3話
「百目鬼」
ロングホームルームが終わり、迎えた放課後。席を立とうとしたら、前の席に座る男子、犀川がこちらを振り向いた。突然のことにびっくりしたあずさはわっと肩を跳ねさせせてから、長い前髪の下で瞳を伏せる。
「な、なん、でしょうか……」
「明日、日直だろ。日誌渡しておこうと思って」
あずさのクラスでは出席番号順に一日一人ずつ日直を行っていて、その仕事のひとつに、日誌に各授業の内容やその日のクラスを記録というものがあった。「週末に纏めて確認するから、金曜当番以外は俺に提出しないでお前らの間で回してくれ」というのが担任が掲げた運用の方針だったから、声を掛けてくれたのだろう。
「あ、ありがとう、ございます」
両手でおずおずと日誌を受け取ると、男子はわずかに眉を下げた。
「同級生なんだから、敬語じゃなくていいよ……あのさ、百目鬼って、部活とかやってるの」
「え」
「なんか、急いでいる様子だったから」
「あ、えっと、その……」
「ああ、いや、話したくないなら別にいいんだ。なんか、ごめんな」
「あ」
「じゃあ、俺は生徒会あるから。また明日な」
爽やかに手を振り去っていく彼に、あずさは手を振り返せないまま見送った。
久々にクラスメイトから声を掛けてもらって、話題も振ってもらったのに、上手く答えられなかった。
こういったことはなにも今回がはじめてではない。高校に入学してから一週間以上が経っており、その間に何人かに声を掛けてもらった。だが、いずれも今と似たような展開になってしまった。他人に声を掛けられると緊張して動じてしまい、その間に相手が引いて行ってしまうのだ。
自分の情けなさに呆れと諦念を覚えるが、それでも今日は激しく落ち込むことはなかった。
犀川の言うように、あずさは急いで帰路につこうとしていた——今日、あずさは、「ヘヴステ」の大千秋楽公演を観に行く。
遥に誘われ偶然観ることになった「ヘヴ・デヴ」の2.5次元舞台——通称、「ヘヴステ」。それは、あずさにとてつもない衝撃を与えた。
終始あずさは舞台から目も意識も外すことも出来なかった。演出や構成、各キャラクターの立ち居振る舞いすべてに原作へのリスペクトが多分に込められていて、それでいて原作の話を知っている人でもきっと知らない人でも観ていて一瞬たりとも飽きの来ない作りになっていた。そして、なによりもあずさの心を奪ったのは——この作品のすべてが素晴らしくて常に舞台全体をくまなく負いたいと思いつつも、トーマが登場するとあずさのすべての目はそこに吸い寄せられた。
気づけば終演していて、遥に声を掛けられてようやく我に返ったあずさが真っ先に口にしたのは「明日もこの公演、あるんでしょうか。チケットって、まだ取れるでしょうか」ということだった。あの瞬間のあずさは対人やコミュニケーションへの苦手意識もすっかり飛んでいてただ純粋に、今すぐその情報を知りたかった。
すると、遥はぺっかーと瞳を煌めかせながら、チケット販売のサイトや、舞台運営が公式的に行っているチケットリセール……舞台に行けなくなった人がチケットを出品し再販売するサービスなどを教えてくれた。
その翌日のチケットは取れなかったのだが、幸運にも、千秋楽と呼ばれる公演のチケットをあずさは手にすることが出来た。
もう一度、トーマを生で見ることが出来る。
今日一日中、なんなら昨日からその楽しみがあずさの全身を包み、遠足前の子どものようにうまく寝付くことが出来なかった。
「あ、百目鬼くん。こっちこっち」
劇場の最寄り駅に着くと、先に到着していたらしい遥が手を振ってくれた。
あの日の別れ際、あずさは遥に声を掛けてもらい、連絡先を交換した。そして、チケットの周りのことを色々教えてもらったというのもあって千秋楽のチケットが取れたことを報告したら、自分も行くから会おうと誘ってくれた。
あずさは人の波を縫いながら、彼女に駆け寄る。
「学校お疲れ様~」
「あ、浅香さんも、お仕事お疲れ様です」
「く……」
「浅香さん?」
「いや、高校生に労わられるのってなんかいいなって」
「は、はぁ」
「百目鬼くんが物販整理券予約したのって、開場少し前くらいの時間だったよね。じゃあ、そこら辺で軽く夕飯食べておかない? 千秋楽は普段の公演よりも長くなるから、私たち側も体力要るし!」
出会った日のように二人は連れたってファミレスに入り、それぞれ注文を済ませ、ドリンクバーを汲みに行く。
そうして席に戻ったところで、遥はあずさを見て妙ににやにやとしていた。
それがどういう意図、感情の表情が分からず、あずさがおどおどとしていると、遥は「あ」と居住まいをただした。が、まだ、頬は緩んでいる。
「ごめんね、じろじろ見ちゃって」
「い、いえ……」
あずさの顔になにかついて……は、いた。目とか、余分なほどに。
「人が推しに出会う瞬間に立ち会うのはじめてだってからさ。こんなに健康にいいもんなんだね。実はあの日からことあるごとに、チケット取りたいって言ってきた百目鬼君のキラキラした表情思い出してはにやにやしてたんだよね」
(健康……?)
