足が、一斉に止まった。
「……どうする?」
兵士の一人が不安そうに呟く。
その声に答えるように、後方から足音が響き始めた。
「来るぞ!」
視線の奥から、ヴォルカグリム軍が姿を現す。
逃げ道はない。
前には崖。
後ろには敵。
「……レイ」
「はい」
レイはすぐに周囲を見渡した。
そして――
「ここで迎え撃ちます」
「ここで?」
「はい」
レイは崖を背にするよう、兵士たちへ指示を出す。
「敵が一度にこちらへ来られる数は限られます!」
「はっ!」
「隊列を崩すな! 前方だけを見ろ!」
兵士たちが一斉に武器を構える。
やがて――
「来るぞ!」
ヴォルカグリム軍が一斉に駆け出した。
「迎え撃て!」
レイの声が響く。
次の瞬間、両軍が激突した。
「うおおおおっ!」
剣と剣がぶつかる。
帝国兵たちは、崖を背にして踏みとどまった。
敵の数は多い。
だが、正面から来る敵しか相手にできない以上、その数を一度にぶつけることはできない。
「押し返せ!」
「隊列を崩すな!」
帝国兵たちは互いに支え合いながら、敵を押し返していく。
私は前線へ出て、迫ってくる敵を斬り伏せる。
レイもまた、兵士たちの間を駆けながら戦況を見ていた。
「左、交代!」
「右はそのまま維持しろ!」
その指示に合わせ、兵士たちが動く。
敵が押し込んでくれば、別の兵が前へ出る。
疲れた兵は後ろへ下がる。
少しずつではあるが――
帝国軍は、持ち堪えていた。
「……まだいける!」
兵士の一人が叫ぶ。
その声に、周囲の兵士たちも奮い立つ。
だが――
私は、戦場の向こうを見つめていた。
敵は、まだいる。
いくら倒しても、その後ろから新たな兵士が現れる。
こちらには、補充がない。
「……長くは持たないな」
私は小さく呟いた。




