灯《やすらぎ》を与えし者
「なぜだろう」
私は、目の前の女性を見つめていた。
初めて会ったはずなのに。
この人がここにいるだけで、張り詰めていた空気が少しずつほどけていくような気がする。
「……ルミア様」
先ほどの女性が、静かに声をかけた。
「はい?」
ルミアが振り返る。
「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
「もちろんですよ」
ルミアは柔らかく微笑んだ。
その笑顔を見て。
女性の表情から、ほんの少しだけ緊張が消えた。
「……やっぱり」
兵の一人が、小さく呟く。
「何がだ?」
「いえ……」
兵は首を横に振った。
「この方がいるだけで、なんというか……落ち着きます」
私はその言葉に、ルミアを見る。
確かに。
不思議だった。
彼女は何か特別なことをしているわけではない。
ただ、そこにいる。
それだけなのに。
「……ルミア様」
今度は外から声がした。
振り返ると。
一人の老婆が、小さな籠を抱えて立っていた。
「これを」
「まあ……ありがとうございます」
ルミアが籠を受け取る。
中には、少しばかりの野菜とパンが入っていた。
「こんな時に、わざわざ……」
「こんな時だからこそです」
老婆は笑った。
「ルミア様が食べてくださらないと、皆が心配しますからな」
「私は大丈夫ですよ」
「そう言って、いつも他人にばかり分けてしまうでしょう」
老婆が苦笑する。
ルミアも困ったように笑った。
その様子を、私は黙って見ていた。
この町の人々は。
彼女を信頼している。
それも――
ただの信頼ではない。
「……一つ、聞いてもいいか?」
私が口を開く。
女性が振り返る。
「はい」
「どうして皆、彼女のことを『ルミア様』と呼ぶんだ?」
女性は少しだけ驚いたように目を開いた。
そして。
ルミアを見る。
「……それは」
女性が何か言おうとして口を閉ざすとルミア本人が、困ったように笑いながら言った。
「私にも、よく分からないんです」
「分からない?」
「はい」
「気づいたら、そう呼ばれるようになっていましたから」
「……気づいたら?」
「ええ」
その答えに。
私はますます疑問を抱いた。
すると。
先ほどの老婆が、懐かしそうに口を開いた。
「昔の話ですな」
「昔?」
「あの頃は、まだ何もなかった」
老婆は遠くを見るように目を細める。
「戦争もなかった。町も、今よりずっと穏やかでした」
そして。
ゆっくりと話し始めた。
「ルミア様がこの町に来てから、しばらく経った頃のことです」
――――――――――
「……やっぱり、あの人は普通じゃない」
ある日の夕暮れ。
町の外れで。
数人の男たちが、ルミアの姿を遠くから見つめていた。
どの男も身体が大きい。
腕も太く。
この町でも、特に力の強い者たちだった。
「普通じゃないって?」
一人が聞き返す。
「見てみろよ」
男はルミアを指差す。
彼女は道端で、泣いている子供の隣に座っていた。
何かを話している。
すると。
さっきまで泣いていた子供が、少しずつ笑い始めた。
「……あんなふうに、人を落ち着かせられるか?」
「それは……」
男は言葉を詰まらせる。
「俺には無理だ」
別の男も頷いた。
「俺だって無理だ」
しばらく。
誰も口を開かなかった。
やがて。
一人の男が、冗談とも本気ともつかない声で言った。
「……天使なんじゃないか?」
「は?」
「天から、この町に降りてきた天使」
「馬鹿言うな」
笑い声が起きる。
だが。
その言葉を。
誰も完全には否定できなかった。
それから。
少しずつ。
その話は町に広がっていった。
『ルミア様がいるなら大丈夫』
『あの人はきっと普通の人じゃない』
『まるで天使みたいだ』
いつしか。
人々は彼女を敬うようになった。
そして。
「ルミア様」
そう呼ばれるようになった。
やがて。
誰かが言った。
『教祖様、と呼んだ方がいいんじゃないか』
その言葉さえ。
