祖《うんめい》との出会い
今回の第10話は1万字超えと、普段よりもかなりボリュームが多くなっています。(気づいたら1万字までいってしまいました……!)
大体1話につき3,000〜4,000字程度を心がけておりますが、1・2・5話が3,000字に満たなかったので、その分の補填だと思ってじっくり読んでいただけると幸いです!
翌朝。
空が白み始めた頃。
私は数人の兵を連れ、オーガストホルンを出た。
昨日まで激戦が繰り広げられていた街とは思えないほど、朝は静かだった。
城壁の上には、今も帝国兵が立っている。
西方の砦も、まだ帝国の手にある。
その街を背にして、私たちはルナリアへ向かう街道を進んだ。
しばらくして。
国境を示す古びた石柱が見えてきた。
「殿下」
隣を進む兵が声をかける。
「この先が、国境です」
私は前方を見つめた。
石柱の向こう。
そこから先が――ルナリア王国だった。
私は馬を進める。
国境を越えた。
その瞬間。
「……ん?」
私は足元に目を向けた。
道の土に、いくつかの蹄跡が残っている。
「馬の跡……?」
兵の一人が馬から降り、跡を確認する。
「新しいものですね」
「ヴォルカグリム軍か?」
「分かりません。数も、それほど多くはありません」
私はしばらく跡を見つめた。
確かに、誰かがここを通っている。
だが――
この程度なら、軍勢と呼ぶほどではない。
「……進もう」
再び馬を走らせる。
しばらく進んだところで。
今度は、道の様子が変わっていた。
車輪の跡が増えている。
蹄跡も、先ほどより明らかに多い。
道の端には、何かを運んだらしい荷車の跡まで残っていた。
「これは……」
兵が呟く。
私は馬を止めた。
「さっきより多いな」
「ええ」
兵は地面を見ながら答える。
「かなりの数が通っています」
その跡は、すべて同じ方向へ向かっていた。
ルナリアの奥へ。
「……ヴォルカグリム軍か」
今度は、誰も否定しなかった。
だが。
周囲には、やはり兵士の姿はない。
見張りもいない。
巡回する兵もいない。
残っているのは――
軍勢が通った跡だけだった。
「妙だな……」
私は呟いた。
ルナリアはヴォルカグリムに制圧されたはずだ。
ならば、占領兵がこの辺りを警戒していてもおかしくない。
なのに。
私たちの前には、誰もいなかった。
さらに進む。
そして。
小さな村が見えてきた。
そこへ近づくにつれて、痕跡はさらに増えていった。
道は踏み固められ、両脇の草はなぎ倒されている。
複数の荷車が通った跡。
無数の蹄跡。
そして――
大勢の兵士が歩いた跡。
「……これほどの数が」
兵の一人が息を呑んだ。
私は周囲を見渡した。
これだけの軍勢が通ったのなら、村に何かしらの痕跡が残っているはずだ。
だが。
村に人の姿はない。
家の扉は開いたまま。
畑には収穫されていない作物が残されている。
建物の中さえも人は見当たらなかった。
「誰かいないか!」
兵の一人が声を上げる。
返事はない。
私は馬から降りた。
「……誰もいないのか?」
村の中を見渡す。
静かだった。
あまりにも静かだった。
そのとき。
「殿下」
別の兵が村の外れを指差した。
「まだ、続いています」
そこには――
新しい轍があった。
村を通り抜け、さらに奥へと伸びている。
その数は、これまで見たものより明らかに多かった。
「……軍勢は、この先へ進んだのか」
私はその道を見つめる。
ここまで来ても。
ヴォルカグリム軍の姿は、一人も見えなかった。
ただ。
彼らが確かにここを通ったということだけが、道に残されていた。
「行こう」
私は馬に乗り直した。
再び、馬が歩き始める。
ルナリアの奥へ。
しばらく進むと、道の様子がまた変わった。
先ほどまで残っていた蹄跡に加え、今度は大量の荷車の跡が増えている。
一台や二台ではない。
何台もの荷車が、同じ道を通った跡。
