18話
(飛行機で、あんなに酔うとは……)
遠征と大千秋楽に対する緊張と不安、それから興奮により、遠足前のこどもの如く、昨夜はろくに睡眠をとることが出来なかった。どうしようもなく自業自得な敗因である。
それでもどうにかホテルまでは無事到着し、シャワーを浴びることはできた。胃にものを入れたらちょっぴり大変なことになりそうな気がして、あずさはそのまま瞼を下ろし、一睡することにした。
目を覚ましたときには、深夜の二時だった。起きてもなお不調だったらどうしようかと思ったが、気分はだいぶすっきりしていて、喉は乾きお腹もすいていた。
飲み物はホテルに冷蔵庫に水が入っており、特定の階に自販機もあるようだが、食べ物はあいにく手元にあるのは飴程度。
自分の腹を擦り、逡巡して、あずさ身なりを整えると、外に出た。
普段であればこんな時間に出歩くことはないため、少しいけないことをしている背徳感があった。
夏の夜、空気はじっとり蒸して少し暑いが、晴れた空に輝く星々が美しい。
明日……もう、今日になっていたか。星にまつわる物語を見る日に、こんなに綺麗な星が見られるなんて。
(なんだか、ロマンチックかも)
少し楽しい気分になって、鼻歌をこぼしながら、弾んだ足取りでコンビニへ向かう。
「——百目鬼くん?」
最寄駅を挟んで北側こそは有名な観光スポットがあるものの、あずさが宿泊しているのはオフィスや住宅が建ち並ぶ閑静な南側。夜中に出歩いている人はあまりおらず、誰かが声を発せばはっきりと耳に届く。そして背後で聞こえたそれは、あずさの心臓を跳ねさせる声をしていた。
嗜好よりも先に振り返ったあずさは、呆然とした。
月に透ける金色の髪、非常に整った目鼻立ち。微笑むさまは雫を喜ぶ花のように潤いのある麗しさ。
「やっぱり、百目鬼くんだ」
そこにいたのは、あずさが大阪まで遠じする理由となったその人。
「い、ばらさん」
「こんなところで、すごい偶然だね」
だから一咲が大阪にいるのは当然と言えば当然なのだが、それにしたってどうしてこんなところに。どうして、あずさに声を——。
(伊原さんからしたら、仕事で来ている大阪で偶然、行きつけのカフェの店員を見つけた……みたいな感じなのかな)
「百目鬼くん?」
「あ、こんばんは。伊原さん。本当に、すごい、偶然ですね」
「百目鬼くんは夏休みの旅行とか?」
「は、はい! そうです、そんな感じです!」
当然あなたを身に来ましたなどと言えるわけもなく、あずさは一咲が降ってくれた言葉に全力で乗っかることにした。
刻々と何度も頷けば、一咲は口元に手を当て小さく笑う。
「そっか。でも、それにしたってこんな真夜中に高校生が出歩くのは危ないよ。旅行でテンション上がっちゃって、眠れなかった、とか?」
「むしろ、さっきまで眠っていたというか。飛行機で酔っちゃって……」
「そうなの? 大丈夫?」
顔色を窺うためか近づいてきた一咲に、あずさの心臓は弾け散りそうになる。あまりに整った目鼻立ち。ふんわりと漂う石鹸の香り。心配してくれているのにこんなにドキドキとしてしまってなんだか申し訳なく思いつつ、どうにか平生を保ちながら頷く。
「は、はい、眠ったら元気になりました。でも、お腹が空いちゃって、コンビニ行こうとしていたところで」
「そっか。じゃあ、一緒に行こう」
「えっ」
「俺……明日大事な仕事があって、ちょっと、寝つけなくて。見知った子が付き合ってくれたら落ち着くかなって。駄目かな?」
一咲はこてんと首を傾げる。夜にそっと咲く花のような笑み、やわらかく鼓膜を擽る声。果たして、この問いかけに駄目と答えられる人がいたら教えてほしい……なんて、前にも彼に対して似たようなことを思った気がする。そのうえ、あずさは、その大事な仕事の中身も知ってしまっている。
「ぼ、僕で、よろしければ……」
そうしてあずさは推しと連れたってコンビニに向かうことになってしまった。なんて珍妙な事態か。
深夜といえど、一咲が出演する「ギャラスタ」が公演されている劇場の最寄り駅周辺。あずさと同じ目的で遠征しているファンと遭遇したっておかしくない。あずさは周囲をきょろきょろと周囲や店員の視線までも警戒しつつ、迅速に買い物を済ませた。
そしてコンビニを出たらそのまま解散となるかと思いきや、一咲は「高校生を一人で帰らせられないよ」とホテルの近くまで送ると言ってくれた。申し訳なくて何度も断ったが。
「……じゃあ、連絡先交換して、無事到着したら一報くれる?」
と尋ねられてしまえば、一咲の連絡先なんてとんでもないものを貰うわけにはいかず、結局ホテルの近くまで送ってもらうことになった。
