7話
梅雨入りし、雨が降ったり止んでも曇りだったりとどんよりとした気候が続いている。
学校内はクーラーが効いているもののどうしてもじめっとした空気が蔓延り、生徒たちの雰囲気も校内の風景もこころなしか薄暗く重たい。
そんな中で、あずさは例年の同時期に比べるとずいぶんと元気だった。この頃、あずさはクラスの人たちとも少しだけ話せるようになっていった。
大抵の人とは授業や課題に関する事務的なやり取りが主だが、それでもあずさにしてはかなりの進歩だ。それに、前の席の犀川とは、休み時間にちょこちょこ他愛ないことを交わすようになった。そう、憧れの世間話ができるようになったのだ。
ゴールデンウィーク明けすぐ、あずさが勇気を振り絞って犀川に声を掛け「日直の日誌、渡してくれて、ありがとう」と伝えたら、ぽかんとした犀川が「感謝されることじゃないし、すごい時差だし」と大笑いしてくれたことがきっかけだ。
アルバイトをはじめて、前髪も少し切って、以前よりも少しだけ行動を起こしたり相手の顔をちゃんと見る勇気を持てるようになった。そしてついに学校に友達……と呼んでいいのかはまだ分からないけれど、知り合いとは呼んでもいいだろう相手ができた。
「百目鬼。今日、俺部活休みなんだけど。一緒に帰らない?」
放課後になってすぐ、犀川が声を掛けてくれた。
学校から誰かと一緒に帰る、なんて。何度夢見た出来事か。
「は、はい、よろこんで!」
「居酒屋か?」
小さく笑う犀川と一緒に教室を出ると、廊下にある男子生徒の後ろ姿が目についた。その人は、茶髪の癖っ毛に猫耳が生えていた。
(後ろ姿、すごい猫間さんにそっくりだ)
思い出すのは、先日ライブで見た晶太の素晴らしいアクロバティックパフォーマンス。それから最後の曲で二階席に現れ元気いっぱいに盛りあげていたことも——一咲とともに。
「いきなりどうした、百目鬼」
「う、ううん、なんでも、ない」
「何でもなさそうには見えないけど……」
あずさは真っ赤になった顔を両手で覆っていた。一咲。先日アルバイト先に現れた推しのことを思い出す。
とんでもない偶然により、その日だけ来店したのかと思っていた。とはいえ、心身ともにピンチで、店長に泣きそうな気持で外を掃除させてくれと訴えたことでどうにかそれ以上の接触は免れた。
だが、それ以降も二週に一度ほどのペースで一咲が現れるようになった。ある日オーナーである色に恐る恐る「あのお客さんって……常連さん、なんですか……?」と聞いたら、彼はあっさりと頷いた。
一咲が来店するたびにあずさは逃げだしたくてたまらなくなる。当然、一咲が店に来るのが嫌なわけじゃないが、あずさにとって彼は推しであり自分はファン。行きつけのカフェで自身のファンが働いている、というのはなかなかに由々しき事態ではないか。幸いにも今のところ一咲はに気づいている様子はない。
先日のライブであずさは一咲に、あれだけ近くで無数の目を浴びせてしまい、彼は受け入れ微笑んでくれたものの、奇怪な光景ではあったはずだ。だからもしかしたら一咲は自身のファンにそういった半妖がいること自体は認知している可能性はあるが……あずさは体の目さえ開かなければ凡庸な容姿をしている。だから、体の目を開かないよう、ただの店員らしく振舞おうとつとめてはいるし今のところはうまくいっている。
それでも、自分がいつぼろを出してしまうかは分からない。もしそうなったら、彼は行きつけの店に足を運びづらくなってしまうのではないか。
推しの安寧を脅かしかしたくはない。推しとファン、ステージと客席、それぞれの立場と距離を適切に守らなくてはいけない。