遥はときどき分からないことを言うが、おそらく、喜んでいるらしい。あずさが舞台を再び観劇したいと望んだから。そして、伊原一咲が演じるトーマに強く惹かれたから。
もともとトーマのことは好きだったが、舞台を観てもっと好きになった。そして、伊原一咲のことがとても気になって、初観劇後の夜、興奮で眠れないベッドの中であずさはスマホで調べた。
三歳の頃からダンススクールに通い始め、十五歳のときに大会での入賞を機に現事務所にスカウトされ芸能界デビュー。音楽番組でのバックダンサー、教育系番組やドラマ出演などを経て、次第に舞台をメインに活動していくようになる。そうして特に2.5次元作品への出演数が増えていき、いまでは2.5次元俳優の肩書で呼ばれることも多い。また、彼が二十歳の頃、つまり今から二年前に同事務所所属のタレント四人で「No⇆CK」というユニットも結成しており、そこでの動画投稿やライブ活動も精力的に行っている……らしい。
一咲の公式ホームページ、週に一度程度更新されるSNS、ファンがまとめたらしい情報サイト、動画サイトで彼が出演している動画などなどいろいろなものを見て、気づいたら朝になっていた。
インタビュー動画などで見た一咲は、穏やかで天然なところがあるひととなりだった。それでいて、興味関心のある話題になると少し早口になったり、ゲームや力比べなどの企画では負けず嫌いだったり。本人が特技としているダンスは、「ヘヴステ」公演のラストでも披露していたが、重力を操ることが出来るのかと思うほどに時に軽やかで時に重厚感があって、とてつもなくかっこよかったり。他にも知っている作品の2.5次元舞台に出ていたから配信で観てみてみたら、これまたイメージぴったりに演じていたり。
知れば知るほどにすごいと思うとと同時に、強く心が惹かれた。
「実は……月末にある「No⇆CK」のライブが、気になってまして……一般販売のチケットがわずかだけど残っているっているのを見て……」
「え、行こう」
グラタンを口に運ぼうとしていた手を止め、遥が神妙な表情を浮かべる。
「あ、いや、チケットは安いものではないから軽率に誘えるものではないんだけど。でももし、払ってもいいと思える領域にいるのであればぜひ、ぜひとも。「No⇆CK」のライブ、マジでいいから」
「浅香さんの推しも、メンバー……というか、リーダー、ですよね」
「そう、真面目で頑張り屋の頼れるリーダー、冠木有馬くん!」
「「No⇆CK」のホームページにあった、冠木さんのキャッチコピー、ですね」
「よく覚えてるね。「No⇆CK」のライブのときはね、他メンバーがメンバーの自己紹介をするの。例えば、有馬くんの紹介は一咲くんがする、みたいな。有馬くん、結成から二年経った今でもそう言われるたびに面映ゆそうにするところがかわいくって。ファンからしたら、すごいぴったりのキャッチコピーなんだけど」
「たしかにとても真面目そうで、頼りになりそうな方でした。伊原さんがちょっぴり天然なことを言ったときに、猫間さんが伊原さんに乗っかって、有馬さんが二人に鋭い突っ込みするところとか、とても面白くって」
「分かる。動画撮影中に泰良くんがうとうと舟漕ぎ出したところを根気強く起こすのとか、もう名物で。あ、あの動画は見たことある? 第六回、「No⇆CK」会議」
「いえ、まだ第三回までしか」
「後半パートに一咲くんが立てた企画プレゼンがあるの」
「えっ」
「それがかなり天然出てて、有馬くんのキレキレ突っ込みも炸裂してて。ふたりでコントしているみたいになっててすごい面白いからめちゃくちゃおすすめ」
帰ったら見なくては、と心の中のメモに刻んでいると、遥はいっそう笑みを深めた。
「百目鬼くん、一咲くんの話になると、すごいきらきらするね」
「そ、そうですか……?」
「うん。喋り方も、少し前のめりになるっていうか。推しがいる人って感じ」
「推し……なんでしょうか。僕、伊原さんの舞台、まだ一回しか見ていないですし、グッズとかも持っていないですし」
わずかに俯くあずさに、遥がこくこくと頷いた。
「私も、有馬くんに出会ってすぐの頃は似たようなこと思ってた」
「浅香さんも、ですか」