そして、その脇には馬を休ませたと思われる場所まで残されていた。
「……ここで野営したのでしょうか」
兵の一人が言った。
私は周囲を見渡す。
「これだけの軍勢が?」
「おそらく」
地面には、火を焚いた跡もいくつか残っていた。
だが。
そこにも兵士の姿はない。
「やはり、移動している……」
私は呟いた。
ヴォルカグリム軍は、ルナリアを制圧した後も止まっていない。
一つの場所を占領して、そこに兵を置く。
そういう動きではない。
まるで――
何かを追うように、進み続けている。
「殿下」
前方を見ていた兵が声を上げた。
「……煙です」
指差された先。
遠くに、細い煙が上がっていた。
私は馬を速める。
煙が近づくにつれて、建物が見えてきた。
村だった。
先ほど通った村よりも大きい。
だが。
そこにも、人の姿はほとんどなかった。
「……またか」
私は馬を降りる。
兵たちも周囲を警戒しながら続いた。
村の中を進む。
壊れた荷車。
倒れた木箱。
開け放たれた家。
そして、道のあちこちに残された軍勢の痕跡。
ここには、明らかに大勢の兵士がいた。
それなのに――
誰もいない。
「……誰かいませんか!」
兵の一人が叫んだ。
返事はない。
さらに奥へ進む。
そのとき。
「……っ」
小さな物音がした。
全員が足を止める。
「今のは?」
私は音のした方を見る。
一軒の家。
その扉の隙間から、こちらを覗いている影があった。
「大丈夫だ」
私は武器を持っていないことを示すように、両手を下ろした。
「私たちは帝国の者だ」
しばらくすると。
扉が、ほんの少しだけ開いた。
そこから顔を覗かせたのは、一人の女性だった。
こちらを見ている。
だが、その表情には安堵よりも――恐怖があった。
「……帝国?」
「ああ」
私が答える。
女性は、しばらく黙っていた。
そして。
「……ヴォルカグリムでは、ないんですか?」
その言葉に。
私は言葉を失った。
「違う。私たちは――」
そこまで言ったところで。
女性が慌てて周囲を見渡した。
「……声を、あまり出さないでください」
「なぜだ?」
「……戻ってくるかもしれないから」
「誰が?」
女性は答えなかった。
ただ、震える手で扉を握りしめている。
私はその様子を見つめた。
そして。
初めて気づいた。
この村に人がいないのは――
皆が逃げたからだけではないのかもしれない。
「……ヴォルカグリムの兵は、ここに来たのか?」
女性はゆっくりと頷いた。
「……はい」
それだけだった。
けれど。
その一言だけで、村に残されたものの意味が少しずつ変わって見え始めた。
私は何も言わず、村の奥へ視線を向けた。
そこには――
さらに荒れた道が続いていた。
ヴォルカグリム軍の痕跡は、まだその先へ伸びている。
私は再び、前を向いた。
「……行こう」
馬に乗る。
女性が何か言おうとしていた。
だが。
結局、何も言わなかった。
私たちは村を後にした。
そして。
その先へ進むほど――
道に残る軍勢の痕跡は、さらに増えていった。
しばらく進むと。
道の様子が、再び少しずつ変わっていった。
轍が増えている。
一つではない。
いくつもの車輪が、同じ道を通った跡。
その脇には、蹄の跡も続いている。
「……さっきより増えてませんか?」
兵の一人が呟いた。
「そうだな」
私は馬を止めずに、地面を見つめた。
オーガストホルンを出てから、ずっと続いている。
ヴォルカグリム軍は、この道を通っている。
それだけは間違いない。
だが。
「これだけの数が通っているのに……」
兵が周囲を見回す。
「やはり、兵の姿がありませんね」
「……ああ」
風が吹く。
草木が揺れる。
それだけだった。
やがて。
道の脇に、何かが落ちているのが見えた。
「止まれ」
馬を止め、私は地面へ降りる。
近づいてみると――
木箱だった。
