閑話:伊原くんはご機嫌
曲が終わり、息を吐く。
(最後のステップ、いい感じだった)
部屋の隅に置いていたタオルとペットボトルを取り、一気に水をあおった。
今日は一日オフの予定だった。そういう日の一咲は大抵寝穢いのだが、今日はどうしてか、朝五時に目が覚めてしまってそこから二度寝する気にもなれなかった。
レンジでチンをしたり、フライパンで炒めるだけの簡単な朝食を食べ終えた一咲は、マネージャーに一報入れてから、自宅からそう遠くない場所にある事務所が持っている練習スタジオに向かった。
それから一時間余りぶっ通しで、次に出す新曲のふりを踊っていた。踊りたい気分だった。
「おー、いっちゃんやってねぇ」
と、一咲が描いた汗を拭っていると、ドアが開き入ってきたのは、頭に茶毛の猫耳を持ち、猫のような笑みを浮かべる晶太だった。平日の朝ということもあり、その身にはブレザーの学生服を纏っている。
「どうしたの、晶太」
「マネさんからいっちゃんが珍しいことしてるって聞いたからさ。登校前に、見物に来た。俺んち、すぐそこだしね」
ふいに、晶太の猫目がまじまじと一咲を見つめた。
「……なんかさぁ」
「ん? なに」
「昨日のライブ終わりから、いっちゃん、機嫌よくね?」
瞬く一咲に、晶太は頭の後ろで手を組んで続ける。
「いや、ライブの後はみんなアガるけどさ。けど、いっちゃんって、あんま露骨じゃないっつうか。酒飲んでも酔ってるのかよってないのかぱっと見で分かんないタイプじゃん」
「酒って……」
「けど、昨日は明らかに花が飛んでた」
「……そう?」
「うん。気分がいいから今からちょっとネモフィラ畑行ってきます、とか言われても納得しそうなくらい」
それはちょっとよく分からないが。
「で、夜行性のくせに今日は朝練なんかしちゃって。ライブでなんかいいことあった?」
「ああ……新しいお客さん来てたなって」
「たしかに、初めての顔結構あった気がすんね。いっちゃんとあーくんが「ヘヴステ」頑張ってくれたからかな。あれ、続編やんの?」
「どうだろうね」
実のところ、千秋楽後に主演を務めたふたりだけ運営と演出家に呼び出され、続編確定の話は聞いていたが。告知タイミングを見定めている最中だからと緘口令が敷かれている。
(けど、続編か……あの子にまた会えるかな)
「ヘヴステ」を観に来てくれていた、百目鬼の半妖かもしれない子。昨日のユニットライブにも来てくれた子。しかも、一咲の名前が記されたうちわを持って。「ヘヴステ」をきっかけに一咲のファンになってくれたのだろうか。だとしたら、とても嬉しい。
(一咲〝さん〟ってうちわ、初めて見たな)
ファンは大抵、一咲のことをくんづけか呼び捨てで呼ぶが、あの子はどうやら「一咲さん」と呼ぶらしい。どんな声で呼ぶのかが、とても気になった。
「い」
「い?」
「いっちゃんが、にやけてる……!」
怪奇現象にでも遭遇したかのような驚き顔で言われて、ぱっと壁一面にある鏡に目をやれば、自分はなんともだらしない表情をしていた。寝起きだってもう少しましな顔をしている。
「な、なに、どうしたの。なにがあったの。いっちゃん」
好奇心に頬を染め瞳を煌めかせた晶太が迫ってくる。別に、あの子のことを話すのは構わないが——。
「あれ、晶太。その制服」
「え、なに? なんかついてる?」
「……ネクタイの色って、学年ごとで別れてたりする?」
「そうだけど。俺たち二年が赤。で、今の三年は青。去年の三年が緑だったから、今年の一年はそれを引き継いで緑」
「一年生に、半妖の子っている?」
「そりゃあ、それなりにいるでしょ。うちのクラスだって、四分の一は半妖だし……なに、どうしたの」
「いや……」
