令嬢、相変わらず何も気付かない
「あー」
「いい…」
はぁー。もうたまらん。と、使用人は雑巾と箒を手に一方を見つめていた。本当にここは天国だ。絶対辞めない。何があっても絶対に辞めない。と、虎視眈々と辞職を狙っている不特定多数に向かって思う。
ここで働くことは比喩ではなく、今や国中の人間の憧れだった。何なら王宮よりも人気があった。待遇も良いし、仕事もやりがいがある。人間関係も良いし、何よりも主人が優しいし尊い。尊い。尊いのである。
二人の視線の先には、この家の主人とその妻がいた。主人は優秀で忙しい。あっちこっちから頼りにされてしょっちゅう外出している。奥様も沢山の人に可愛がられ、来客も外出も多い。それも下で働く者としては誇らしいのだが、事はそれだけに留まらない。疲れているだろうにそんな事を顔に出さず、束の間の休息の時間、二人は楽しそうに庭の片隅で日向ぼっこをしていた。幸せそう。可愛い。生きる糧。この光景を頭に焼き付けないと。勿論仕事はきっちりやりますので!! と、誰にともなく言い訳と宣言をして二人は暫くそのままだった。因みに目が届くところにいた使用人がもれなくその状態だったことを誰も知らない。そこにはただ幸せな空気と、それを見守る使用人の萌えだけが溢れていた。
「アイオライト様! アリアネル様!!」
その中に、唐突にそんな声が響く。そして近付いてくる影に二人は顔を上げ、使用人達は現実に引き戻された。二人の憩いの時間に何をしやがる。邪魔者は死刑!! とばかりに睨みつけるその先には王宮からの使者の姿があった。この家の主人達は王族とも懇意にしているのでこの使者の顔も皆知っている。そして格も断然向こうが上。けれど許せん! 何用じゃ!!
「…っっっ!!」
その殺気に満ちた視線があちらこちらから向いているのを使者だけが察知した。その向こうにいるこの家の主人達は急に止まった自分を不思議そうに見ている。死ぬ。使用人達をこれ以上刺激しないように彼らの元に辿り着けなければ死ぬ。
「…あの…」
恐る恐る。泣きそうになりながら使者は二人に近付いた。お邪魔しまして本当に申し訳ございません。と、主に周囲に平謝りしながら持っていた物を差し出す。
「陛下からの信書でございます」
「陛下?」
…。
…。
…。
その瞬間に、みっちみちだった殺気がすぅー…。と引いていった。国王かー。国王ならしょうがないねえ。そんな感情が伝わってくる。そのレベルじゃなかったらどうなっていたのか。使者は一命を取り留めて涙目で安堵のため息をついた。
さて。
「アオ宛じゃないの?」
「いや、連名だな」
宛名を確認して使者を見ると、そうそう、そうなんです。と彼は必死に頷く。陛下から信書? 殿下ならまだ分からなくはないけれど陛下からの信書なんて初めてだぞ。中を確認してアイオライトが呟く。
「…今すぐ王宮に来てくれってさ」
「どうされたのかしら。急いで準備しましょう」
その言葉にできる使用人達は無音で準備を始めた。
…が。
「あの、アリアネル様。陛下から言伝を預かっております。平服のままで構わないので、とにかくすぐに来るようにと」
「え? でも…」
あ?
何だと?
正気か?