蓋は外れ、中には何も残っていない。
その周囲には、破れた布や縄が散らばっていた。
「軍の物資……でしょうか」
「たぶんな」
私は木箱を拾い上げる。
帝国のものではない。
見覚えのない紋章が刻まれていた。
「……ヴォルカグリムか」
木箱を置く。
その先を見る。
道は、さらに奥へ伸びていた。
そして。
今度は、道の脇にいくつもの轍が分かれている。
一つは東へ。
もう一つは南へ。
どちらも、かなりの数の車両が通ったようだった。
「……軍が分かれた?」
兵が呟く。
私は黙って、その跡を見つめた。
ここまで来ても。
まだ、敵兵は見えない。
ただ。
彼らが何かを運び。
何かを残し。
そして、さらに奥へ進んでいる。
そんな痕跡だけが、少しずつ増えていた。
分かれ道を越えてしばらくすると。
道の脇に、いくつかの建物が見えてきた。
村……だろうか。
先ほどの村よりも小さい。
数軒の家と、簡素な倉庫。
そして――
道の中央に、何かが散らばっていた。
私は馬を止める。
「……なんだ?」
近づいてみる。
木箱。
布袋。
空になった樽。
そのいくつかは、道の端へ乱雑に寄せられていた。
「物資でしょうか」
「そうみたいだな」
兵が周囲を見回す。
「ですが……」
言葉を止めた。
私も気づいていた。
荒らされた様子はない。
争った跡もない。
ただ。
そこにあったものが、持ち去られた。
そんな印象だった。
「……ここも、通ったんだな」
「はい」
ヴォルカグリム軍が。
また、この場所を。
私は馬を進めた。
村の中へ入る。
やはり、人はいない。
だが――
先ほどとは違った。
家の一軒に、薪が積まれている。
まだ新しい。
その隣には、水の入った桶。
「……誰か、いるのか?」
兵が小さく声を上げた。
返事はない。
私は馬から降り、家へ近づく。
扉は閉まっていた。
「失礼する」
ゆっくりと扉を開ける。
中は暗い。
家具もある。
食器も残っている。
生活していた痕跡は、確かにあった。
だが。
人だけがいない。
「……避難したんでしょうか」
兵が呟く。
「そうかもしれない」
私は部屋の中を見回した。
そのとき。
奥の壁に、小さな傷があるのが目に入った。
何かを引きずったような跡。
床にも、いくつかの擦れた跡が残っている。
私はしゃがみ込む。
「……これは?」
指で床をなぞる。
まだ新しい。
だが。
何があったのかまでは分からない。
「殿下」
外から声がした。
「どうした?」
「こちらに来てください」
私は家を出る。
兵が指差していたのは、村の先だった。
そこには、先ほどよりもはっきりとした轍が続いていた。
しかも。
一本ではない。
何台もの荷車が、同じ方向へ進んでいる。
「……かなり通っていますね」
私は黙って、その跡を見る。
ルナリアの奥へ。
奥へ。
ヴォルカグリム軍は、一体何を運んでいる。
何をしている。
そして――
なぜ、ここまで来ても。
誰一人として姿を見せないのか。
「……行こう」
私は再び馬に乗った。
答えはまだ、見つからない。
それでも。
この道の先に進めば、何かが分かる気がした。
私たちは、さらにルナリアの奥へと進んでいった。
しばらくして。
道が、再び開けた。
目の前に広がったのは――
大きな畑だった。
だが。
そこには、作物がほとんど残っていなかった。
荒らされたわけではない。
踏み荒らされた跡もない。
ただ、収穫された後のように。
綺麗に消えている。
「……ここもか」
私は馬を止めた。
畑の向こうには、いくつもの荷車が通った跡がある。
しかも。
その轍は、道だけではなかった。
畑を横切るように伸びている。
「道を外れてまで……?」
兵が呟く。
私はその跡を目で追った。
畑の先には、小さな倉庫がある。
扉は開いていた。
中には何もない。
「食料を運んだ……?」
「おそらく」
兵が答える。