「百目鬼くんは、よく旅行するの?」
「いえ、かなり久々です。大阪も、あまりきたことがなくて」
「そっか。行ってみたいところとかある?」
ホテルまでの道のり、一咲はまるでカフェで顔を合わせるときのような雰囲気で話しかけてくれる。それに動揺と警戒に満ちていたあずさの肩の力もわずかに緩む。
「たこ焼きとか、豚まんとか、食べに行ってみたいです。お好み焼きも、お店で食べたことがないので、気になります」
「大阪ならではって感じだね。俺も食べたくなってきちゃった。前に食べに行ったお好み焼き屋さんの海鮮豚玉が美味しかったな。シーフードと豚肉がたっぷり入ってて」
「それは……美味しそうですね」
想像してついごくりとよだれを飲み込んでしまうと、一咲が小さく笑った。
「百目鬼くんって、食べること好きだよね。稀にランチ一緒に取るときも、すごく美味しそうに食べるし」
「伊原さんの方がずっと美味しそうに食べていると思います」
「そうかな」
「はい。見ていると、どれほど素敵なものを味わっているんだろうって、そそられて。つい同じものを食べたくなっちゃいます。この間も、本日のケーキセットのバスクチーズケーキを食べている伊原さんがとても幸せそうで……僕も退勤後に、注文しちゃいました」
「そう、なんだ」
不意に俯いてしまった一咲に、あずさはきょとんと首を傾げてから、は、と気づく。
「す、すみません!」
「え、なに、どうして急に謝るの」
「注文、真似してしまって……いやですよね」
「そんなことないよ!? むしろうれしい——」
ぱちりと瞬いたあずさに、一咲は「あ」といつになく抜けた声を漏らして、顔を覆った。
「……仲良くなりたいなぁって思ってる子が、俺が食べてる姿をそんな風に思って、そんなことしてくれてたなんて聞いてたら、そりゃあ、嬉しいじゃないデスカ……」
夜の中でその顔色ははっきりとは分からなかったが、ほんの少し赤らんでいるようにも感じた。
「そう、なんですか」
「そうなんです」
「そう、です、か」
以前から積極的に交流ははかり親しみを寄せようとしてくれているとは感じていた。だがそれはあくまで行きつけの店に新しく入った店員と馴染み居心地を良くしたい……といった考えによるものだと思っていた。
けれど、この反応は……もしかしたら、一咲は、一個人としてあずさと親しもうとしてくれているのだろうか。
(いや、そんな、まさか、伊原さんが。だって、伊原さんは芸能人で——)
相思ったあずさの脳裏に、かつて晶太が言ったこと過った——俺、いっちゃんのチームメイトや芸能人である前に、ただの高校生だもん。ひとりの高校生として、あずさくんとサイサイに興味を持って、友達になりたいと思ったんだよ。
「ここかな。百目鬼くんが言っていたホテル」
ぼうっとしている間に、あずさの宿泊しているホテルへと続く信号前に辿り着いていた。ちょうど青信号が点滅し、赤に変わったところだった。
「送ってくださって、ありがとうございます」
「いいえ……でも、あんまり簡単に人に自分が宿泊している場所明かしちゃ駄目だよ」
「? はい」
「分かってなさそうだなぁ」
苦笑した一咲は肩を竦める。
「百目鬼くんはいつまで、こっちにいるの」
「明日までです」
「……あのさ」
車道を通った車のヘッドライトが二人を照らす。わずかに瞳を細めた一咲が、言う。
「今日の夜……今も今日の夜だね。ええっと……十九時間後くらいの夜に、また会えたりしないかな。夕飯とか一緒に食べられたらなぁと思って」
その誘いは、やっぱり、馴染みの店の一店員に向けるものではないように感じて、あずさは少したじろいだ。
それが例え、ただの伊原一咲としての誘いだとしても、それでも……やっぱり、晶太のときとは事情が違う。あずさは一咲を推しているファンであるという事実を隠している。この秘密を抱えた状態で、彼と個人的に親しくすることはできない。
「青に変わったよ」
一咲が言う。
あずさが顔を上げると、信号はまだ赤のままだった。
きょとんと仰いでいると、一咲があずさの手を引いた。
そして一咲との距離が近づいかと思うと、彼はあずさの耳に顔を寄せ、数字の羅列を囁いた。
「覚えられた?」
「あ、の」
「もう一回言うね——」
繰り返し唱えられたそれは、どう聞いても電話番号のようだった。
「本当に青になっちゃった」
どこか残念そうに零した彼は、青緑色の光にほんのりと照らされている。
一咲は手を離すと、あずさの肩のあたりをとんと押した。
「明日の夜、もし会えそうだったら電話して。無理はしないで大丈夫」
でも、と一咲はこちらに背を向けながら言った。
「会えたら、嬉しい」