と、アイオライトとアリアネル以外のその敷地の人間は思った。折角アリアネル様を飾る機会に何言ってるんだよお前。その準備をしながら色々お話しするんだよ。綺麗になったアリアネル様を皆で愛でるんだよ。嬉し恥ずかしそうな顔を見て皆で萌えるんだよ。アイオライト様にも気さくにお話して頂ける貴重な機会なんだよ。更に格好良くなって貰って綺麗なアリアネル様の横でにこにこして貰うんだよ。その為に生きてるのに? その機会を無くす? お前生きてここから出る気あるのか? その殺気が再び使者を襲う。ざわっと背筋を走った何かに使者はびくっと痙攣した。その彼には気付かない様子で心配そうにアリアネルが呟く。
「良いのかしら。そんなことして…」
「まぁ、緊急ならその方が良いだろうけど…」
でもなぁ。と、アイオライトは一人、口にはしなかったけどこう思った。何か、下らないことの予感がする。そういやこの前会った時に殿下が言ってなー。きっと「あれ」絡みだろう。だとしたら余計に着飾る必要もない。
「アリア。このまま行こう」
「え? いいの?」
「大丈夫。あと、急がないとこの人が危うい」
「?」
不思議そうな顔をしたアリアネルと魂が抜けかけた使者を連れて、アオはさっさと邸宅を後にした。
そして王宮にやってきた訳だが。
「いやー!! 絶対にいやーー!!」
通された部屋では若い女性が蹲って号泣していた。そこには国王夫妻と殿下もいておろおろと彼女を宥めている。到着したアイオライトとアリアネルは呆然とその光景を見つめた。
「そんな事言ったって…あ! ほら! アリアネルが来たよ!!」
と、王子が叫ぶ。え!? 私!? 何ですか!? と思って硬直していたらその女性はがばっと顔を上げて自分に抱き付いてきた。
「アリア―!!!」
「…ソフィー様?」
は? え? 何ですか? これは?
何とか抱き留めたアリアネルの後ろでアイオライトは、やっぱりな。の顔。こんなこったろうと思った。
「アリア!」
「はいっ」
「アリア、公爵夫人になったのよね!? じゃあもう呼べるわね!?」
「…はい?」
いきなり何の話ですか? と、聞き返す間もなくソフィアが叫ぶ。
「私の事、ソフィーって呼んで!! 今ならできるでしょうー!?」
うわぁぁぁーん! と、ソフィアは号泣しながら叫ぶ。えっと? 何の話?
「実は卒業してからソフィアの妃教育を進めてたんだけど、このまま王妃になったらアリアネルにソフィーって呼んでもらえなくなるって気付いて渋っているんだ」
「え!? 殿下とソフィー様、そういうご関係だったんですか!?」
ええー?
そこで王子とアイオライトはどん引いた。この子、本当に鈍いな。こんなに一緒にいて気付かないとかある? 全然交流のなかった周囲の人間ですら流石に気付いていたのに。…とは思ったけれども、あれだけの熱烈アプローチも気付かなかったアリアネルだ。まぁ納得。
「そんな訳で、とりあえず呼んであげて。そうすれば落ち着くと思うから」
「…え?」
そんなことできな。と、言いかけた時に後ろからアオの声が聞こえてくる。
「俺、まだ世襲してないから無位だけど」
「…」
「…」
「…」
「…」
国王夫妻と王子はそうだったー!! と、青ざめ、ソフィアは絶望した。
「じゃあ、世襲して公爵位になるまで待つ!!!」
「ぎえ」
ちょっと。そりゃないんじゃないの。と、王子は青ざめた。後ろで国王夫妻も青ざめた。いつになるか分からないのにそんなの待てない。
「いや、あのさ。そうなったらそうなったでソフィア嬢はアリアの事を呼び捨てになんかできなくなるんだよ? こっちの方が高位になるんだから。それはいいの?」
良くない事を分かっている癖にアイオライトはそんな事を言って煽る。ちょっと! 余計な事を言わないで!! と、国王家族は更に青ざめた。
「…」
ぎゃーーー!! と、ソフィアは号泣した。完全に苛められっ子と苛めっ子だ。へへん。と、笑うゲスい顔のアイオライトをアリアネルが必死に隠している。
「じゃあ、公爵家の人と結婚する!! そうすれば良いんでしょーー!!?」
「何でそんな事を言うのー!!」
自分の事を呼び捨てにして貰う為にアリアネルと結婚をしろと言った恋人である。これが本気という事も理解した。
「だったらたった今、侯爵位をアイオライトにくれてやる!! それなら良いんだろー!!?」
王子も無茶苦茶である。
「ちょっと! アオ! 何であんなこと言うのー!?」
「…くっだらねー」
心の底からそう思ってアイオライトは呟いた。本当に、何が滅亡寸前の世界だ。…はぁー。
「アリア」
「え?」
名前を呼ばれて肩を掴まれ、ソフィアに対面させられた自分にアオが言う。
「呼んでやれって。もう良いから」




