識《し》りて、惑う
私はルミアと出会ったその日の夜、あることに気づいた。
オーガストホルンへ来る時に馬車の中で見たあの夢のような光景。
もし、あれが実際に過去に起きた出来事だったとしたら——
この戦いが始まる前に、話し合いが行われていないのはおかしい。
それに、あの時に来ていた使者。
身に纏っていたのは、間違いなくルナリア王国の紋章が入った装いだった。
ならば、なぜ——。
ルナリア王国は、レオニス帝国と話し合うことなく戦争を始めたのだろうか。
……いや。
そもそもあれは本当にルナリア王国の使者だったのだろうか。
いくら考えても、答えは出なかった。
私はその疑問を抱えたまま、眠りについた。
――夢を見ていた。
何かを追いかけるように。
何かから逃げるように。
「……違う……」
自分でも何を言っているのか分からない。
ただ、頭の中をいくつもの光景が駆け巡っていた。
「……やめろ……」
苦しさに身体を動かす。
すると——。
「……大丈夫ですよ」
優しい声が聞こえた。
その声に導かれるように、私はゆっくりと目を開けた。
「……ルミア?」
「はい」
目の前には、心配そうにこちらを見つめるルミアがいた。
「ずっとうなされていました」
「……そう、だったのか」
「何度か声をかけたのですが、なかなか目を覚まさなくて……」
そう言って、ルミアは少し困ったように笑った。
「なので、起きるまでここにいました」
「……ありがとう」
まだ頭の中には、先ほどまで見ていた光景が残っている。
けれど、ルミアの声を聞いていると、不思議と心が落ち着いていった。
昨夜まで胸を締めつけていた疑問も、今は少しだけ遠く感じる。
私はゆっくりと身体を起こした。
「……もう、大丈夫」
「本当ですか?」
「うん」
ルミアは安心したように微笑んだ。
その笑顔に、私は小さく息を吐いた。
そして、部屋の外へ目を向ける。
朝の光が、静かに差し込んでいた。
私はルミアとともに、宿を出た。
朝の街には、人の姿がほとんどなかった。
戦争に巻き込まれる前なら、もっと多くの人が行き交っていたのだろう。
けれど今は、通りを歩く人々の表情から活気が失われていた。
「……こっちです」
ルミアが先を歩く。
私はその後を追いながら、周囲を見渡した。
昨日は気づかなかったものが、次々と目に入ってくる。
壁に残された傷。
崩れた建物。
瓦礫の中から何かを探す人々。
そして——。
「……」
足が止まった。
一人の老人が、崩れた家の前に座り込んでいた。
その手には、焼け焦げた木片が握られている。
「ここに……家があったんだ」
誰に聞かせるでもなく、老人は呟いた。
「妻と……息子と……ずっと暮らしていた」
私は何も言えなかった。
少し先では、母親が子どもの手を握って歩いている。
子どもは何度も振り返りながら、壊れた街を見ていた。
「……怖い」
小さな声が聞こえた。
その一言が、胸に突き刺さった。
私は拳を握った。
戦争。
その言葉だけなら、私は何度も聞いてきた。
国同士が争い、兵士同士が戦う。
けれど——。
ここにいる人たちは、戦ってなどいない。
ただ、そこで暮らしていただけだ。
それなのに、家を奪われ、家族を失い、怯えながら明日を待っている。
「……こんなの」
声が震えた。
「……戦争なんて、やるべきでない」
ルミアが振り返る。
「アシュ様……」
「どうして……」
私は街を見渡した。
「どうして、こんなことが平気でできるんだ」
答えは返ってこなかった。
当然だ。
誰にも答えられるはずがない。
ただ、遠くから聞こえる人々の声だけが、静かな街に響いていた。
私は目を伏せる。
そして、昨夜の疑問が再び頭をよぎった。
あの使者。
ルナリア王国の紋章を身につけていた人物。
もし、本当にルナリア王国の使者だったのなら——。
なぜ、こんなことになった?