私は倉庫の中を見回した。
棚。
木箱。
空になった袋
そして――
壁際に残された、小さな麦の粒。
「かなりの量を持っていったみたいですね」
「……ああ」
それだけなら。
軍が進軍するための物資を集めた。
そう考えることもできる。
だが。
私はふと、先ほどまでの道を振り返った。
村。
荷車。
畑。
そして、この倉庫。
すべてが同じ方向へ繋がっている。
「……ヴォルカグリム軍は、ただ進んでいるだけじゃない」
「殿下?」
「何かを集めながら進んでいる」
口にしてから。
自分でも、その言葉が妙に引っかかった。
何を。
どこへ。
そして――
なぜ、そこまでしている。
その答えは、まだ分からない。
「殿下!」
突然、前方から兵の声が響いた。
私は顔を上げる。
「どうした?」
「道の先に、何かあります!」
兵が駆けてくる。
「人影か?」
「いえ……」
兵は首を横に振った。
「煙です」
私は前方を見る。
確かに。
遠くの空に、細い煙が一本だけ上がっていた。
「……煙?」
火事だろうか。
それとも――
私は馬を進めた。
兵たちも続く。
煙は、少しずつ大きくなっていった。
そして。
その向こうに――
新たな建物の影が見え始めた。
煙の正体を確かめるため、私たちはさらに馬を進めた。
近づくにつれて。
鼻を刺すような匂いが、風に混じり始めた。
「……何の匂いだ?」
兵たちも気づいたようだった。
誰も答えない。
さらに進む。
すると。
道の脇に、小さな建物が見えてきた。
煙は、その裏から上がっている。
私は馬を止めた。
「殿下、ここは……」
兵が建物を見回す。
看板が落ちている。
文字は掠れていたが、どうやら村の共同倉庫だったらしい。
「中を確認する」
「危険では?」
「だからこそ確認する」
私は馬を降りた。
兵が先に扉を開く。
中には――
何もなかった。
棚も。
袋も。
木箱も。
すべて空になっている。
「……ここも物資を持っていかれています」
「そうだな」
私は奥へ進む。
そのとき。
裏手から、兵の声が聞こえた。
「殿下!」
外へ出る。
そこには、先ほどの煙の原因があった。
地面に掘られた浅い穴。
その中で、濡れた薪がくすぶっている。
火を起こしたというより。
何かを燃やした後に見えた。
「……何を燃やしたんだ?」
兵が周囲を探す。
灰の中から、黒く焦げた紙切れが見つかった。
私はそれを拾い上げる。
文字はほとんど残っていない。
ただ。
その端に、小さな紋章だけが残っていた。
「これは……」
兵が覗き込む。
「ルナリアの紋章ですね」
私は黙った。
ヴォルカグリム軍は。
食料を集め。
荷車を走らせ。
そして――
ルナリアの何かを燃やしている。
「……何を隠しているんだ」
呟きは、煙とともに空へ消えていった。
そのとき。
遠くから。
かすかな音が聞こえた。
「……?」
耳を澄ます。
風の音ではない。
馬の蹄でもない。
人の声――だ。
「殿下」
兵も気づいたらしい。
「向こうから聞こえます」
私は音のする方へ顔を向けた。
建物の陰。
その向こうに続く道。
「行くぞ」
私たちは慎重に歩き出した。
声は。
少しずつ近づいていた。
私は足を止める。
兵たちも周囲を警戒しながら立ち止まった。
「……誰かいる」
建物の陰から、ゆっくりと人影が現れた。
一人。
いや――
二人、三人。
皆、こちらを見ている。
服は汚れていた。
顔にも疲れが滲んでいる。
そして。
私たちの姿を見た瞬間。
その表情が強張った。
「……帝国兵?」
小さな声が聞こえた。
兵たちが反応する。
だが、私は手で制した。
「待て」
私は一歩前へ出る。
「我々は君たちを傷つけるつもりはない」
返事はない。
ただ、怯えた目がこちらを見ている。
私は武器を持っていないことを示すように、両手を軽く上げた。
「私はアシュ・レオニス」
その名を聞いた瞬間。
