第37話:太陽神教の大神官長、再び
地面が、割れた。
亀裂が、村全体を走り抜けた。地中から噴き上がる瘴気の量が、これまでの比ではなくなった。黒い靄が柱のように立ち上り、村の空を覆い始める。昼間なのに、周囲が薄暗くなっていく。
「アキ様……!」とフィリアが叫んだ。「このままでは防護魔術が……!」
「演舞を続けろ……!」
俺はサイリウムを握り直した。
光が、瘴気に押されて、揺らいだ。前世のライブで、停電したとき客席のペンライトが一斉に点滅した光景を思い出した。あのときは綺麗だったが、今は全然そんな気分じゃない。
「シル、ツバキさん、声を……!」
「……んっ!」
「分かりんした……!」
二人の声が、揺らぐ光に重なった。でも瘴気は止まらなかった。地面の亀裂から湧き出す靄が、演舞の光を呑み込もうとするように、じわじわと押し寄せてくる。
前線ではゴエモンとレナが靄の人型を斬り続けていたが、数が多すぎた。一体斬っても、亀裂からまた二体三体と湧き出してくる。レナの額に、汗が伝った。
「これ……どうにかならんのか……!」とゴエモンが舌打ちした。
「演舞が終われば止まる……! もう少しだ……!」
俺はそう叫んだが、正直、自信は半分もなかった。前回は村の外で邪神教団を退けたが、あのときと今回とでは、規模が違いすぎる。
「……やめよ」
低い声が、聞こえた。
俺は、声の方向を見た。
村の入口に、一人の老人が立っていた。
白髪に、黄金の杖。くすんだ色の外套。
「……っ」
俺は、固まった。見覚えがある。あの、鷹のような目。
「アルベルト……大神官長?」
表情は、王宮で見たときとは別人のようだった。あのときの「見下ろす者」の眼光が、今は、焦点の定まらない虚ろな光に変わっていた。目の前に人間がいるのに、何も映っていない目。
フィリアが息を呑んだ。ゴエモンが「知り合いか」と小声で聞いた。「全く友好的じゃない相手です」と俺は返した。
ツバキが、俺の隣でそっと聞いた。「あの御方は……」
「太陽神教の大神官長だ。王国最大の宗教の頂点に立つ人間だ」
「それが、なぜ……」
「操られてる」
「光の女神とやらの聖歌隊よ」とアルベルトが言った。「貴様たちが、我らの計画を妨げ続けている」
その声に、感情がなかった。王宮で「覚えておれ、聖下」と捨て台詞を残したあの老人の声とは、まるで別人だった。何者かに言葉を吹き込まれているような、空洞の声だった。
「ナイアル様の御意志のもとに、すべては統べられる。太陽神教も、ルミナ教も、すべての信仰は、無に帰す」
「……操られてる」と俺は小声で言った。
隣でフィリアが「やはり……!」と呟いた。王都からの噂通りだった。
◇
ヴァルターが、剣を抜きながら前に出た。
「止まれ!」
切っ先を、アルベルトに向ける。
「聖下、あの者はもう人ではないかもしれません」
ヴァルターが、俺を振り返らずに言った。
「待ってください」
俺は、ヴァルターの前に手を出して制した。
「あの人は自分の意志で動いていない。正気に戻る可能性がある」
ヴァルターが剣を下げながらも構えを解かない中、俺はアルベルトに向かって歩み出た。
「アルベルト大神官長」
虚ろな目が、少しだけ動いた。
「あんたは王宮で言ったな。『覚えておれ』と」
「……」
「覚えてるよ。あんたは負けず嫌いで、プライドが高くて、太陽神教を二百年守り続けた人間だ。そういう奴が、邪神の道具になって、人の村を更地にするか?」
アルベルトの目が、かすかに揺れた。
「……余計なことを」
声に、わずかだが、感情が滲んだ。
「黙れ……」
「黙らない」
アルベルトが、杖を掲げた。黒い瘴気が杖の先端に集まり始める。同時に、地面の亀裂がさらに広がった。ゴエモンが「ちっ……また増えとる!」と叫びながら、靄の人型を斬った。レナが、迫ってくる瘴気の塊を剣で薙ぎ払った。
前線が、じりじりと押されていた。
それでも俺は、前に進んだ。
「あんたが積み上げてきたものは本物だ。二百年続いた信仰は本物だ。それを誰かに奪わせるな」
「……黙れと言っておる……!」