あのときは、その子の目や表情にばかり心を奪われていたからはっきりとは覚えていないけれど。だが、おそらく、晶太が今着ている制服と、百目鬼の半妖の子が来ていた制服は同じだ。ネクタイの色だけは違く、あの子のは緑だったけれど。
世界は狭いものだと感心するとともに、一瞬、頼んでしまいそうになった——あの子を見つけてほしい、と。
だが、見つけたところで一体どうなる。会わせてくれと頼むのか? ……会いたいという気持ちがないわけではなかった。下心があるわけではない、ただ、あの子に興味があって、話してみたいだけ。だが、一咲とて芸歴は短くない。動悸がなにであったとてそれが芸能人が一ファンに持つべき感情ではないことぐらい、分かっていた。
「……晶太。そろそろ、学校向かった方がいいんじゃない? ただでさえ芸能活動で補習三昧なのに、遅刻したら大変だよ」
「え? あ、やば」
スタジオの時計を仰いだ晶太の顔がぱっと青褪める。それから慌しく出て行こうとした晶太だったがくるりとこちらを振り返った。
「あ、そうだ、いっちゃん。これ差し入れ!」
手に持っていたビニール袋を一咲に押し付けると、今度こそ晶太は駆け足でスタジオを出て行った。
袋の中を見ると、晶太の実家であるパン屋のロゴが入ったサンドイッチが五、六個入っていた。
「多いなぁ」
といっても、一咲には余裕で食べきれる量ではるが。ただ、もう少し踊っていきたい気分だから、お昼時に頂くことにしよう。お気に入りのカフェにひさびさにランチを食べに行く予定だったけれど、それは夕方に回して。美味しいコーヒーとケーキのセットだけ頂こう。
(うん、我ながらなかなかに充実した休みだ)
それから、ふと、一咲の唇から何気ない疑問が零れた。
「あの子の好きな食べ物は何だろう」
口にしてから、ちょっぴり、面映ゆくなった。
「……あの子のこと、気にしすぎなのかな」
でも、気になってしまう。だって、その身に持つたくさんの瞳のすべてを煌めかせて、熱烈に一咲を見つめてくれたのだ。
「なんか、下手に有馬に話したら怒られそうだなぁ。これ」
本当に下心とかはないのだけれど。それでも一咲は今、人生ではじめてひとりのファンのことを執拗に気にしてしまっていて……贔屓してしまっている、かもはしれないのは事実なので。
苦笑した一咲は手に持っていた諸々を壁の隅に纏めておく。それから再び音楽を掛け直すと、また小一時間ダンスに没頭した。
***
練習スタジオを後にした晶太は学校に向かうべく、通勤通学の客がぎゅうっと詰まった電車に揺られていた。
マネージャーからは「人がたくさんいる場では一応多少の変装をしろ」と言われているが、眼鏡やマスクは妙に息苦しくて好きじゃない……し、素顔でも声を掛けられることはそう多くない。
いつかは顔を出して歩けば四方八方から声を掛けられるくらい人気の芸能人になることが、晶太の最大の目標。
そして晶太の今の目下の目標は——一咲の謎を暴いてみたい。
一咲は、冷淡なわけではないが素のテンションが大抵フラットで、興味があることにしか興味がない。そんな彼が、昨日のライブ終わりから上機嫌で珍しく朝練までしちゃっている理由。
一咲が突然向けてきた質問からしてどうやらそれには、晶太と同じ学校に通う一年、それも半妖の子となにやら関係がありそうだ。といっても、種族共学である我が校では大抵のクラスでは四分の一が半妖。特徴も聞けていないこの状態で探すのはなかなかに難しい。
だが、それでも気になる。
(とりあえず、しばらくの間一年の教室周辺を巡って調査してみっか)
わりと勘がいい自信があるから、対象に遭遇した瞬間もしかしたらびびっと来るかもしれないし。
周囲に乗客がいることも忘れて、晶太はふふんと不適な笑みを零した。




