第10話:初めての「現場(お披露目)」は、教会の庭で
修繕開始から二週間。
ルミナ教会は、見違えるように生まれ変わった。
塞がれた天井。新品の長椅子。磨き上げられた石壁。傾いていた鐘楼はまっすぐに立ち直り、錆びていた鐘は職人の手で磨かれて、朝陽を受けて鈍く輝いている。入口の前の雑草は刈られ、代わりに小さな花壇ができた。これはガルドが「せっかくじゃから」と自分で植えたものだ。
そして礼拝堂の奥には――右腕の戻ったルミナ像。
石工職人が魂を込めて修復した白い右腕は、空に向かって柔らかく差し伸べられていた。まるで、ステージの上から客席に手を振るような、あの仕草だった。
「……完璧だ」
俺は礼拝堂の中央で、思わず呟いた。
箱は、整った。
「アキ様」と、後ろからフィリアの声がした。「皆さん、お揃いです」
振り返ると、礼拝堂の入口に三人が立っていた。
腕組みをして仏頂面のレナ。
魔術書を胸に抱えて緊張しているミレイ。
そして、サイリウムを両手で抱えた獣人の少女。
聖歌隊の、最初のメンバーたちだ。
「よし」と俺は言った。「じゃあ、始めるか。記念すべき初練習だ」
◇
場所は教会の庭にした。
礼拝堂の中でもよかったんだが、初日から神聖な空気に押しつぶされるより、外の方が伸び伸びやれると思ったからだ。庭といっても、修繕で出た資材がようやく片付いたばかりの、ただの広場みたいなものだが。
「最初に言っておく」
俺は三人の前に立った。
「今日は何もできなくていい。歌わなくてもいいし、踊れなくてもいい。まずは『声と体を動かすことに慣れる』。それだけだ」
「……それだけでいいのか」と、レナが眉を寄せた。
「それだけでいい。最初から全部できる奴なんていない」
「ふん」
「じゃあ準備運動からだ。俺の真似をしてくれ」
俺は両腕を大きく上に伸ばした。
前世の現場で、開演前にやっていたストレッチだ。長丁場のライブを最前列で戦い抜くには、準備運動が欠かせない。ヲタクの体は資本だ。
三人が、それぞれに腕を伸ばす。
レナは軍隊式のきびきびした動き。ミレイはおそるおそる。獣人の少女は、サイリウムを地面にそっと置いてから、俺の動きをじっと観察して、ワンテンポ遅れて真似をする。
「いいぞ。次は声出しだ」
「こ、声出し……」ミレイの肩がこわばった。
「難しいことはしない。腹に手を当てて、『あー』って伸ばすだけだ。ほら」
俺は腹から声を出した。「あーーーー」
レナが続いた。「あーーーー」
……地鳴りかと思った。
レナの「あー」は、声量が桁違いだった。庭の木から鳥が一斉に飛び立ち、隣の家の窓がカタカタと揺れた。
「……すまん」レナが気まずそうに口を閉じる。
「いや」と俺は首を振った。「すごいぞ、それ。会場の一番後ろまで届く声だ」
「……そ、そうか」
レナの耳が少し赤くなった。素直じゃない奴め。
「ほら、ミレイも」
「は、はいっ……あ、あー……」
ミレイの声は、蚊の鳴くような音だった。
だが音程が、見事に俺の「あー」と同じ高さでぴたりと揃っていた。
「聞こえたか、今の」と俺はレナに言った。
「ん? 小さかったが……」
「音の高さだ。俺と寸分違わず同じだった。こいつの耳は本物なんだ」
「ほ、ほんとですか……?」ミレイが顔を上げる。
「本当だ。声量はあとからいくらでもつく。音程は天性のものだ。胸を張れ」
ミレイが、魔術書をぎゅっと抱えたまま、こくこくと頷いた。
最後に、獣人の少女に目をやった。
少女は、じっと俺を見ていた。声は出していない。出せない、のかもしれない。あるいは、出さないと決めているのか。