彼らの間に、ざわめきが走った。
「……レオニス?……レオニス帝国の……」
「皇族……?」
「なぜ、ここに……」
私はその反応を見つめた。
そして。
「君たちは、ここで何をしている?」
しばらく沈黙が続いた。
やがて。
一人の男が、恐る恐る口を開いた。
「……隠れていました」
「何から?」
男は答えなかった。
代わりに。
遠くへ視線を向ける。
その先には、先ほどまで私たちが進んできた道がある。
「……ヴォルカグリム軍です」
その言葉に。
私は黙って耳を傾けた。
「何をされた?」
男の顔が強張り少し俯いた。
「……食料を持っていかれました」
「食料を?」
「はい。倉庫にあったものも、家にあったものも……残っていたものは、ほとんど全部です」
別の男が口を開く。
「家の中まで調べられました」
「……そこまで?」
「食べ物を隠していないかって」
私は言葉を失った。
兵士同士が戦う。
それが戦争なのだと思っていた。
だが。
戦っているのは、兵士だけではない。
こうして――
戦う術を持たない民まで、その影響を受けている。
「……他の村も?」
私が尋ねると。
男は静かに頷いた。
「俺たちが知っている限りでは……同じです」
「そうか……」
私は拳を握った。
「ヴォルカグリム軍は、どこへ向かった?」
男が顔を上げる。
そして。
ルナリアの奥を指差した。
「……あっちです」
「どのくらい前に?」
「昨日の夕方……」
昨日。
つまり。
私たちがオーガストホルンで戦っていた頃。
ヴォルカグリム軍の一部は、すでにここを通っていた。
「……そうか」
私は道の先を見る。
まだ、その先には何があるのか分からない。
けれど。
少なくとも一つだけ、分かった。
奴らは――
ルナリアの奥へ進んでいる。
「ありがとう」
私は男にそう告げた。
そして。
兵たちへ向き直る。
「行こう」
今度は迷わなかった。
私たちは、再び馬に乗った。
向かう先は――
ルナリアの奥。
ヴォルカグリム軍が進んだ、その先だった。
村を出てから。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
聞いた話が、頭から離れない。
食料を持っていかれた。
家の中まで調べられた。
それが、この村だけではない。
「……殿下」
隣を進んでいた兵が口を開いた。
「なんだ?」
「先ほどの村の者たちですが……」
兵は少し言葉を選ぶように間を置いた。
「我々のことを、かなり警戒していました」
「……ああ」
当然だ。
彼らにとっては、帝国もまた軍隊なのだから。
敵国の兵士が突然現れれば、恐れるのも無理はない。
私は前を見る。
道は、さらに細くなっていた。
その代わり。
道の両脇にあるものが、少しずつ増えていく。
壊れた荷車。
放置された農具。
道端に捨てられた袋。
そして――
人の暮らしがあったはずの場所に、残されたものだけが増えていった。
「……また家があります」
兵の声に、私は視線を向ける。
数軒の家が並んでいる。
だが。
どの家にも、人の気配がない。
一軒。
二軒。
三軒。
進むほど、その数は増えていった。
「……ここもか」
私は馬を止めた。
道の脇に、小さな畑がある。
作物はまだ残っている。
だが、手入れされていない。
雑草が伸び始めていた。
「つい最近まで、人が暮らしていたはずです」
兵が呟く。
「ああ」
私は畑を見つめる。
ここにいた人たちは。
どこへ行ったのだろう。
そのとき。
遠くから、何かが見えた。
「……あれは?」
道の先。
丘の向こうに――
いくつもの黒い煙が上がっている。
一本ではない。
二本。
三本。
さらに、その奥にも。
「……煙が増えてます」
兵たちの間に緊張が走る。
私は馬を止めたまま、その光景を見つめた。
あの先に。
何がある。
「殿下、どうしますか?」
私は少しだけ考えた。