いつの間にか町に定着していた。
――――――――――
「……つまり」
私は老婆を見る。
「ルミアさん自身が、宗教を作ったわけではないのか?」
「もちろんです」
女性が答えた。
「ルミア様は、そんなことを一度も望んでいません」
「むしろ本人が一番困っていましたからな」
老婆が笑う。
ルミアは少し恥ずかしそうに俯いた。
「……本当に、困りましたよ」
「ですが」
女性が続ける。
「私たちにとっては、それくらい大切な方なんです」
私は黙ってルミアを見る。
彼女は何も言わなかった。
ただ、困ったように笑っている。
自分が特別な存在だなんて。
少しも思っていないようだった。
その時。
私はふと気になった。
「……その男たちは?」
老婆の笑顔が消えた。
女性も俯く。
「……男たち?」
「さっき話していた、最初に彼女を天使だと言った人たちだ」
誰も答えない。
部屋の中に。
沈黙が落ちた。
やがて。
女性が小さく口を開いた。
「……もう、いません」
「いない?」
「はい」
「なぜ?」
女性は答えなかった。
代わりに。
ルミアへ視線を向ける。
その表情には。
言葉にできない悲しみが浮かんでいた。
「……あの人たちは」
女性がゆっくりと言葉を続ける。
「最後まで、ルミア様を守っていました」
「最後まで?」
「はい」
私は眉を寄せる。
「何があった聞いてもいいか?」
女性はしばらく黙っていた。
そして。
「ヴォルカグリム軍が、この町へ来た時です」
その名前を聞いた瞬間。
部屋の空気が変わった。
外は明るく暖かいが、部屋の中はまるで冬場の夜中のように空気が冷たく静かだった。
そんな中、女性は口を開いた。
「彼らは、敵軍の注意を引き付けながらこことは別の方向へ走って行きました」
「……」
私はルミアを見る。
彼女は。
静かに目を伏せていた。
「男たちは、私たちに何も言いませんでした」
女性の声が震える。
「ただ、『ここにいてはいけない』と」
「……それだけ?」
「はい」
そして。
女性は続けた。
「私たちが逃げる時間を作ってくれたんです」
私は息を呑む。
「……彼らは?」
返事は。
すぐには返ってこなかった。
やがて老婆がルミアに聞こえないよう静かに言った。
「ヴォルカグリム軍が去った後に彼らが逃げた先へ向かうと、そこに彼らは横たわっていました」
私は拳を握った。
「彼らは最期までルミア様のことを心配しておりました」
「そのことをルミアさんは?」
「彼ら自身もそれを伝えることは避けたのですから……」
老婆はそう言うと黙り込んだ。
ルミアは。
本当に何も知らないようだった。
いや。
知らされなかったのだ。
彼女が自分を責めないように。
あの男たちは。
最後まで。
何も伝えなかった。
「逃げろと言われたことだけは覚えています」
ルミアが静かに口を開いた。
「……あの人たちは、優しい人たちでした」
その声はとても静かだった。
「だからきっと……最後まで、誰かを守ろうとしたんだと思います」
私は返す言葉がなかった。
戦場で命を落とす兵士を私はこれまで、何度も見てきた。
だが。
この人たちは戦うためではなく誰かを逃がすために命を使った。
「……そうか」
私は小さく呟く。
そして。
町の外を見る。
黒い煙が。
まだ遠くで上がっている。
この町にも。
この国にも。
まだ、戦争は続いている。
なのに。
目の前の彼女は。
決して逃げることなく。
ただ静かに、そこにいる。
周囲の人の心を支えている。
「……ルミア」
思わず。
名前を呼び捨てしてしまった。
彼女がこちらを見る。
「はい?」
私は。
一瞬、言葉に詰まった。
何を言えばいいのか。
分からなかった。
だから。
ただ一言だけ。
「……少し、ここにいてもいいか?」
ルミアは。
少し驚いたように目を開いた。
そして。
いつものように。
穏やかに微笑んだ。
「もちろんです」
その瞬間。
不思議と胸の奥にあった重さがほんの少しだけ軽くなった気がした。




