第51話:息が白い現場(ステージ)は、初めてだ
十日間の旅路の果てに、俺たちは、北方部族連合の地に足を踏み入れた。
馬車を降りた瞬間、頬に突き刺すような冷気が押し寄せた。息を吐くと、それだけで白い塊になって宙に消えていく。地面は、うっすらと雪化粧をしていた。
「……寒い」
思わず声が漏れた。前世でいえば、これは、真冬の屋外フェスの比じゃない。あの現場でも防寒着を三枚重ねて震えていたが、ここはその何倍も容赦がなかった。
「これが、北方の空気でありんすか」
ツバキが、外套の襟をぎゅっと合わせながら言った。白い息が、彼女の口元から絶え間なく漏れている。
「まだ入口や」とゴエモンが言った。「もっと奥に行けば、もっと冷えるで」
「もっと……」
ツバキの声が、少し震えていた。寒さのせいか、それとも別のものか、俺には判断がつかなかった。
見渡す限り、針葉樹の森が広がっていた。木々の合間から、木造の集落が見え隠れしている。屋根には分厚い雪が積もり、煙突からは白い煙が真っ直ぐに立ち上っていた。
集落の建物は、どれも装飾らしい装飾がなかった。無骨な木材を組み上げただけの、実用一辺倒の造り。前世でいえば、山岳地帯の避難小屋を思わせる質実剛健さだった。華やかさより、生き延びることを優先してきた土地なのだと、一目で分かった。
「静かな場所だな」とレナが、辺りを見回しながら言った。
「静かというか……」ミレイが、少し不安げに呟いた。「誰も、こちらを見ていない気がします」
言われてみれば、その通りだった。
集落の入口に、何人かの人影があった。分厚い毛皮を纏った、屈強な体格の男女。だが、誰一人として、俺たちに歓迎の視線を向けてこない。ただ、無言で作業を続けているか、あるいは、こちらを一瞥してすぐに視線を逸らすかのどちらかだった。
「歓迎ムード、ゼロだな」
「そのようですね……」とフィリアが、緊張した面持ちで言った。
◇
案内役の兵士に連れられて、俺たちは集落の中心にある、大きな木造の建物へ向かった。
長老会議が開かれる場所だという。
建物の中は、外よりわずかに暖かかったが、それでも息は白いままだった。大きな石造りの炉が中央にあり、そこに焚かれた火だけが、部屋の唯一の光源のように見えた。
炉を囲むように、長椅子が並んでいた。そこに、七人ほどの老人と壮年の男女が座っていた。誰もが、厚い毛皮の衣装を纏い、彫りの深い顔立ちをしている。
その誰もが、笑っていなかった。
いや、笑っていないというより、表情そのものが、ほとんど動いていなかった。
「よくぞ参られた、光の女神の使者よ」
一番奥に座る、白髪の老人が口を開いた。感情の起伏をほとんど感じさせない、平坦な声だった。
「儂は、この地の長老会議を纏める、グドムンドという」
「アキ・ラベインです。よろしくお願いします」
俺は、深く一礼した。
グドムンドは、しばらく無言で俺を見つめていた。値踏みするような、鋭い視線だった。
「異国の民が、我らの地を訪れるのは、久方ぶりのことだ」
「そう伺っています」
「率直に言おう。歓迎はしておらぬ」
その言葉に、座敷の空気が、一気に張り詰めた。
「儂らは、この地で、長く独立を保ってきた。他国の宗教だ、同盟だという話には、常に慎重であらねばならぬ」
「……それでも、こちらから使者を送られたと聞いています」
「送った」
グドムンドは、短く頷いた。
「送ったが、それは、儂ではない」
「……と、いうと」
「この地には、七つの部族がある。儂は、その一つを纏める者に過ぎぬ。使者を送ったのは、別の部族の長だ」
俺は、ちらりと、周囲の長老たちを見た。
なるほど、と思った。
長椅子に座る七人の表情は、一様に静かだったが、その奥に、微妙な緊張が漂っていた。互いに、視線を交わそうとしない者。腕を組んで、明らかに不満げな空気を纏う者。逆に、こちらに興味を示すような、わずかな身じろぎを見せる者。
一枚岩ではない。
それは、明白だった。
「率直に伺いますが」と俺は、グドムンドに向き直った。「使者を送られた部族の方は、今日、この場にはいらっしゃらないのでしょうか」