声の震えに、怒りではなく、別の何かが混じっていた。
俺はもう一歩、踏み込んだ。
瘴気が、俺の足元まで迫っていた。フィリアの防護魔術が、ぎりぎり守ってくれていた。
「……っ」
アルベルトの手が、震えた。
杖が、揺れた。
瘴気が、揺らいだ。
その瞬間だった。
アルベルトの目から、虚ろさが消えた。
「聖下……」
かすれた声だった。でも、確かにアルベルト自身の声だった。俺が王宮で見た、あの鷹のような目が戻っていた。力があって、プライドがあって、折れない男の目が。
後ろでフィリアが、ほとんど声にならない声で「大神官長……!」と呟くのが聞こえた。
「アルベルト大神官長!」
俺は、大きく声を張った。
「聖下……」アルベルトの目に、苦しさが浮かんだ。「儂は……何を……」
「今は細かい話は要らない。あんたは今、誰かに操られてる。それだけ分かればいい」
「……ナイアルの……力が……儂の中に……」アルベルトの手が、杖を握ったまま、小刻みに震えていた。「抗えぬ……抗えぬのだ……儂は……」
「逃げろ」
「……え」
「今、正気があるうちに、この場を離れろ。後で必ず助けに行く」
「……聖下」アルベルトの声に、かすかに笑いの気配が混じった。「貴公は……相変わらず……変わったお方だ……」
「よく言われる」
「逃げよ……儂ではなく、聖下が……」声が急に細くなった。「奴が……来る……ナイアルの使徒が……儂はもう……保たぬ……」
「大神官長! もう少し……!」
俺は、必死に呼びかけた。
「……光の女神の、御業が……眩しい……」
次の瞬間、アルベルトの目が、また虚ろに落ちた。
杖が地面を叩いた。
黒い瘴気が、これまでで最大の勢いで噴き出した。
「……っ!」
フィリアの防護魔術が悲鳴を上げ、俺は後ろへ吹き飛ばされた。地面に転がって、頭を上げたとき、アルベルトの姿はすでに瘴気の中に消えていた。
◇
「アキ様……!」
フィリアが駆け寄ってきた。「大丈夫ですか……!?」
「大丈夫だ」
立ち上がり、膝の土を払った。体は何ともない。ただ、耳の奥にアルベルトの最後の言葉が残っていた。
「……光の女神の、御業が、眩しい」
太陽神教の大神官長が、ルミナ様の光を眩しいと言った。
操られながらも、正気の欠片が残っている。
「助ける」と俺は言った。
「しかし……今はどこにいるかも……」とフィリアが不安げに言った。
「絶対に助ける。あの人は敵じゃない」
フィリアが、小さく頷いた。
「ゴエモンさん!」と俺は叫んだ。
「はーい」
「ナイアルの使徒が来るらしい。準備を」
「……ほんまに忙しない現場やな」
ゴエモンが、刀の柄に手をかけた。
「アルベルト大神官長を取り戻す」と俺は全員に向けて言った。「その前に、使徒と戦うことになるかもしれない。でも、目的はあくまでアルベルト大神官長の救出だ。忘れるな」
「分かった」とレナが言った。
ミレイが「大神官長というのは……どんな方ですか」と聞いた。
「会ったことがあります。確かにプライドが高くて、正直好きな人間じゃなかった。でも、敵に操られる前は、自分の信仰に誇りを持っていた人間だ。ルミナ様の前から敵対的に退場したけど、それも信仰のためだった」
「だから助けるんですか」
「信仰のために戦える人間を、邪神の道具のままにはしておけない」
ミレイが、頷いた。
ツバキが「わっちには……あの御方の気持ちが、少しだけ分かる気がいたしんす」と言った。
「分かりますか」
「十年、ただ正確に歌うことだけを叩き込まれていたわっちも……信じてきたものが、あの御方にはありんしょう。それを奪われた痛みは……」ツバキは言葉を切って、続けた。「絶対に、助け出してやってくださいませ」
「助ける。約束する」
シルが、サイリウムを強く握り直した。その目が、前を向いていた。
「行くぞ」
俺は、サイリウムを掲げた。
瘴気の向こうに、気配があった。
アルベルトが言っていた「使徒」が、今まさに、来ようとしていた。
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