「お前は無理しなくていい」と俺は言った。「声の代わりに、これだ」
俺は地面のサイリウムを拾い上げ、少女の手に、そっと握らせた。
「振り方を教える。音の代わりに、光でリズムを取るんだ。それも立派なパフォーマンスだ」
少女の耳が、ぴんと立った。
◇
…一時間後。
教会の庭は、控えめに言って、カオスだった。
「ち、違うレナさん! そこは右です、右!」
「右と言われて右に行ったらお前にぶつかるだろうが!」
「わ、わたしのせいですか!?」
レナとミレイが衝突しかけて言い合いになり、その横で獣人の少女が一人、まったく関係ないリズムでサイリウムをぶんぶん振り回している。しかもその振りが妙に様になっているのが、また混沌に拍車をかけていた。
教えたのは、ごく簡単な動きだけだ。右に二歩、左に二歩、手拍子を二回。前世なら幼稚園のお遊戯レベルの振り付けである。
それが、揃わない。
絶望的に、揃わない。
レナは動きが機敏すぎて二拍先に行ってしまう。ミレイは考えすぎて一拍遅れる。獣人の少女はそもそも拍の概念を無視して、自分の世界でサイリウムを振っている。
「アキ様……」隣で見ていたフィリアが、おそるおそる聞いてきた。「その、これは……順調、なのでしょうか」
「順調だ」
「順調なのですか!?」
「ああ。全員、声がデカいか、耳がいいか、光ってるかのどれかだ。素材は完璧に揃ってる。あとは噛み合わせるだけだ」
「は、はあ……」
フィリアは納得していない顔だったが、俺は本気でそう思っていた。
バラバラなのは当たり前だ。こいつらは昨日まで、剣士で、落ちこぼれで、路地裏の住人だった。人生で一度も「誰かと合わせる」ことをしてこなかった人間たちだ。
なら、合わせる軸を一本通せばいい。
「よし、全員、一回止まれ」
三人が動きを止めた。レナは息ひとつ乱れていないが、ミレイはぜえぜえと肩で息をしている。獣人の少女はまだ振り足りなさそうにサイリウムを揺らしていた。
「最後に一つだけやって、今日は終わりにする」
俺は三人の前に立ち、懐から自分のサイリウムを取り出した。
「難しいことは考えなくていい。俺がこれから打つ。お前たちは、俺に合わせて、好きに動け」
「す、好きにって……」ミレイが戸惑う。
「振りも、順番も、間違いとか正解とか、全部忘れろ。ただ俺を見て、合わせたくなったら合わせる。それだけだ」
レナが訝しげな顔をした。「それで揃うのか?」
「揃うかどうかじゃない」
俺はサイリウムを構えた。
「楽しいかどうかだ」
息を吸う。
庭の空気が、ふっと静かになった。
――前世、何千回と立った現場。開演前の、あの一瞬の静寂。照明が落ちて、客席のざわめきが消えて、世界が「これから始まる」ことだけを待っている、あの時間。
それが今、ここにある。
俺の中のスイッチが、カチリと入った。
「行くぞ――――ッ!!」
OAD、起動。
サイリウムが空を裂いた。オレンジの光が幾何学の軌跡を描き、夕暮れ前の庭に光の残像が走る。ステップを踏む。地を蹴る。腕を振り抜く。
「ハイッ! ハイッ! ハイッ! ハイッ!」
コールが響く。
最初に乗ってきたのは、意外にも獣人の少女だった。
サイリウムを両手で握って、俺の軌道を完璧になぞるように振り始めた。さっきまでの自分勝手なリズムが嘘のように、ぴたりと俺の拍に重なる。
次がレナだった。
「……っ、こうか!」
足が動いた。二拍先に行っていたあの機敏さが、今度は俺のステップの真上に正確に着地する。元Aランクの動体視力と体幹が、初めて「合わせる」方向に向いた瞬間だった。
「わ、わたしもっ……!」