グドムンドの目が、わずかに細まった。
「その者は、儂らとは、別の考えを持つ部族の長だ。今日は、あえて呼んでおらぬ」
「あえて」
「この地の作法だ。よそ者を迎える最初の場には、まず、儂ら年長の者だけで応対する。それが、七部族の古くからの慣わしよ」
「……つまり、まだ本当の交渉相手には、会えていないということですか」
「左様」
グドムンドは、それ以上語ろうとしなかった。周囲の長老たちも、誰も口を開かない。ただ、炉の火が、パチパチと音を立てて燃えているだけだった。
俺は、その沈黙の中に、探り合いのような緊張を感じ取った。歓迎とは程遠い態度の裏に、単なる排他性だけではない、何か複雑な事情が横たわっている気配があった。
◇
「歓迎とは程遠い状況、というわけですね」
謁見が一旦区切られ、俺たちは、あてがわれた宿舎に移動した。木造の質素な建物だったが、暖炉があるだけ、ありがたかった。
「思った以上に、複雑そうだ」と俺は、腕を組んで言った。
「はい」とフィリアが、深刻な顔で頷いた。「七つの部族、それぞれに思惑があるようです。ルミナ教を歓迎する部族もあれば、警戒する部族もある。統一された意見が、まだない状態かと」
「厄介やな」とゴエモンが、暖炉の前で手をこすり合わせながら言った。「これ、下手したら、部族同士の喧嘩に巻き込まれるパターンやで」
「勘弁してほしいですけど……」とミレイが、ため息をついた。
「バルトロさんは、何か知ってますか」と俺は、部屋の隅で荷物を整理していたバルトロに聞いた。
「多少は」とバルトロが、荷ほどきの手を止めずに答えた。「七部族の力関係は、正直、わたくしにもすべては読めません。ただ、噂では、一つだけ、他とは毛色の違う部族があると聞いております」
「毛色の違う?」
「戦の強さで、他を圧倒している部族です。その部族の長には、名うての戦士がいるとか」
「名うての戦士……」
俺は、その言葉を、なんとなく頭の隅に留めた。
シルが、窓の外を見つめていた。雪が、静かに降り始めていた。灰色の空から、音もなく舞い落ちる白い粒を、シルはじっと見つめている。
「きれい」
シルが、小さく呟いた。
「そうだな」
俺も、窓の外を見た。
異世界に来て、これだけ本格的な雪景色を見るのは、初めてだった。前世の記憶が、静かに揺り動かされる。子供の頃、実家の窓から見た雪景色。あの時と同じ静けさが、この北の大地にもあった。
「アキ様」
ツバキが、少し不安げに声をかけてきた。
「明日以降、どうなるでありんしょうか」
「分からない」
俺は、正直に答えた。
「でも、まずは、俺たちがどういう存在か、ちゃんと示すしかない。焦っても仕方ない」
「そうでありんすね……」
ツバキは、まだ不安そうな顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。
◇
その夜、俺は一人で、宿舎の外に出た。
満天の星が、頭上に広がっていた。前世の都会では、絶対に見ることのできない密度の星空だった。息を吐くと、白い塊が、星明かりの中でゆっくりと消えていく。
(ルミナちゃん)
俺は、心の中で呟いた。
(この光を、ここにも届けたいんだけどな。思ったより、手強そうだ)
サイリウムを、そっと取り出した。
オレンジの光が、雪原に、淡く反射した。
その時。
背後で、雪を踏む足音がした。
俺は、振り返った。
そこに立っていたのは、一人の女だった。
長い銀髪が、月明かりに照らされて、輝くように白く見えた。整いすぎた顔立ち。研ぎ澄まされた瞳。まるで、氷そのものを人の形にしたような、そんな美しさだった。
そして、その体には、明らかに歴戦の戦士のものと分かる、鍛え上げられた気配があった。
女は、無言で、俺を見ていた。
「……誰だ」
俺が聞くと、女は、しばらく沈黙したあと、短く答えた。
「ジークリンデ」
それだけだった。
だが、その一言だけで、俺は、この人物がただ者ではないことを、直感的に理解した。
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