第38話:邪神ナイアル、その名を騙る
空気が、変わった。
肌で分かるほどの変化だった。前世で一度だけ、大地震の前触れという不気味な静けさを経験したことがある。あれに似ていた。音が、消える。虫の声も、風の音も、何もかもが、一瞬、止まる。
「……来るぞ」
俺は、サイリウムを握り直した。
村の中心、瘴気が最も濃く渦巻いていた場所が、ぼこりと盛り上がった。
土が、生き物のように蠢いた。
「なんや、あれ……!」
ゴエモンが、刀を構えながら後退った。
盛り上がった土の中から、何かが、ゆっくりと姿を現した。
最初は、人型に見えた。だが、それは間違いだった。
輪郭は人型でも、その表面は、無数の黒い目玉に覆われていた。大小さまざまな目が、ぬめぬめと蠢きながら、こちらを見つめてくる。口はどこにあるのか分からない。声は、体全体から、直接響いてくるようだった。
「ようやく、お出ましか」
ミレイが、悲鳴を上げそうになるのを、必死に堪えていた。フィリアの顔から、完全に血の気が引いていた。
「……あれが」
俺の声も、震えていた。
「邪神ナイアルの、使徒」
「いかにも」
使徒の体表の目玉が、一斉に俺たちを向いた。全部で、いくつあるのか数えられなかった。
「我が主、邪神ナイアル様は、御自ら動く必要すらない。この程度の余興は、我一人で十分」
「……余興?」
「そうだ。人間ごときの信仰、女神の欠片程度の力。ナイアル様にとっては、路傍の石を払うにも等しい」
使徒が、ゆっくりと歩を進めた。
その一歩ごとに、地面が黒く染まっていった。触れた土から、命の気配が消えていくのが分かった。
「レナ、ゴエモンさん、下がって……!」
俺は叫んだ。
だが、遅かった。
使徒の腕——それが腕と呼べるものかは分からなかったが——が、一瞬で伸びた。
「うわっ……!」
ゴエモンが、咄嗟に飛び退いた。だが完全には躱しきれず、腕が掠めた。
「……っ、ぐ……」
ゴエモンの肩から、血が滲んだ。傷自体は浅い。だが、傷口の周りが、みるみるうちに黒ずんでいった。
「ゴエモンさん……!」
「あかん……この傷、なんか……変な感じがするで……」
ゴエモンの顔が、青ざめていく。
「毒か……!」
「毒より、質が悪いな」
使徒が、嗤った気配がした。
「触れた者から、生きる意志を奪う。それが我が主の力の欠片。抗うだけ、無駄なことよ」
レナが、剣を構え直した。
「……舐めるな」
低い声だった。
「あたしの仲間を傷つけて、無事で帰れると思うなよ」
レナが、地面を蹴った。
一撃。渾身の斬撃が、使徒の胴体を捉えた。
だが。
刃が、使徒の体を斬った瞬間、何の手応えもなかった。
「……え」
刃が通り抜けた場所から、黒い霧のようなものが噴き出しただけだった。使徒の体は、傷一つついていなかった。
「無駄だと言っただろう」
使徒の腕が、今度はレナに向かって伸びた。
「レナ……!」
俺は、サイリウムを投げ出す勢いで、レナの前に飛び出そうとした。
間に合わない。
そう思った、その時。
「――やらせるかよ」
低い、聞き慣れた声が、割り込んだ。
ゴエモンだった。
肩から血を流しながら、それでも刀を構えて、使徒とレナの間に割り込んでいた。
「ゴエモンさん、動くな……!」
「うるさいわ……!」
ゴエモンが、歯を食いしばりながら、伸びてきた腕を刀で受けた。今度は、完全に受け止めた。刃と腕がぶつかり合い、火花のような黒い粒子が散った。
「く……ぅ……」
ゴエモンの足が、地面にめり込むほど踏ん張っていた。
「五右衛門殿……!」
ツバキが、初めて悲鳴に近い声を上げた。
◇
「……なぜ」
使徒が、初めて、感情らしきものを覗かせた。困惑、あるいは苛立ち。
「なぜ、その体で、我が力を受け止められる」
「知らんがな……!」ゴエモンが、歯を食いしばりながら言った。「守るって決めた奴を、目の前で傷つけさせるわけには、いかへんのや……!」