ミレイが続いた。考えるより先に、手拍子が出ていた。一拍遅れていたあの手が、音程を取るときと同じ正確さで、拍の真ん中を打ち抜いた。
四人の動きが――揃った。
光が、ステップが、手拍子が、コールが、教会の庭でひとつの渦になった。
「……ッ! なんだこれ……!」
レナが踊りながら、信じられないという顔で笑っていた。
ミレイも、獣人の少女も、頬を上気させて、夢中で体を動かしていた。
ああ、そうだ。これだ。
理屈じゃない。技術でもない。
現場ってのは――楽しいから、揃うんだ。
◇
「な……なんだ、あの光は!?」
「教会の庭が光ってるぞ!」
「聖下だ! 聖下と聖女様たちが、神聖な儀式を……!」
気がつくと、教会の柵の外に、人だかりができていた。
二十人、三十人…どんどん増えていく。夕暮れの坂道を、野次馬たちが続々と駆け上がってくる。
「これが噂の聖歌隊か……!」
「なんと神々しい……!」
「おお、ルミナ様……!」
中には、その場で膝をついて祈り始める者までいた。
「皆さま、ご静粛に!」
と、なぜかフィリアが柵の前に進み出て、野次馬たちに向かって解説を始めた。
「ただいま執り行われておりますのは、古代ワシンジの『集団共鳴儀式』にございます! 聖下が空間に刻む光の紋章に、三人の巫女がそれぞれの魂を重ねていく――あれこそが、失われし時代の神聖舞踊の真髄!」
「お、おお……!」
「ご覧ください、あの大柄な巫女様の足運びを! 大地を踏み固め、結界の礎を築いておられます! そしてあちらの小さな巫女様は、音の高さで天と地の波長を調律し……あの獣人の巫女様が掲げる光こそ、女神ルミナ様の御印にございます!」
「な、なんと尊い……!」
「ルミナ様万歳!」「聖歌隊万歳!」
ただのお遊戯レベルの振り付けが、フィリアの実況によって古代の神秘へと爆速で変換されていく。野次馬たちは涙を流して手を合わせ始めた。
おい、待て。誰が結界を築いてるって?
ツッコミたいのは山々だったが、俺はOADの真っ最中だ。手も足も口も、全部リズムに使っている。
「アキ様!」フィリアが目を潤ませて叫んだ。「ご覧ください! 民が、自然と集まってきています……! これぞワシンジの共鳴……! 聖歌隊の産声が、ギルバートの空に届いたのです……!!」
俺はサイリウムを振り抜きながら、柵の外の人だかりを見た。
初めての観客。初めての現場。
メンバーはまだ三人。曲もない。振り付けもない。あるのは、バラバラの個性と、一本のサイリウムだけ。
それでも。
「――上等だ」
俺は笑った。
ルミナちゃん、見てるか。
お前の聖歌隊の、これが産声だ。
◇
その晩、解散間際。
「なあ」と、帰り支度をしていたレナが、ふと足を止めて言った。
「なんだ」
「……次の練習は、いつだ」
俺はにやりとした。
「明日だ」
「そうか」レナは笛を懐にしまいながら、背を向けた。「……遅れるなよ」
それだけ言って、夕闇の坂道を下りていった。
ミレイは「家で復習してきます!」と魔術書を抱えて走っていき、獣人の少女はサイリウムを宝物のように抱えたまま、何度もこちらを振り返りながら帰っていった。
静かになった庭で、ガルドがぽつりと言った。
「……五十年ぶりじゃよ」
「ん?」
「この教会に、あんなにたくさんの人の顔が向いたのは」
ガルドは、磨かれた鐘楼を見上げて、目を細めた。
「ルミナ様も、今夜はよく眠れるじゃろうて」
俺も鐘楼を見上げた。
夕焼けの最後の光が、まっすぐに立った鐘楼の先で、静かに溶けていった。
聖歌隊、始動。
現場は、ここからデカくなっていくのだ。