働き始めて早々思いがけない理由で退職すべきなのではないかとあずさは悩むこととなった。しかし自分なんかでも雇い面倒見てくれている色に迷惑はかけたくないし、せっかく頑張れていて楽しくなってきた仕事を手放すのも惜しい……とずるずる問題を咲きのばしてしまっている。おかげで昨日もカフェで一咲と遭遇してしまい、いつもように今日のおすすめを聞かれたうえに「なかなか雨止まないですね」なんて世間話を振られてしまった。それに対してあずさは「そうですね」しか返せなかった。
すぐそこにいる推しの眩しさやら、ただの店員だと信じ込んで話を振ってくれる彼に対する罪悪感やら、気の利かない自分への情けなさやらそれでも微笑んでくれる彼のやさしさそしてやっぱり眩しさやらに、あずさの心は梅雨の天気に負けず劣らずの大荒れ模様だった。
「——そこのお前!」
明朗な声が飛んできて、あずさの意識は思考の海から現実に戻る。
顔を覆っていた両手を外せば、先の茶髪の癖っ毛に猫耳が生えていた男子生徒がすぐそばにきていてこちらを向いていた——。
(ひっ)
あずさは内心で息を呑んだ。後ろ姿が晶太みたいだと思っていたその人は、顔までも晶太にそっくりだった。というか、本人か。
そんなあずさの混乱をよそに、その人はさらにこちらへと近づいてくる。
「お前のリュックについているそのキーホルダー、「コンくん」だな」
「え」
「この間のライブの物販で出したやつ」
「あ、あの」
「お前、もしかして、「No⇆CK」のファンか?」
気づけば鼻先が触れ合いそうなほどに距離を詰められたあずさは、顔を真っ青にし——。
「ひ」
「ひ?」
「人違いです!」
脱兎のごとくその場から逃げ出した。
本当は最寄り駅ぐらいまでは駆け抜けたかったのだが、根っからのインドアであまり体力のないあずさには学校の玄関までが限界だった。
とはいえ、あの人が本当に晶太だったとして、校内でたまたま見つけたファンを追いかける理由もないだろう。
だとすればわざわざ声を掛けてきたのも謎だけれど……そういえば、彼らのライブに訪れる客は女性がほとんどで、男性の姿はあまり見当たらなかった。もしかしたら男性ファンというのが珍しく感じられたのかもしれない。
思えば晶太はあずさと年齢がひとつしか変わらない。それに我が校には学年制クラスの他に単位制クラスがあり、後者に通いながら芸能やスポーツなどの活動をしている人も少なからずいるというのは聞いたことがある。晶太がこの学校の生徒でも、たしかにおかしくはない……。
(だからって、「No⇆CK」のメンバー二人とプライベートで遭遇するなんて、思いもしないよ……)
ぜえぜえと息を切らしながら、あずさは靴を履き替えようとしたところで、犀川を置いて行ってしまったことを思い出した。
連絡先なども交換していないため、メッセージを入れることも出来ない。教室まで戻るべきだろうか……と思っていると、その犀川が駆け足で玄関にやってきた。
「さ、犀川くん、ごめん、いきなり走り出して……」
「いやそれはいいけど。あの猫耳の人、なに。百目鬼くんの知り合い?」
「知り合いでは、ないんだけど」
「けど?」
「ええっと……僕が一方的に、知ってはいる?」
「さっきの様子だと向こうが一方的に知ってるっていうか、絡んでるように見えたけど」
「逃げ出すことはないでしょ。ドーメキくん」
「ひっ」
背後から両肩にとんと手を置かれた。驚いて頬の目がわずかに開いてしまう。
(あ——)
あずさはまだ学校で、大抵の人が顔に一対持つ目以外の、体に数多ある目を開いたことはなかった。
人間と妖怪、それから半妖が共生するようになって短くはないものの、やはりどうしようもない種族の違いはある。妖の血を引く存在に抵抗を持つ人間も少なからずいるし、妖が持つ特殊な能力に絡んだトラブルも年間百件以上発生している。