その言葉に、俺の中で何かが弾けた。
あの夜、ゴエモンから聞いた話が、頭を過った。
守れなかった過去。手柄より、守るもんを優先できなかった自分。
今、ゴエモンは、あの後悔をなぞろうとしていなかった。
「フィリアさん! 治癒を……!」
「は、はい……!」
フィリアが、震える手で治癒の光をゴエモンに向けた。だが、黒ずんだ傷は、光を跳ね返すように、治りが遅かった。
「これじゃ……間に合わない……!」
「なら」
俺は、サイリウムを構えた。
「演舞で、押し返す」
「アキ様……ナイアル本体は、まだ姿を見せていません……!」
「関係ない」
俺は、深呼吸をした。
前世で、何百回、何千回とやってきた構え。腹の底から声を出す、あの構え。
「ツバキさん、シル、ミレイ、レナ」
「……はい」「んっ」「はい……!」「おう」
四人が、それぞれの持ち場に構えた。
「今までで一番の声を出せ。ゴエモンさんを、あの化け物に負けさせない」
俺は、サイリウムを掲げた。
使徒の目玉が、一斉にこちらを見た。
「無駄なことを。ルミナごときの光では、ナイアル様には」
「うるさい」
俺は、使徒の言葉を遮った。
「お前、さっきから『ナイアル様には敵わない』しか言ってないな。そんなに、ルミナちゃんが怖いのか」
使徒の目玉が、一斉に動きを止めた。
「……何?」
「怖いから、そんなに繰り返すんだろ。図星か」
「……戯言を」
「戯言かどうか、教えてやる」
俺は、コールを放った。
「タイガー! ファイヤー! サイバー! ファイバー!」
サイリウムの光が、爆発的に広がった。
「ダイバー! バイバー! ジャージャー!!!」
純白の光が、村全体を包んだ。
使徒が、初めて、後退った。
「……なぜだ」
その声に、明確な動揺があった。
「なぜ、この程度の光が……ナイアル様の瘴気を……押し返す……!?」
「教えてやる理由はない」
俺は、サイリウムを強く握った。
「ただ、お前がそんなに怖がる女神を、俺は世界一の推し神にする。それだけだ」
使徒が、地面に突き立てていた瘴気の柱を、急速に引っ込め始めた。
「……今日のところは、退く」
「逃げるのか」
「ナイアル様の御業は、これしきのことでは揺るがぬ。だが」
使徒の輪郭が、黒い靄となって崩れ始めた。
「光の女神ルミナ。貴様の力が、なぜナイアル様にとって唯一の脅威なのか——貴様自身が知らぬまま、遠からず牙を剥かれることになろう」
その言葉を最後に、使徒の姿が、完全に消えた。
村に、静寂が戻った。
◇
「ゴエモンさん……!」
俺は、駆け寄った。
ゴエモンは、地面に座り込んでいた。肩の傷は、まだ黒ずんでいたが、悪化は止まっていた。
「……悪いな、心配かけて」
「心配どころじゃないです。無茶しすぎです」
「へへ……守るって言ったからには、守らな格好つかんやろ」
レナが、無言でゴエモンの隣に膝をついた。
「……ありがとう」
「なんや、素直やな」
「一回だけだ」
「調子ええな」
軽口を叩きながらも、レナの目には、確かな安堵があった。
俺は、村の中心を見た。
使徒が最後に残した言葉が、耳の奥に残っていた。
「ルミナちゃんが、ナイアルにとって唯一の脅威……」
なぜだ。ただの女神じゃないのか。前世の推しに、生き写しの女神。
その正体に、何かとてつもないものが隠れている気がした。
「フィリアさん」
「……はい」
「ルミナちゃんについて、もっと調べる必要があるかもしれない」
フィリアが、真剣な顔で頷いた。
「アルベルト大神官長を助け出したら、その次は」
俺は、空を見上げた。
雲の切れ間から、光が差し込んでいた。
「ルミナちゃんの、本当の正体に向き合う番だ」
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