第9話:落ちこぼれ魔術師と無口な獣人と、あと一人
レナをスカウトした、その三日後。
教会の修繕は順調に進んでいた。雨漏りだらけだった天井はすっかり塞がり、腐った長椅子は新しいものに入れ替えられ、入口の雑草も綺麗に刈り取られた。フィリアの段取りは相変わらず完璧で、職人たちは予定より早いペースで作業を終わらせていく。
残るは、内装の仕上げと欠けたルミナ像の右腕の修復だけだ。
「アキ様、本日はいかがなさいますか?」
朝、教会の前でフィリアが羊皮紙の手帳を抱えながら聞いてきた。
「メンバー集めの続きだ」
俺はそう答えて、街の南を指さした。
「魔術学校の方へ行く。会いたい奴がいるんだ」
◇
魔術学校の正門前。
三日前と同じ石の階段に、ミレイ・オッシュは座っていた。
膝の上には、やはり分厚い魔術書。だが今日は、前と少し様子が違った。本を見ていない。代わりに、自分の手のひらをじっと見つめている。何かをぶつぶつと呟きながら、指先に小さな魔力の光を灯したり、消したりを繰り返していた。
「よう」
俺が声をかけると、ミレイはびくっと肩を震わせて顔を上げた。
「……っ、あなたですか」
「三日ぶりだな」
「な、なんで戻ってきたんですか」
「気が向いたら来いって言ったろ。逆だ。お前が来ないから、俺が来た」
ミレイは気まずそうに視線を逸らした。だが、その手のひらの光は消えていない。
「それ、なにやってるんだ」と俺は聞いた。
「……別に」
「魔力の光だろ。灯したり消したりして、何を試してる」
ミレイは少しの間、黙っていた。それから、観念したように小さく口を開いた。
「……あなたが言ったこと、考えてたんです」
「俺が言ったこと?」
「『魔力は出すより向けるのが難しい』って。声と同じだって」
ミレイは手のひらの光を見つめたまま続けた。
「ずっと、考えてて。それで……試してたんです。声を出すみたいに、魔力を『どこに向けるか』を先に決めてから出してみたら、どうなるのかなって」
「で、どうだった」
ミレイは顔を上げた。その目に、三日前にはなかった光があった。
「ちょっとだけ……まっすぐ飛んだ気がします。ほんのちょっとだけですけど」
俺は思わず笑った。
「いいじゃないか」
「で、でも、まだ全然です。試験で使えるレベルじゃないし、すぐぶれるし……」
「最初はそれでいい。方向が見えたなら、あとは練習だ」
ミレイは魔術書をぎゅっと握りしめた。
「……あなた、なんなんですか。先生でも何でもないのに、なんでそんなに詳しいんですか」
「前世でずっと声を出す訓練をしてたからな」
「ぜんせ……?」
「気にしなくていい。それより、聖歌隊の話、覚えてるか」
ミレイの表情がわずかに固まった。
「……歌の」
「そう。お前の声、ちゃんと使える。三日前のハミングで分かった。あれだけの音程を取れる奴は、そう多くない」
「……でも、わたし、人前で歌うなんて」
「魔術と一緒だ」と俺は言った。
ミレイが俺を見る。
「お前は魔力を『どこに向けるか』を考えたら、まっすぐ飛んだんだろ。歌も同じだ。誰に届けたいか、どこに向けたいかを決めれば、声はちゃんと飛ぶ。お前にはもう、それができる素質がある」
ミレイは長いこと黙っていた。
階段の下を、魔術学校の生徒たちが通り過ぎていく。その何人かが、座り込んでいるミレイを見て、くすっと笑った。「空砲がまた腐ってる」と、聞こえよがしの声がした。
ミレイの肩が、びくりと縮んだ。
俺はその声のした方へ目を向けた。三人組の生徒が、にやにやしながらこちらを見ている。
――ああ、なるほど。こういう環境か。
「おい」と俺は彼らに声をかけた。
「な、なんだよ」
「お前ら、魔術師か」
「そうだけど」
「いい目してるな」
三人組がきょとんとした。
「冗談だ。お前らの目は死んでる。ステージには立てない」
「は……?」
「でもこいつは違う」
俺はミレイを指さした。
「こいつの目は生きてる。お前らがどれだけ笑っても、こいつは自分の課題と向き合ってた。さっきまで、ずっと魔力の向け方を一人で練習してた。お前らがそれをやったことが、一度でもあるか?」
三人組は顔を見合わせて、ばつが悪そうに去っていった。
ミレイがぽかんと俺を見ていた。
「……なんで、そんなこと」
「事実を言っただけだ」
俺はミレイの隣にしゃがんだ。
「なあ、ミレイ。お前を『空砲』って呼ぶ奴らは、お前が何を頑張ってるか知らない。でも俺は知ってる。お前は、不発を直そうとして、ちゃんともがいてる。それは恥ずかしいことじゃない。胸を張っていいことだ」
ミレイの目が、みるみる潤んでいった。
「……っ」
「聖歌隊に来い。お前の声と魔術、両方が活きる場所だ。約束する」
ミレイは魔術書を抱えたまま、ぐしっと袖で目元を拭った。それから、小さく、でもはっきりと頷いた。
「……行きます。わたし、行きます」
「よし」
