衆《ひとびと》の願い
ヴォルカグリム軍の足音が、遠ざかっていく。
それでも、誰一人としてすぐには動かなかった。
しばらくして、ようやく周囲を確認した男が小さく息を吐いた。
「……行った、のか?」
「まだ分からない。声を出すな」
誰かがそう言う。
町に残された人々は、互いに顔を見合わせながら、息を潜めていた。
先ほど連れていかれた人たちの姿は、もうどこにもない。
残されたのは――ただ、静寂だけだった。
「……このままじゃ、また来る」
一人の男が呟いた。
「次は……ここに隠れている人たちまで見つかるかもしれない」
「じゃあ、どうすれば……」
誰も答えられなかった。
逃げる場所など、もうほとんど残されていない。
ここへ来るまでにも、いくつもの町を通ってきた。
そのどこもが、ヴォルカグリム軍によって蹂躙されていた。
だからこそ、この町へ逃げてきた。
――ルミアを頼って。
やがて、一人の老人がゆっくりと口を開いた。
「……ならば」
その視線が、ルミアへ向けられる。
「ルミア様だけでも……逃がせないだろうか」
「……え?」
ルミアが目を見開いた。
「アシュ様。あなたなら……彼女を連れて、この町を出られるのではないですか?」
「…………」
私は答えなかった。
確かに、今ならまだ可能かもしれない。
ヴォルカグリム軍が町に戻ってきたばかり。
混乱している今なら、隙を見て抜け出せる可能性はある。
けれど――。
「待ってください」
ルミアが静かに口を開いた。
「私は行きません」
「ルミア様……」
「みんなを置いて、私だけ逃げるなんて……できません」
その声には、迷いがなかった。
「でも、あなたには生きていてほしい」
一人の女性が言った。
「私たちが、そう願っているんです」
「……どうして」
「どうしてって……」
女性は少しだけ笑った。
「あなたが、私たちを何度も助けてくれたからです」
別の男が続ける。
「怪我をした時も、家族を失って途方に暮れていた時も……あんたは俺たちを見捨てなかった」
「だから今度は、私たちがあなたを助けたいんです」
「違います……」
ルミアが首を横に振る。
「私は……そんな大したことをしたわけじゃ……」
「それでもいいんだ」
老人が言った。
「私たちにとっては、それが全てだったんだよ」
「…………」
ルミアは何も言えなくなった。
私はそんな彼女を見つめながら、黙っていた。
誰も「自分たちを助けてほしい」とは言わない。
ただ――。
ルミアに生きてほしい。
それだけを願っている。
「……アシュ様」
老人が、私へ向き直った。
「どうか……ルミア様だけでも、連れて逃げてください」
その言葉が、静かな空間に落ちた。
「私たちは……それを望んでいます」
「…………」
私は目を伏せた。
ルミアは、今も首を横に振っている。
「私は……みんなと一緒にいます」
その声は震えていた。
それでも、決して折れなかった。
「私だけ生き残るなんて……できません」
「ルミア様が逃げる時間を稼ぐためならなんだってしますよ」
誰かが、そう呟いた。
その言葉に、その場にいた全員が静かに頷いた。
私は、もう一度周囲を見渡した。
ここにいる人々は、もう分かっている。
この町に、長くはいられない。
それでも彼らは、自分たちではなく――ルミアの生きる道を選ぼうとしている。
「…………」
私は拳を握った。
ルミアを連れて逃げる。
それだけなら、決して難しいことではない。
ヴォルカグリム軍の動きを見ながら、町を抜ける道を探せばいい。
問題は、その先だった。
ルミアだけを連れて、この町を離れる。
それは、本当に正しいことなのだろうか。
私は、周囲にいる人々を見渡した。
誰もが疲れ切っている。
家を失い、故郷を追われ、それでも生きるためにここまで逃げてきた人たちだ。
そんな人たちを残して、ルミアだけを連れていく。
その考えが、どうしても引っかかった。