そして。
「進む」
短く答えた。
「ただし、警戒を強めろ」
「はっ!」
兵たちが動く。
私も手綱を握り直した。
丘を越える。
そして――
その向こう側が、少しずつ見えてきた。
「…………」
誰も、言葉を発しなかった。
眼下に広がっていたのは――
大きな町だった。
だが。
そこには、活気がなかった。
道を歩く人影は少ない。
店は閉じられ。
家々の屋根には、ところどころ黒く焦げた跡が残っている。
そして。
町の一角から、先ほどの煙が上がっていた。
「……火事、でしょうか」
兵が呟く。
「いや」
私は首を横に振った。
煙の量が多すぎる。
一か所ではない。
町のいくつかの場所から、細い煙が立ち上っている。
「……行くぞ」
私たちは丘を下った。
町へ近づくにつれて。
道端に残されたものが増えていく。
倒れた荷車。
割れた木箱。
散らばった食器。
そして――
道の脇に、誰かが置き去りにしたような荷物。
私は馬を止めた。
「……ここまで来ているのか」
兵が答える。
「おそらく、かなり前から……」
私は何も言わなかった。
町の入り口に着いたが門は開いていた。
門番はいない。
門の近くで馬から降り、物陰に馬を隠した。
「誰かいないか!」
兵が声を上げる。
返事はない。
だが。
しばらく進んだところで。
家の陰から、こちらを見ている人影があった。
一人。
その人影は、私たちを見るとすぐに隠れた。
「待ってくれ!」
「我々は敵ではない!」
人影は出てこない。
私は少し離れた場所で足を止めた。
「帝国軍だ。君たちを傷つけるつもりはない」
しばらくして。
家の陰から、一人の女性が顔を出した。
まだ若い。
服は汚れている。
その顔には、疲れがはっきりと浮かんでいた。
女性は私たちを見つめる。
そして。
小さく呟いた。
「……帝国……?」
「ああ」
私は頷いた。
「私はアシュ・レオニスだ」
その名を聞いた女性の表情が、わずかに変わった。
だが。
安心した様子ではない。
むしろ――
戸惑っているようだった。
「……どうして、ここへ?」
私は答えた。
「この町で、何が起きているのか知りたい」
女性は黙り込んだ。
視線が、町の奥へ向く。
その先には。
黒く焦げた建物があった。
「……見れば、分かります」
そう言って。
女性は、町の奥を指差した。
私は女性が指差した先へ目を向けた。
「……行こう」
町の奥へと歩いていく。
女性も、少し離れて後ろをついてきた。
一軒目。
屋根が崩れている。
二軒目。
扉がなくなっている。
三軒目。
建物そのものが、半分ほど焼け落ちていた。
道には、まだ黒い煤が残っている。
私は足を止めた。
「……これは」
兵たちも、言葉を失っていた。
さっきまで見てきたものとは違う。
ここでは。
町そのものが、傷ついている。
「いつ……?」
私が尋ねると。
女性は俯いた。
「三日前です」
「三日前……」
「ヴォルカグリム軍が?」
女性は頷く。
「……はい」
声が震えていた。
「最初は、食料を集めていました」
私は黙って聞く。
「でも、それだけじゃありませんでした」
女性の視線が、焼けた家へ向く。
「家を調べて……人を追い出して……」
言葉が途切れる。
「逆らった人は……」
女性はそこで口を閉じた。
私は、それ以上聞かなかった。
聞かなくても。
十分に伝わっていた。
私は再び町を見る。
焼けた家。
閉ざされた店。
誰もいない道。
ここには、確かに人が暮らしていた。
それなのに。
今は、その面影だけが残っている。
「……この町の人たちは?」
「逃げた人もいます」
女性は答えた。
「でも……」
少しだけ間を置いて。
「戻ってこない人もいます」
その言葉が。
静かな町に落ちた。
「……他にも、こうなった町が?」
女性はしばらく黙っていた。
そして。
小さく頷く。
「あります」
「どこに?」
