第54話:歌うことを禁じられた、部族の掟
「聖歌隊の方々を、私の集落にご招待したい」
翌日、フィンが、そう申し出てきた。
「本当ですか」
「うむ。他の長老たちには内緒だがな」フィンは、少し悪戯っぽく笑った。「私の部族の者たちにも、そなたたちのことを知ってほしいのだ」
俺たちは、フィンの案内で、少し離れた場所にある、彼の集落へと向かった。
グドムンドの集落よりも、心なしか、空気が柔らかい気がした。木造の家々の軒先に、干し肉や毛皮が吊るされ、子供たちが雪玉を投げ合って遊んでいる。笑い声こそ小さかったが、確かに、笑い声だった。
「ここでは、少しは、感情を表に出すことも許されている」とフィンが言った。「もちろん、長老会議の場では、控えねばならぬがな」
「なるほど……」
俺は、その空気の違いに、少しほっとした。
「部族によって、これほど違うものなんですね」とミレイが、周囲を見回しながら言った。
「うむ。同じ北方の民でも、集落ごとに、気風は随分と異なる」とフィンが答えた。「厳格さを美徳とする部族もあれば、私のように、多少の柔らかさを許す部族もある」
「その違いは、どこから来るんですか」と俺は聞いた。
「歴史、というほかない」フィンは、少し遠い目をした。「先祖代々の教えや、過去の出来事が、それぞれの部族の気風を形作ってきた。良くも悪くもな」
その言葉に、俺は、何か引っかかるものを感じた。過去の出来事、という言葉の響きに、単なる一般論以上の重みがあった。
◇
集落の中心にある広場で、俺たちは、簡単な演舞を披露することになった。
大人たちは、相変わらず、あまり表情を動かさなかった。だが、子供たちは、目を輝かせて見ていた。
演舞が終わると、拍手こそなかったものの、子供たちの何人かが、こっそりと真似をして踊り始めた。
その光景を、俺は微笑ましく見ていた。
その時、視界の端に、一人の少女が映った。
集落の隅、家の陰から、じっとこちらを見つめている少女だった。年の頃は、十四、五歳ほどだろうか。銀色の髪が、寒空の下で、静かに揺れていた。
その顔立ちに、俺は、既視感を覚えた。
(あの銀髪……)
ジークリンデに、どこか似ていた。
◇
「あの子は」と俺は、フィンに聞いた。
フィンの表情が、わずかに曇った。
「……グレーテだ」
「グレーテ」
「ジークリンデ殿の、妹だ」
その言葉に、俺は驚いた。
「妹さん、ですか」
「うむ。だが、彼女は、私の部族の預かりとなっている。詳しい事情は、私からは話せぬ」
「話せない、というと」
「本人か、姉であるジークリンデ殿から、直接聞くのがよかろう」
フィンは、それ以上、多くを語ろうとしなかった。
俺は、グレーテと呼ばれた少女を、もう一度見た。
彼女は、まだ、家の陰からこちらを見つめていた。だが、俺と目が合うと、慌てたように、姿を隠してしまった。
◇
「アキ様」
フィリアが、少し困った顔で近づいてきた。
「あの少女のことですが、少し気になる噂を耳にしました」
「噂?」
「集落の子供たちが話していたのです。『グレーテは、歌ってはいけない』と」
「歌っては、いけない」
「はい。理由までは、子供たちも詳しくは知らないようですが……」
俺は、その言葉を、しばらく反芻した。
(歌うことを、禁じられている)
シルは、種族的な理由で、声を出すことに恐怖を持っていた。ツバキは、技術はあっても、心を込める術をまだ探している最中だった。
だが、グレーテの事情は、それとは、また違うもののように感じられた。
「掟、なんでしょうか」
「そのようです。詳しいことは、まだ分かりませんが」
俺は、グレーテが姿を消した方向を、しばらく見つめていた。
◇
その日の夕方、俺は、一人で集落を歩いていた。
演舞の後片付けを終え、少し頭を冷やしたかった。北方の空気は冷たかったが、その冷たさが、今は心地よかった。
集落の外れ、川のほとりに、小さな人影があった。
グレーテだった。
彼女は、川面を、じっと見つめていた。その横顔は、どこか寂しげだった。
俺は、少し離れた場所から、声をかけた。
「こんにちは」
グレーテが、びくりと肩を震わせた。
「あ……」
「驚かせてごめん。俺は、アキラ。アキ・ラベインだ。エルドラドから来た」
「知って、ます……」
グレーテの声は、消え入りそうなほど小さかった。
「あなたが、聖歌隊の……」
「そう。歌と踊りで、いろんな人に、心を届けてる」
その言葉に、グレーテの表情が、少しだけ、複雑に歪んだ。
「……いいですね、そういうの」
「よかったら、少し話さないか」
グレーテは、しばらく躊躇っていたが、やがて、小さく頷いた。
「少しだけ、なら」
◇
「あなたの歌、聞いてみたい」
俺が、率直にそう言うと、グレーテは、目に見えて体を強張らせた。
「……無理、です」
「無理?」
「わたし、歌っては、いけないので」
「なんで」
「……掟、です」
グレーテは、それ以上、詳しくは語らなかった。ただ、その手が、無意識のように、自分の喉元をきつく押さえていた。まるで、そこに何か、押し込めておかなければならないものがあるかのように。
俺は、その仕草を、しばらく黙って見ていた。踏み込むべきか、迷った。
だが、ここで無理に聞き出すのは、違う気がした。
「無理に聞かないから、大丈夫だ」
俺は、それ以上、深く踏み込まないことにした。まだ、出会ったばかりだ。
「ただ、もし、いつか話したくなったら、聞かせてくれ」
グレーテは、驚いたように、俺を見た。
「……無理に、聞かないんですか」
「無理に聞いても、いいことないだろ。心の準備ができた時に、話してくれればいい」
グレーテは、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと呟いた。
「……変わった人ですね、あなた」
「よく言われる」
その言葉に、グレーテの口元が、ほんのわずかに緩んだ気がした。
それは、微笑みと呼ぶには、あまりに小さな変化だったが、確かに、何かが動いた瞬間だった。
◇
その夜。
俺が宿舎に戻ろうとしたとき、月明かりの下に、一つの人影があった。
ジークリンデだった。分厚い外套を纏っていたが、その立ち姿は、昼間の対決の時と、何一つ変わらない鋭さを保っていた。
彼女は、無言で、俺を見ていた。
「……グレーテと、話したそうだな」
その声には、これまでにない、微かな緊張のようなものが滲んでいた。
「ああ。少しだけ」
「何を、話した」
「大したことは話してない。ただ、歌のことを聞いたら、掟だから無理だって言われた」
ジークリンデの表情が、わずかに、揺れた。それは、昼間の対決で見せた強さとは、明らかに違う種類の反応だった。
「……あの子には、関わるな」
その言葉には、これまでの平坦な口調とは違う、明確な感情が滲んでいた。
「どうして」
「関わるな、とだけ言っておく」
ジークリンデは、それだけ言うと、踵を返した。
その背中を見送りながら、俺は、確信した。
グレーテとジークリンデの間には、何か、深い事情が横たわっている。
それが何なのか、まだ分からない。
でも、いつか、必ず知ることになる予感があった。
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