ふと、以前ダルマンから聞いた言葉が頭をよぎる。
——人を助ければ、それを見た者たちも助けを求めるようになる。
確かに、そうなのかもしれない。
一人を救えば、次の一人を。
その次には、また別の誰かを。
そうしていけば、いつか全ての人を救わなければならなくなる。
だからこそ、目の前の一人を助けることだけを考えるのではなく、もっと大きなことを考えなければならない。
私は、そういうものだと思っていた。
けれど――。
「……違う」
思わず、声が漏れた。
「アシュ様……?」
ルミアがこちらを見る。
私はもう一度、人々を見た。
誰一人として、私に助けを求めていない。
自分たちも連れていってほしいと、訴えているわけでもない。
むしろ――。
『私たちが、ルミア様に生きてほしいんです』
先ほどの言葉が、頭の中に残っていた。
自分たちが助かるためではない。
ただ、ルミアに生きてほしい。
それだけだった。
「…………」
私は、ダルマンの言葉を思い返す。
もし、目の前にいる人たちが望んでいるのが「自分も助けてほしい」ということなら、あの言葉は正しかったのかもしれない。
けれど――。
この人たちは違う。
自分たちが助かることよりも、ルミアが生きることを選んでいる。
「……人って」
私は小さく呟いた。
「自分が助かることだけを、望むわけじゃないんだな」
その言葉に、ルミアが目を伏せた。
「……みんなが優しいだけですよ」
「優しい……か」
私は、もう一度人々を見る。
その表情には、恐怖がある。
不安もある。
それでも、誰もが自分よりルミアが助かることを望んでいる。
むしろ、自分たちの願いを押しつけることすら躊躇っているように見えた。
「……ルミア」
「はい」
「君は、本当にここに残るつもりなのか?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「みんなを置いて、私だけ逃げるなんてできません」
「……そうか」
私は目を伏せた。
まだ、決められない。
ルミアを連れて逃げれば、彼女は助かるかもしれない。
けれど、この場に残る人たちはどうなる。
そんな考えが、何度も頭の中を巡っていた。
すると――。
「……アシュ様」
老人の声が聞こえた。
顔を上げると、老人は静かにこちらを見ていた。
「どうか……ルミア様をお願いします」
「……」
「私たちのことを考えて、迷っておられるのでしょう」
私は何も言えなかった。
「ですが、私たちはもう決めているのです」
老人の言葉に、周囲の人々も頷いた。
「ルミア様が、これからどこかで誰かを助けるかもしれない」
一人の男が言った。
「この町の外にも、きっとルミア様を必要としている人がいる」
「怪我をしている人も……家族を失って、一人になっている人もいるでしょう」
女性が続ける。
「その人たちのところへ行ってあげてください」
一人の女性が、ルミアを見つめながら続けた。
「ルミア様なら救えるかもしれません」
「でも……」
ルミアが小さく声を漏らす。
「私は、みんなを置いていくなんて……」
「置いていくんじゃありません」
老婆は、優しく微笑んだ。
「私たちの願いを、持っていってほしいのです」
「…………」
ルミアの目に、涙が浮かんだ。
「どうか……生きてください」
その言葉を聞きながら、私は拳を握った。
この人たちは、自分たちが助かることを願っているわけではない。
ただ、ルミアに生きてほしい。
そして、その先で誰かを救ってほしい。
それが、この人たちの願いなのだ。
私は、ゆっくりと口を開いた。
「ルミアを連れていく」
「アシュ様……!」
ルミアが驚いたようにこちらを見る。
「君が残りたいのは分かっている」
「だったら――」
「それでもだ」
私はルミアの目を見た。
「君がここに残ることを、みんなは望んでいない」
「…………」
「それに……」
私は、周囲の人々へ視線を向ける。