なぜ、ルナリアはレオニス帝国との話し合いを求めたのだろう。
そして——。
なぜ、帝国を攻めてきたのは、ルナリアではなくヴォルカグリムなのだろう。
私は拳を強く握りしめた。
何かがおかしい。
私が見た過去と、今ここにある現実。
その二つは、完全には重ならない。
まるで——。
どこか一箇所だけ、歴史の歯車が噛み合っていないように。
その違和感を抱えたまま、私はルミアとともに街を歩き続けた。
この町にいる人々の多くが、どこか疲れ切った表情をしている。
「……ルミア」
「はい?」
「この町にいる人たちは、ここに住んでいる人たちなのか?」
私が尋ねると、ルミアは少しだけ周囲を見渡した。
「いいえ」
「……違う?」
「この町の人もいます。でも……多くは、近くの町から逃げてきた人たちです」
「近くの町から?」
「はい。ヴォルカグリム軍が攻めてきて……逃げることができた人たちが、ここへ集まってきました」
私は黙って周囲を見渡した。
昨日見た人々。
老人も。
子供も。
家族を連れた者も。
その多くが、この町で暮らしていたわけではない。
ただ、生き延びるためにここへ逃げてきたのだ。
「ここの町は安全なのか?」
「……いいえ」
ルミアは静かに首を横に振った。
「今はヴォルカグリム軍が一時的に離れているだけです。いつ戻ってきても、おかしくありません」
「……それなのに、みんなここにいるのか?」
「行く場所がないんです」
ルミアはそう答えた。
近隣の町から逃げてきた人たちは、さらに逃げようにもヴォルカグリム軍がどこにいるか分からない。
だから、神をも縋る思いでルミアを頼ってこの町に身を寄せている。
「……それで、みんなルミアを頼っているのか」
私がそう言うと、ルミアは少し困ったように笑った。
「私にできることなんて、ほんの少しですよ」
「それでも、みんなは君のところへ来たんだろ」
「……はい」
ルミアは小さく頷いた後に続けて言った。
「だから……私にできることがあるうちは、ここにいます」
その時だった。
遠くから、重い足音が聞こえてきた。
複数。
それも、こちらへ近づいてくる。
ルミアの表情が変わった。
「……ヴォルカグリム軍です」
「……!」
町の空気が、一瞬で変わった。
誰かが叫ぶ。
「ヴォルカグリム軍が戻ってきたぞ!」
その声を合図に、人々が一斉に動き始めた。
「隠れてください!」
ルミアが声を上げる。
人々は建物の中へ入り、物陰へ身を隠していく。
先程まで人の声がしていた通りは一瞬にして静寂に包まれた。
私とルミアも、建物の陰へ身を隠す。
しばらくして――。
鎧の擦れる音が聞こえてきた。
ヴォルカグリム軍が、町へ入ってきた。
兵士たちは周囲を見渡しながら、ゆっくりと通りを進んでいく。
まるで、自分たちの町であるかのように。
「…………」
私は息を殺して、その様子を見つめる。
その時だった。
「……お母さん?」
小さな声が聞こえた。
私は声のした方へ視線を向けた。
少し離れたところに、一人の子供が立っている。
隠れるのが遅れたのだろう。
周囲を見渡し、不安そうにしている。
「……お母さん、どこ?」
その声に、ルミアが身を乗り出した。
「……!」
私はすぐにルミアの腕を掴んだ。
「待て」
「でも……!」
子供は周囲を見渡しながら、誰かを探している。
そして――。
自分の知っている人の姿を見つけたのか、別の建物へ向かって走り出した。
「……こっち!」
隠れていた住民の一人が、子供を建物の中へ招き入れる。
しかし。
「……今、声が聞こえなかったか?」
兵士の声がした。
足音が止まる。
そして――。
「……あっちの方でした気がするな」
複数の兵士が、建物へ向かって歩き始めた。
「まずい……」
私が呟く。
扉が乱暴に開かれた。
「いたぞ!」
建物の中から悲鳴が上がる。
隠れていた人々が、次々と外へ引きずり出されていく。
「嫌だ!」
「離して!」
「この子だけは……!」
その中に、先ほどの子供もいた。
「お母さん……!」
泣きながら叫ぶ。
その声を聞いた瞬間――。
「……!」
ルミアが立ち上がろうとした。
「ルミア!」
私は慌てて腕を掴む。
「離してください!」
「駄目だ!」
「でも、あの子が……!」
「今出たら、君まで捕まる!」
「それでも……!」
ルミアは必死に子供たちの方を見つめている。
その目には、恐怖よりも強いものがあった。
――助けなければ。
ただ、それだけだった。
私はルミアを押さえながら、歯を食いしばった。
「……今は、駄目だ」
自分に言い聞かせるように呟く。
「ここで出れば……隠れている人たちまで見つかる」
ルミアの身体が止まった。
けれど、その視線だけは離れない。
ヴォルカグリム兵たちは、捕らえた人々を連れていく。
子供たち。
そして、若い女性たち。
抵抗する者には容赦なく手を上げ、逃げようとする者を力ずくで押さえつけていく。
やがて、通りの一角から悲鳴が聞こえた。
そして――再び静かになった。
「…………」
誰も動けない。
誰も声を出せない。
ただ、目の前で連れていかれる人々を見つめるしかなかった。
ルミアは、唇を噛みしめていた。
その目には、涙が浮かんでいる。
「……助けられなかった」
小さく、震える声だった。
私は何も言えなかった。
正しい判断だったのか。
それすら、自信が持てない。
ただ一つ分かるのは――。
この町に残っている人々も、もう安全ではないということだった。
私はその時になって気づいた。
ここへ来るまでの道で増えていた馬車の跡。
建物を避けることなく進んでいた、いくつもの痕跡。
あれが何を意味していたのか。
ヴォルカグリム軍は、ただ町を攻め落としていたのではない。
人々を追い立て、逃げ場を奪い――
若い女性や子供たちを攫いながら、侵攻していたのだ。