「で、でも、足を引っ張ったら言ってくださいね。すぐ抜けますから」
「抜けなくていいように、こっちが面倒見る。心配するな」
ミレイは初めて、少しだけ笑った。
二人目、確保だ。
◇
ミレイを教会へ案内する途中だった。
街の中央を抜けて東区へ向かう道すがら、細い路地の前を通りかかったとき、俺はふと足を止めた。
「……アキ様? いかがなさいました」
隣のフィリアが首を傾げる。
俺は路地の奥を見ていた。
薄暗い路地の突き当たり、積み上げられた木箱の陰に、小さな影がうずくまっていた。
子供――いや、違う。
頭に、三角の獣の耳がある。背中の後ろから、ふさふさとした尻尾がのぞいている。獣人だ。歳は十二、三くらいに見える。ぼろぼろの外套を体に巻きつけて、膝を抱えて座り込んでいた。
その子は、こちらをじっと見ていた。
正確には――俺の懐を見ていた。
「……?」
俺は自分の胸元に目をやった。
サイリウムだ。懐に入れた大閃光ウルトラオレンジが、外套の隙間からわずかに光を漏らしていた。
獣人の少女は、その光を、瞬きもせずに見つめていた。
まるで、暗闇の中で唯一の灯りを見つけた小動物のように。
「アキ様、あの子は……」と、フィリアが声を潜めた。「獣人の子ですね。この辺りでは、たまに見かけます。獣人は人間とは声帯の作りが違うため、街では疎まれることも多く……あのように、身を隠して暮らしている子も少なくありません」
「声帯の作りが違う?」
「はい。獣人の声は、人間の耳には少し変わって聞こえるそうです。それを嫌う者もいて……」
俺は路地に一歩、足を踏み入れた。
獣人の少女が、びくっと身を硬くした。逃げる構えだ。
俺は立ち止まった。それ以上は近づかず、ゆっくりと、懐からサイリウムを取り出した。
オレンジの光が、薄暗い路地をぼんやりと照らす。
少女の目が、その光に吸い寄せられた。
「……これが気になるか?」
俺は静かに聞いた。
少女は答えない。だが、その目は確かにサイリウムを追っていた。
俺はサイリウムを、ゆっくりと左右に振ってみた。
光の軌跡が、暗い路地に弧を描く。
少女の頭の耳が、ぴくりと動いた。膝を抱えていた腕が、少しだけ緩んだ。
俺はもう一度、今度はもっとゆっくりと、サイリウムを振った。コンサートで、最前列の小さな子に向けて優しくレスを送るときの、あの振り方で。
少女が、立ち上がった。
ふらり、と一歩。
また一歩。
光に引き寄せられるように、少女は木箱の陰から出てきた。そして、俺の数歩手前まで来ると、サイリウムを見上げて、じっと立ち尽くした。
近くで見ると、痩せた頬に、大きな瞳。汚れてはいるが、整った顔立ちをしていた。猫のような、銀色の髪。
「アキ様……」フィリアが息を呑む。「あの子が、自分から人に近づくなんて……」
少女は何も言わない。
ただ、サイリウムの光を見上げて、その大きな瞳をかすかに揺らしていた。
俺はしゃがんで、少女と目線を合わせた。
「この光、好きか」
少女は答えない。
でも――こくり、と、小さく頷いた。
俺は思わず笑顔になった。
「そうか。じゃあ、もっとすごいのを見せてやる。光がいっぱいで、歌がいっぱいで、楽しい場所だ。来るか?」
少女はしばらく、俺の顔とサイリウムを交互に見ていた。
それから、また、こくりと頷いた。
「よし」
俺はサイリウムを少女に手渡した――わけではなく、握らせるように、そっと差し出した。少女は両手で、宝物のようにそれを受け取った。
光を抱えた少女の顔が、ほんの少しだけ、ほころんだ気がした。
声は、まだ聞いていない。
名前も、まだ分からない。
でも、それでよかった。急ぐ必要はない。
三人目――いや、こいつはまだメンバーと決まったわけじゃないが。とにかく、大事な出会いだ。
◇
教会へ戻ると、レナがいた。
修繕の終わった礼拝堂の隅で、新しい長椅子に座り、例の木の笛を手の中で所在なげに転がしている。約束通り、見学に来たらしい。俺たちが入ってくると、レナは顔を上げた。
「遅かったな」と、レナが言った。
「悪い。寄り道してた」
そう言って、俺は後ろを振り返った。
ミレイが、緊張した面持ちで礼拝堂を見回している。その後ろに、サイリウムを抱えた獣人の少女が、半分隠れるようにして立っていた。
レナは三人をぐるりと見て、それから笛を握ったまま、ふっと息を吐いた。
「……ずいぶん、賑やかになりそうだな」
「ああ」と俺は頷いた。「賑やかになるぞ。これからもっと」
礼拝堂の奥では、修復中のルミナ像が、足場に囲まれて静かに微笑んでいた。
センターのレナ。
魔術師のミレイ。
そして、名もなき獣人の少女。
聖歌隊の輪郭が、少しずつ見えてきた。
あとは――もう一人。
なぜか俺の頭の中に、まだ顔も知らない「最後のピース」の予感が、ずっと引っかかっていた。
その正体が分かるのは、もう少し先の話だ。