「君を待っている人が、これから先にもいるのかもしれない」
ルミアは何も言わなかった。
ただ、しばらく俯いたあと――。
「……はい」
小さく頷いた。
「分かりました」
その言葉を聞いて、私は立ち上がった。
「行こう」
兵士たちもすぐに立ち上がる。
「皆さん……」
ルミアが振り返る。
そこにいた人々は、誰も何も言わなかった。
ただ、静かに頷いている。
「……ありがとうございました」
ルミアは深く頭を下げた。
私たちは町の外へ向かって歩き始めた。
背中に、人々の視線を感じる。
振り返れば、きっと足が止まる。
だから私は、前だけを見た。
町の入り口まで来たところで、私は足を止めた。
近くの茂みに隠していた馬を確認する。
幸い、まだそこにいた。
「……乗るぞ」
私はそう言い、馬に乗った。
「……アシュ様」
兵士の一人が声を上げた。
「どうした?」
「後ろを」
私は振り返った。
「…………」
遠くに、町が見える。
その向こうから――。
無数の兵士が現れた。
「……ヴォルカグリム軍」
その数は、先ほどよりも多い。
こちらへ向かって、真っ直ぐ進んでくる。
「なぜ……」
私は目を疑った。
奴らは、町を離れたはずではなかったのか。
それなのに、なぜ今になって――。
「アシュ様! このままでは追いつかれます!」
「……分かった」
私はルミアを自分の馬に乗せた。
「走るぞ!」
私たちは馬に乗り、走り出した。
だが、背後から聞こえる音は、少しずつ近づいてくる。
兵士たちは、私たちを追っている。
「ヴォルカグリムの騎兵か」
兵士の一人が呟く。
「このままでは間に合いません!」
私は歯を食いしばった。
その時――。
「アシュ様!」
背後から声が響いた。
私は思わず振り返る。
「…………!」
町の人々が、こちらへ走ってくるヴォルカグリム軍の前に立ち塞がった。
「何をしている!」
私は叫んだ。
「早く逃げろ!」
「アシュ様!」
一人の男が叫び返した。
「そのまま行ってください!」
「何を言っている!」
「ルミア様をお願いします!」
別の声が響く。
私は進むのを止めようとした。
「戻ってはなりませんよ」
兵士の一人がそれを阻止するように言った。
「でも、あの人たちは――!」
「なりません」
「…………」
私は再び町の人々を見る。
その後ろから、ヴォルカグリム軍が迫っていた。
人々は恐怖に震えながらも、逃げようとはしなかった。
「ルミア様!」
老人の声が響く。
「どうか、生きてください!」
「…………!」
「あなたを必要としている人たちのために!」
ルミアの頬を、涙が伝った。
「……みんな……」
「…………先へ行きましょう」
ルミアが小さく呟いた。
私は拳を握りしめた。
戻ることはできない。
戻れば、彼らの願いを無駄にしてしまう。
それに——。
今一番辛いはずのルミアが先へ行こうと言うのだから。
「……ルミア」
「はい……」
「行くぞ」
「……はい」
私たちは走り出した。
背後から、人々の声が聞こえる。
「行ってください!」
私は一度だけ、振り返った。
町の人々が、ヴォルカグリム軍の前に立ちはだかっている。
その光景を見た瞬間――。
胸の奥が、締めつけられた。
「…………」
私は前を向いた。
そして、走り続けた。
あの人たちがくれた時間を、無駄にしないために。
やがて、背後から聞こえていた声が遠ざかっていく。
私は拳を強く握った。
今まで、戦争を止めたいと思っていた。
誰も傷つかないように。
誰も奪われないように。
けれど――。
目の前で、罪もない人たちの命が奪われていくのを見て。
それでも何もしないことが、本当に正しいのか。
私は、初めて迷った。
そして――。
その迷いの奥に、一つの感情が生まれていた。
――許せない。
ヴォルカグリムという国を。
そこにいる兵士たちを。
そして、この惨劇を生み出した戦争そのものを。
私は、拳を握りしめたまま走り続けた。