女性は町の奥を指差した。
「この先にも」
そして。
「……もっと奥にも」
私は、その指先を見つめた。
まだ。
ルナリアのすべてを見たわけではない。
それでも。
ここまで来て、ようやく分かり始めていた。
戦争は。
戦場だけで起きているわけではない。
そのとき。
近くの家から、小さな声が聞こえた。
「……教祖様は?」
女性が振り返る。
「大丈夫。まだ、あそこにいらっしゃるわ」
「ほんと?」
「ええ」
その声を聞いた子供が、少しだけ安心したように頷いた。
私はその様子を見つめた。
「……教祖?」
女性が私を見る。
「ご存じないのですか?」
「この町では何か信仰されているのか?」
そう答えると、女性は少し驚いたような顔をした。
「そう……ですか」
その直後。
道の反対側から、老人が歩いてきた。
その手には、小さな籠が抱えられている。
「これを、ルミア様のところへ」
「またですか?」
女性が苦笑する。
「わしの家では食べきれんからな」
老人はそう言って、籠を女性へ渡した。
中には、わずかな食料が入っていた。
「ありがとうございます」
女性が頭を下げる。
老人は笑って、その場を去っていった。
私は、その背中を見送る。
「ルミアというのは誰だ?」
「先ほどの教祖様と呼ばれていたお方のことです」
「……あの人も、ルミアという人を慕っているのか?」
「はい」
「何をしている人なんだ?」
女性は少し考えるように黙った。
「……いろんな人の話を聞いてくださる方です」
「それだけ?」
「それだけ……なのかもしれません」
女性は静かに笑った。
「でも、この町の人たちは、それで救われているんです」
私は黙った。
戦争で傷ついた町。
人が消えた町。
そんな場所で。
皆が口にする名前。
――ルミア。
「……不思議な人だな」
私が呟く。
女性は答えなかった。
ただ。
町の奥へ視線を向けた。
そして。
「……こちらです」
歩き始める。
私たちは、その後を追った。
町の中心から離れるほど、建物は少なくなっていった。
代わりに。
小さな家々が、道の両側に並んでいる。
その中でも。
一軒だけ、周囲の家とは少し違う建物があった。
古い。
けれど。
不思議と手入れされている。
「……ここです」
女性が足を止めた。
私は建物を見る。
「この中に?」
「はい」
女性は頷いた。
そして。
扉の前に立つ。
「……ルミア様」
小さな声だった。
すると。
中から、静かな声が返ってきた。
「……はい?」
女性が扉を開ける。
「帝国の方が来られました」
少しの沈黙。
やがて。
「帝国……?」
その声とともに。
一人の女性が、奥から姿を現した。
透き通るような水色の瞳に白金色に輝く髪。
穏やかな表情。
どこか儚げで。
それでいて。
不思議と、その場にいるだけで周囲が静かになるような雰囲気を持っていた。
彼女は私たちを見る。
そして。
少しだけ驚いたように目を開いた。
「……帝国の方が、こんなところまで?」
私は答える。
「アシュ・レオニスです」
彼女は一瞬だけ目を見開いた。
「……アシュ……様?」
ルミアは少し戸惑ったように首を傾げた。
「申し訳ありません。帝国の方とお話しするのは、初めてで……」
「いや、こちらこそ突然すまない」
「あっ、私はルミア・アステリアです。ルミアとお呼びください」
ルミアは微笑みなが言った。
すると、女性が口を開いた。
「ルミア様は、この町の皆をずっと守ってくださっています」
「守っている?」
私はルミアを見る。
彼女は少し困ったように笑った。
「そんな大したことはしていませんよ」
「ですが……」
女性が続けようとする。
「私は、ただここにいるだけですから」
ルミアはそう言って。
静かに微笑んだ。
私は彼女を見つめた。
なぜだろう。
初めて会ったはずなのに。
この人には――
妙な安心感があった。