「うん。わりとすぐに遠征とかするようになったけど、それでも、現地はまだ数えられる程度にしか行けてなかったから。たしかに持っているグッズの数だったり、かけた時間やお金だったり、そういう数字は分かりやすい基準だと思う。でも、「好きって思ったらもうそれは推しなんじゃない?」って。私に舞台を布教してくれた友達は言ってたんだ」
やわらかく細んだ遥の瞳に、春陽のような光が煌めく。
「私も今は、そう思う。だってさ、有馬くんに出会って世界の色まで変わって見えたんだもん。その時点でもう、有馬くんは私の人生を語るうえで欠かせない存在なんだよ。そんなの、どうしようなく、推しだなって。百目鬼くんも、そうなんじゃない? 一咲くんに出会って、今まで知らなかったことを知ったり、調べたりしたんじゃない? つい夜更かししちゃうくらいに」
「ど、どうしてそれを」
「百目鬼くんほどじゃなくても私もそれなりに目がいいからね。髪の毛で隠れていても、その目の下にクマが隠れてできているのはお見通しなのだよ。あと、経験則」
遥の言う通りだった。普段は八時間ほど眠るあずさだが、ここしばらくは一咲について調べたり出演舞台を配信で観たりをしていて四時間程度しか眠れていない。テスト期間でさえ、ここまでの夜更かしはしたことがなかった。それでいて、普段と比べて気分はすっきりとしていて、凹んでも落ち込みきらないエネルギーまで持てていた。こんなことは、人生ではじめてだった。
まだ現実味がないというか、少しふわふわとした心地があるけれど。たしかに一咲との出会いはあずさの人生にとって特別だった。
「そっか……僕の、推し」
口にしてみると、頬がぽっと熱くなり、胸がむず痒くなる。
遥はまた「ううん、健康になる……」と呟いてから、ひとつ咳払いをした。
「百目鬼くん、今日の公演後少しだけ時間貰えたりする?」
「だ、大丈夫、ですが」
「「No⇆CK」のライブ、配信とかにはないからさ。私が持っている円盤、貸したいなって思って。うち、ここの近くだから」
「へ、そんな」
「遠慮ならしないで、私が貸したいの。動画サイトで円盤のトレーラーとかは見れるけど、やっぱり、観れるなら全部観た方がよりライブに行くか行くまいかを判断する材料になると思う。なにより、マジでいいからすごい観てほしい。なんなら一緒に鑑賞会したいくらいだけど、さすがに、密室に高校生を連れ込むわけにはいかないからね……」
円盤のトレーラー、というのは、おそらくあずさも見た。一咲のホームページ経由でユニットのライブがあることを知り、どんなことをするのだろうと調べたときに出てきたから。それで、興味を持ったから、観れるなら観てみたいとは思う。
「……どうして、そこまでしてくれるんですか。もし、その……あの、恩返し、的なことなら。してもらいすぎているというか……」
「違うよ?」
あずさが不安に思っていたことを、遥はばっさりと否定した。
「ネットには舞台について語り合える友達はそれなりにいるんだけど。リアルでは私に舞台を布教してくれた地元の子しかいなくてね。だから、東京出てから推しについて語り合える人っていなかったの。だから、百目鬼くんがはまってくれて、嬉しくって! 百目鬼くんは私にとって東京で初めてできた、友達だから!」
「とも、だち」
求めながらも触れられたことが一度もなかった、存在。それが突然目の前に現れて、あずさはびっくりして、頬の目がわずかに開いてしまった。
すぐにはっとして引かれてしまうかと青褪めるも、遥は「百目鬼くん? どうかした?」とわずかに首を傾げるのみで気にする素振りも見せない。
変わった人、だと思う。たくさんある目を羨ましいと言ってくれて。たくさんある目が開いても引かないでくれて。こんな自分を、友達だと言ってくれて。
「……ありがとう、ございます。その、よければ、お借りしても、いいですか?」
「もちろん! 参戦決めたら連絡してね。なんだったら一緒にうちわ作ったりしよっか!?」
「うちわ」
ライブというものにはうちわが必要なのだろうか。しかもお手製の。
やっぱり遥の言うことは時々分からないけれど。
だが、彼女と話しているときや、劇場にいるときは。誰もあずさの特異な容姿を指さすことなく、自分の好きにのみただ熱烈に忠実に生きている世界は。
いつもより呼吸がしやすいと、思った。




