第41話:シルの故郷は、瘴気の中にあった
太陽神教との和解から、数日が経った。
ヤマトでの活動は落ち着きを取り戻し、聖歌隊は宵ノ國での練習を再開していた。ツバキが正式に加わってからの初めての本格練習で、五人の呼吸は少しずつ馴染んできていた。
その日の夕方、俺は珍しく一人で庭にいるシルを見つけた。
サイリウムを抱えたまま、ぼんやりと空を見上げている。
「どうした」
声をかけると、シルは少し驚いたように振り返った。それから、小さく首を振った。何でもない、という仕草だった。
だが、その目は、いつもと違っていた。
どこか遠くを見ているような、そんな目だった。
「何か気になることがあるなら、話してくれ」
シルは、しばらく黙っていた。
それから、地面に指で文字を書き始めた。
「きょう においが した」
「匂い?」
シルが頷いた。
「こげたにおい」
俺は、その言葉の意味を、すぐには掴めなかった。
「焦げた匂い、か」
シルは、また頷いた。それから、両手で自分の体を抱くようにした。震えているように見えた。
「シル」
俺は、シルの隣に座った。
「何があったのか、話せるか」
シルは、長い間、黙っていた。
夕暮れの風が、庭の木々を揺らした。
やがて、シルは、ゆっくりと地面に文字を書き始めた。
「わたしの むら」
「お前の村?」
「もえた」
その一言に、俺は息を呑んだ。
◇
シルが語った――正確には、地面に書いた――話は、こういうものだった。
シルの故郷は、山の奥深くにある、獣人だけの隠れ里だった。人間の目を避けて、ひっそりと暮らす小さな集落。シルは、そこで生まれ育った。
ある夜、突然、空が黒く染まった。
大地が割れ、瘴気が噴き出した。
大人たちは、子供たちを逃がそうとした。だが、逃げ場はなかった。里は山に囲まれていて、出口は一つしかなかった。その出口が、真っ先に瘴気に呑まれた。
「みんな……にげられなかった」
シルは、地面にそう書いた。
「わたしだけ、にげられた」
シルの手が、震えていた。
「なんで、わたしだけ」
その問いに、俺は答えられなかった。
「さけんだ」とシルは書いた。「たすけてって、さけんだ」
その声を、シルは思い出しているようだった。
「でも、とどかなかった」
シルの目に、涙が滲んだ。
「わたしのこえ、へんだから。とどかなかった」
俺は、ようやく理解した。
シルが声を封印していた理由。それは、人間社会で差別されたことだけが原因ではなかった。
あの夜、必死に助けを呼んだ声が、誰にも届かなかった。届く前に、里は瘴気に呑まれた。自分の声が、無力だったという記憶。声を出すことは、その夜の記憶と、直結していた。
「そうか」
俺は、静かに言った。これまで、どんな想いをシルは抱え込んできたのだろう。
シルは、地面に書いた。「みんな、しんだ」
「ああ」
俺は、否定しなかった。
「みんな死んだ。それは、変えられない事実だ。お前が声を出しても出さなくても、あの夜の結果は変わらなかった。それは、お前のせいじゃない」
「……」
「お前の声が届かなかったのは、瘴気があまりにも速すぎたからだ。声の問題じゃない」
シルは、しばらく黙っていた。
それから、また地面に書いた。
「わかってる。あたま では」
「でも、心が追いつかないか」
シルが、頷いた。
◇
俺は、しばらく黙って、シルの隣に座っていた。
夕暮れが、少しずつ夜に変わっていく。
「シル」
「……」
「今のお前の声は、ちゃんと届く」
シルが、俺を見た。
「初めてお前が声を出したとき、礼拝堂中に光が満ちた。夏越の祭りで、ツバキさんの前で歌ったとき、みんなが泣いた。お前の声は、ちゃんと、みんなに届いてる」
シルは、まだ黙っていた。
「あの夜、届かなかった声と、今の声は、同じじゃない。お前は、ちゃんと届く声を、今、持ってる」
「……ほんとに?」
シルが、初めて声に出して言った。震える、小さな声だった。
「ああ、本当だ」
シルの目から、涙が、また一筋こぼれた。
「わたし……」
シルの声が、震えていた。
「わたし、こわかった。こえをだすの、こわかった。とどかなかったこえの、こと、おもいだすから」
「そうか」
「でも……アキが、とどくよって、いってくれたから」
シルは、両手で、サイリウムを強く抱きしめた。
「がんばれた」
俺は、シルの頭に、そっと手を置いた。
「これからも、頑張らなくていい。ただ、届けたいときに、届けたい人に、声を出せばいい」
「とどけたい……ひと」
シルは、少し考えるように、庭の外を見た。フィリアや、レナや、ミレイや、ツバキが練習をしている、あの声が聞こえる方向を。
それから、大きく息を吸った。
サイリウムを、両手で掲げた。
夕暮れの光と、サイリウムのオレンジの光が、重なった。
「みんな、きいて……」
シルの声が、庭に響いた。
小さいけれど、確かな、はっきりとした声だった。
「だいすき」
その一言に、俺は何も言えなかった。
シルが、笑った。
耳が、ぴんと立った。
尻尾が、揺れた。
その笑顔は、俺がこれまで見てきたどんなシルの表情よりも、明るかった。
◇
「アキ様……!」
庭の入り口から、フィリアの声がした。
振り返ると、フィリア、レナ、ミレイ、ツバキが、揃って立っていた。どうやら、少し前から様子を見ていたらしい。
「シルさん……」ミレイが、目を潤ませていた。「わたし、知らなかったです。シルさんが、そんな辛いことを抱えていたなんて」
「知らなくていい」とレナが言った。「今、分かったんだから、それでいい」
レナは、何も言わずに、シルの頭をぽんと撫でた。シルが、嬉しそうに目を細めた。
「シルさん」とミレイが、そっと近づいた。「わたしも、あなたの声が好きです。初めて聞いたときから、ずっと」
シルが、こくこくと頷いた。それから、少し照れたように、耳を伏せた。
ツバキが、静かに言った。
「シルさん、よろしければ、今度、わっちにも聞かせてくださいませ。あなたの声を」
「わっちも、声を封じていた頃がありんした」とツバキは続けた。「理由は違えど、声を出すことの怖さは、少しだけ分かる気がいたしんす」
シルが、こくりと頷いた。それから、地面に小さく文字を書いた。
「うたう」
「約束でありんすね」
シルが、また頷いた。
「フィリアさん……!」フィリアが、感涙しながら手帳を広げた。「これぞワシンジの真髄……声という魂の欠片が、過去の呪縛を超えて、今この瞬間に解き放たれた……!」
「いつもの解釈だな」と俺は言った。
「いつものです……!」
その軽いやり取りに、シルが、また小さく笑った。
夕暮れの空に、一番星が瞬き始めていた。
「ルミナちゃん」
俺は、小さく呟いた。
「シルの声、ちゃんと届いたぞ」
サイリウムの光が、ふわりと、揺れた気がした。
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