第39話:アルベルトを、取り戻せ
使徒が退いた後、村には束の間の静けさが戻った。
だが、それも長くは続かなかった。
「アキ様」
フィリアが、村の奥を指さした。
「瘴気の気配が、まだ残っています。おそらく、あの奥に……」
「アルベルト大神官長が」
俺は、サイリウムを握り直した。
ゴエモンの肩の傷は、フィリアの治癒でかろうじて悪化を止めていたが、完全には塞がっていなかった。それでも、ゴエモンは立ち上がった。
「動けるんですか」とミレイが心配そうに聞いた。
「腕は動く。それで十分や」
「無理はしないでください」
「お前らに言われとうないわ。さっきから無理しとるんはお前らも一緒やろ」
軽口の応酬に、少しだけ空気が緩んだ。
「行くぞ」と俺は言った。「アルベルト大神官長を、取り戻す」
◇
村の奥、社の裏手に、アルベルトはいた。
黒い靄に、下半身を取り込まれるような形で、地面に立っていた。目は、また虚ろに沈んでいた。杖を握る手だけが、かろうじて人間のものだった。
社の朱色の柱にも、靄が這い上がっていた。ヤマトの神域が、邪神の気配に侵食されつつあった。
「アキ様……」フィリアが、震える声で言った。「あの靄の濃さ……先ほどより、深く根を張っています」
俺は答えなかった。ただ、アルベルトの状態が、さっきよりも悪化していることだけは、見れば分かった。
「……儂は……ここで……」
譫言のような呟きが、聞こえた。
「アルベルト大神官長」
俺は、慎重に近づいた。
「聖……下……?」虚ろな目が、こちらを向いた。「まだ……いたのか……」
「あんたを置いて帰れるわけないだろ」
「無駄だ……儂はもう……ナイアル様に……魂を、明け渡した……」
「まだ渡してない」
俺は、はっきりと言った。
「さっき、あんたは一瞬、自分の意志を取り戻した。それは、まだ全部持っていかれてないってことだ」
「……」
「アルベルト大神官長。あんたの信仰は、偽物じゃない。思い出せ」
アルベルトの目が、揺れた。
「信仰……」
「二百年、太陽神教を守ってきたのは、あんたたちだろ。それは邪神なんかに踏みにじられていいものじゃない」
「……儂の、信仰……」
アルベルトの声が、震えた。
だが、次の瞬間、靄がさらに濃くなり、アルベルトの体を包み込んだ。
「儂の中の、儂では、ない何かが……儂を、内側から食い潰そうと……!」
「アキ様、危険です……!」フィリアが叫んだ。「あの靄、さらに濃くなって……!」
「ケチャだ」
俺は、決めていた。
「ケチャで、浄化する」
「王妃陛下のときと同じですか……!」
「ああ。あのときは、呪いを光で分解した。今回も、同じ原理でいけるはずだ」
俺は、両手を広げた。
「みんな、力を貸してくれ」
◇
聖歌隊全員が、アルベルトを囲むように立った。
レナ、ミレイ、シル、ツバキ。そしてフィリアとゴエモンとヴァルターも、少し離れた場所で見守った。
「アキ様に合わせて、ケチャを」とフィリアが叫んだ。「両手をひらひらと、命を捧げるように……!」
俺は、両手を掲げた。
指先から手首まで、波打たせるように動かす。前世で何百回とやった動きだ。神への祈り、命の共鳴、そういうものすべてを込めた、ヲタ芸の中でも特別な所作。
レナが、ぎこちなく両手を動かし始めた。「これで、いいのか」
「感覚でいい。心を込めればいい」
ミレイも、両手を波打たせた。「わ、わたしもやります……!」
シルは、すでに完璧なリズムで両手を動かしていた。
ツバキは、少し戸惑いながらも、両手をひらひらと揺らした。「このような所作、初めてでありんすが……」
「大丈夫です。歌と同じです。届けようとすればいい」
「……分かりんした」
五人の手の動きが、少しずつ、揃い始めた。
離れた場所で見ていたゴエモンが、「なんや、あれ……」と目を丸くした。「踊りにも見えへんし、術にも見えへんし……なんなんや、ほんまに」
「知らない」とレナが、両手を動かしながら答えた。「あたしも未だに分からん」
ヴァルターが、剣を鞘に収めたまま、静かに言った。「王宮でも、同じ光景を見た。理屈は分からんが、効くのだ」
サイリウムの光が、俺の手の動きに合わせて、波のように広がっていく。オレンジの光が、アルベルトを包む黒い靄に、じわじわと染み込んでいった。