そういったことも踏まえ少しでもトラブルを減らすために、自己紹介の際には自身の種族を、半妖である場合にはなんの半妖であるか明かすのは世の中の暗黙の了解となっている。だからあずさも百目鬼の半妖であることはすでにクラスに知られてはいる。
だが、幼い頃のトラウマがあり、そして高校でこそはひとりぼっちを脱却したいと望んでいたあずさは、周囲にその力を決して晒さないように……気持ち悪がられないように、気をつけていた。
しかし今、あずさは頬の目を開いてしまった。親しくなりつつある犀川に、距離的にも間違いなく見られてしまっただろう。
血の気がすっと引いたあずさは、犀川の表情を確認する勇気を持てず、そのままおずおずと後ろを向く。そこにはあずさとは対照的なほどに血気盛んな晶太がいた。
「ファンにそんな反応されたのさすがにはじめてなんだけど。普通、この距離に推しがいたら黄色い歓声あげるとこじゃないの。あ、推しメンじゃないから? ドーメキくんの推しメン誰?」
思いがけない事故に加え、にこにことした笑顔とはきはきとした声にどんどん尋ねられ、あずさは目をぐるぐると回しながらたじろぐ。と、犀川があずさと晶太の間に出た。
「あの、先輩。百目鬼はあまり人と話すのが得意なタイプじゃないんで。ぐいぐいこないでやってもらえますか」
「君はドーメキくんの友達?」
「そうっすけど」
(さ、犀川くん……)
間違いなく、あずさの頬の目を見たはずなのに。躊躇いなく肯定してくれ、そのうえ庇ってくれた。
(浅香さんも……伊原さんも、受け入れてくれたのに。カフェにだってそういうお客さんはいたのに。僕、犀川くんのこと、信じられてなかった)
あずさが情けなさに肩を竦める間にも、犀川と晶太は舌戦を繰り広げる。
「俺もドーメキくんとオチカヅキになりたいんだよね。そういう相手には、多少強引でも距離詰めるべきって俺は思うけど」
「まぁ、そういうコミュニケーションでうまくいく場合もありますが。相手に因るでしょう。百目鬼が怯えてる時点で、良くないとやり方だと思います」
「えー、ドーメキくん、俺のこと怖いの?」
「明らかに怖がってるでしょう」
「お前じゃなくて、ドーメキくんに聞いてるんだけど?」
「へ、あ、えっと、こ、怖い、というか……その、適切な距離を……猫間さんは、その……と、特殊な方ですから」
「え、なに、悪口!?」
「あ、いえ、そうじゃなくて!」
私生活の空間にいる彼を芸能人である、と紹介していいのかわからずぼやけさせたら思いがけない捉え方をされてしまった。あずさがわたわたとしていると、犀川が顎に手を当てこくりと頷く。
「たしかに特殊な方には見えるな」
「さ、犀川くん」
「なんだとぉ! ドーメキくんは、あれでしょ。芸能人ってことを言いたかったんでしょ? そうだよね? ね?」
晶太はあまりにもあっさりと明かした。どうやら特段隠してはいないらしい。晶太も、思えば一咲も全くと言っていいほど変装などはしていない……バレることを気にしていないのか、それともバレないと思っているのか。少なくとも態度からして晶太は前者に見えるが。
「あ、えっと、はい……」
「芸能人?」
眉を顰めた犀川が、晶太を見る。
「この人が?」
「ちょっとぉ、なにその「嘘だろ……?」みたいな顔! これでも歌って踊れる演技も出来るハイスペックタレントなんですけど」
「ハイスペック」
「ドーメキくんのお友達はとことん失礼だな。お前、名前は?」
「犀川ですけど」
「んじゃ、ドーメキくんと、犀川くん。ちょっと俺とお茶しようぜ?」
晶太が猫耳をひくりと動かしながらにっかりと浮かべたその笑顔は、たしかにただ人ではないきらめきを持っていた。