「……ぐ……お……」
アルベルトが、呻いた。
靄が、抵抗するように渦を巻いた。
「効いています……!」とフィリアが叫んだ。「でも、まだ足りません……!」
「歌を」
俺は、ツバキとシルに向かって言った。
「二人の歌が必要だ」
ツバキが、頷いた。
深く息を吸って、目を閉じる。
そして、歌い始めた。
技術と心が、両方乗った声だった。あの夏越の祭りで見せた、完成された歌声。
シルの声も、重なった。倍音を含んだ、独特の響き。
二つの声が、光と共鳴した。
靄が、さらに薄くなっていった。
「儂は……」
アルベルトの声に、涙が混じっていた。
「儂は……なんということを……」
◇
靄が、少しずつ、剥がれ落ちていった。
黒い霧が、アルベルトの体から離れて、地面に溶けるように消えていく。
最後の一筋が消えたとき、アルベルトは、ゆっくりとその場に膝をついた。
「アルベルト大神官長!」
俺は、駆け寄った。
アルベルトは、肩で息をしていた。だが、その目には、もう虚ろさはなかった。あの、鷹のような光が戻っていた。
「聖下……」
「……戻ったか」
「戻り申した」
アルベルトは、深く息をついてから、静かに頭を下げた。過度にへりくだるでもなく、それでいて確かな重みのある一礼だった。
「太陽神教の頂点として、二百年の信仰を担う立場にありながら……邪神の力に付け入られ、信じる者たちの村を、この手で滅ぼそうとした。弁解のしようもない」
「あんたのせいじゃない」
「いや」アルベルトは、首を振った。鷹のような目に、自嘲の色が浮かんだ。「儂の心に、隙があったのだ。国教の座を奪われた妬み、聖歌隊への対抗心……そういう澱みに、ナイアルは付け込んだ」
「……澱み、というのは」
「聖下が公開試験でスタンダードMIXとやらを見せたあの日から、儂の中に、消えない棘があった。二百年守り続けた太陽神教が、たった数ヶ月の新興宗教に取って代わられる屈辱。それを、認めたくなかった」
アルベルトは、拳を握りしめた。
「その屈辱こそが、ナイアルにとって都合の良い隙間だったのだろう。付け入られていることにすら、気づけなかった」
「……」
「聖下」アルベルトが、俺をまっすぐに見た。「罰するというなら、受けよう」
「罰する気はない」
俺は、正直に言った。
「あんたが今、正気に戻って、自分のしたことを悔いてる。それで十分だ」
「……なぜ、そこまで甘くする」
「甘くはない」
俺は、アルベルトを見据えた。
「あんたの信仰は、本物だった。それを俺は、あの日の目で見た。二百年守り続けた信仰を、簡単に切り捨てたりしない。それだけだ」
アルベルトの目に、光るものが滲んだ。すぐに、鷹のような目に戻ったが、確かに一瞬、揺れていた。
「……聖下」
「立てるか」
「もとより、儂は立たねばならぬ身だ」
アルベルトが、ゆっくりと、しかし確かな足取りで立ち上がった。
村に、静かな夕暮れが訪れていた。
亀裂は、まだ地面に残っていたが、瘴気はもう噴き出していなかった。
「ゴエモンさん」と俺は言った。
「なんや」
「肩、大丈夫ですか」
「まだ痛いけど、まあ、死にはせん」
「フィリアさん、もう一度治癒を」
「はい……!」
フィリアが、ゴエモンに向けて治癒魔術を展開した。今度は、光がすんなりと傷に染み込んでいった。
「……効くようになったな」
「村全体の瘴気が薄まったからだと思います。さっきまでは、傷の中の瘴気が治癒を弾いていたので」
村の空を、夕陽が赤く染めていた。
アルベルトが、ふらつきながらも、俺の隣に立った。
「聖下」
「なんだ」
「儂に、一つ、やらせてほしいことがある」
アルベルトの目に、確かな決意があった。
「太陽神教として、光の女神ルミナ様に、正式な謝罪と……共闘の意を、表したい」
俺は、アルベルトを見た。
「……本気か」
「本気だ」
アルベルトは、深く頭を下げた。
「儂の信仰と、聖下の信仰は、対立するものではないと、ようやく分かった」
夕陽が、村全体を、静かに照らしていた。
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