第35話:黒い瘴気は、海を越えて
宴の翌朝の知らせから、半刻も経たないうちだった。
「エルドラドの使節殿に、火急の用向きにて参上いたしました」
宿の前に現れたのは、御所の使者だという男だった。烏帽子に正装、息を切らしている様子から、よほど急いで来たことが分かった。額には汗が浮かび、声も少し掠れていた。
「ミカド様より、お言葉を預かって参りました」
「ミカド様が、俺たちに?」
俺は驚いた。ゴエモンが「御所が直々に異国の使節に声をかけるなんて、滅多にないことやで」と小声で言った。普段の軽さが消えていた。
使者は、深く頭を下げてから続けた。
「北の村にて、忌まわしき異変が起きておりまする。土地の者たちは、これを『黒の祟り』と呼び、恐れおののいております。御所の陰陽師たちも手を尽くしましたが、効果なく……」
「効果がない、というのは」
「祓いの術が、まったく通じぬのです。むしろ、術者が近づくほど、靄が勢いを増すと」
俺は、フィリアと顔を見合わせた。互いに、同じことを思っていた。
メリオールの記録と、完全に符合していた。
「ミカド様は、異国より参られた光の女神の聖歌隊の噂を、すでにお聞きになっております。瘴気を退けた奇跡の御業を持つ方々と」
「それで、俺たちに」
「はい。不躾なお願いとは存じますが……どうか、お力をお貸しいただけませぬか」
使者が、地面に膝をついた。
「このままでは、北の村のみならず、この国全土に、災厄が広がるやもしれませぬ」
座敷に、しばらく沈黙が落ちた。
ツバキが、唇を引き結んでいた。加入してまだ一日も経っていない。最初の仕事が、こんな話だとは思っていなかったはずだ。シルが、サイリウムをぎゅっと握りしめて、ツバキの様子を窺っていた。
俺は、しばらく使者を見ていた。
それから、メンバーを見渡した。
レナが、無言で頷いた。剣のホルスターに、自然と手が伸びていた。ミレイが、緊張した顔で唇を結んだ。シルが、サイリウムを胸に抱きしめた。ツバキが、まだ加入して間もない不安を見せながらも、まっすぐ前を見ていた。
「行きます」と俺は言った。「ヤマトの現場も、潰させない」
使者が、安堵の表情を浮かべた。
「ありがとうございます……! ありがとうございます……!」
何度も頭を下げる使者を見ながら、俺はサイリウムを懐から取り出した。永久機関のオレンジの光が、朝の宿に静かに灯った。
◇
北の村へ向かう道中、誰も口を開かなかった。
ゴエモンが先導し、その後ろにヴァルター、レナ、ミレイ、シル、ツバキ、フィリア、そして俺が続いた。空は晴れていたが、進むほどに、空気が重くなっていくのが分かった。
道の途中、村から逃げてきたらしい荷車とすれ違った。荷車には、最低限の家財だけが積まれていた。引いている男が、俺たちとすれ違う瞬間、怯えた目でこちらを見た。何か言いたげだったが、結局何も言わずに、足早に去っていった。
その背中を見送りながら、フィリアが小さく呟いた。
「……怖いのでありんすね、みんな」
ヤマト語に少し混ざった花魁口調に、誰も突っ込まなかった。それだけ、空気が張り詰めていた。
村が見えてくる頃には、すでに異様な光景が広がっていた。
田畑の一部が、黒く枯れていた。
枯れているというより、色そのものが抜け落ちているような、不気味な黒さだった。地面に細い亀裂が走り、そこから薄く黒い靄が立ち上っていた。風もないのに、靄はゆっくりと、村の中心へ向かって流れているように見えた。
匂いがあった。
土が腐ったような、それでいて金属的な、嗅いだことのない匂い。前世では絶対に嗅いだことのない、異世界の異臭だった。鼻の奥にまとわりついて、離れなかった。
「……メリオールと、同じだ」
俺は呟いた。
フィリアの記憶にあった文献の描写と、目の前の光景が重なった。空が黒く染まり、大地から瘴気が噴き出す。あの記録通りの始まりだった。
「住民は……」とヴァルターが村を見渡しながら言った。
「逃げたみたいです」とミレイが、空き家になった軒先を見ながら言った。「でも、全員じゃ……」
村の中ほどに、数人の老人が、家の前にうずくまっていた。逃げ遅れたのだろう。足腰が弱く、若い者たちと一緒に走れなかったに違いない。一人の老婆が、地面に座り込んだまま、震える手で胸の前に何かを抱えていた。よく見ると、小さな位牌だった。
「フィリアさん、防護を」
「は、はい……!」
フィリアがすぐに防護魔術を展開した。淡い光の膜が、俺たちと老人たちを覆った。
「大丈夫ですか」
俺が駆け寄ると、老人の一人が震える声で言った。
「あ、あんたたちは……」
「エルドラドから来た者です。今、安全な場所に移動させます」
「お、お助けくださるんですかい……!」老人の目に、涙が滲んだ。「もう、駄目かと……このまま、村と一緒に消えるのかと……」
「もう大丈夫です」
位牌を抱えた老婆が、かすれた声で言った。
「先祖代々、この土地で生きてきましたんじゃ……それが、こんな……」
その声に、誰も何も言えなかった。
ゴエモンが、無言で老人たちを担いで運び始めた。「俺も手伝うで」とレナが続いた。二人は手慣れた様子で、震える老人たちを背負い、村の外へと運んでいった。
その間も、亀裂からは靄が立ち上り続けていた。
「これは……このままだと」
フィリアの声が、震えていた。
「村全体が、メリオールと同じことに」
俺は、サイリウムを握った。手のひらに、永久機関の光の熱が、じわりと伝わってくる。
「やらせない」
◇
老人たちを村の外まで避難させたあと、俺たちは村の中央に戻った。
亀裂は、すでに村全体に広がりつつあった。地中から噴き出す靄が、徐々に空気を侵食していく。井戸の水が、黒く濁り始めていた。神社の鳥居の朱色も、足元から黒ずんでいくのが見えた。
「これ、どうにかなるんでありんすか」とツバキが、不安そうに聞いた。声の震えを隠せていなかった。
「分からない」と俺は正直に言った。「でも、何もしないよりはマシだ」
「演舞で、瘴気を抑えられるんですか」とミレイが聞いた。
「ギルバートで邪神教団と戦ったとき、コールと演舞の光が、瘴気を押し返した。今回も同じはずだ」
「分かりんした」とツバキが頷いた。深く息を吸って、自分に言い聞かせるように、もう一度頷いた。「やってみましょう」
「待て」
ヴァルターが、剣を抜きながら言った。
「来るぞ」
村の奥、社の方角から、黒いローブの集団が姿を現した。
足音は、しなかった。
地面を歩いているはずなのに、まるで影が滑るように、音もなく近づいてくる。数は五人。フードを目深に被り、顔は見えない。一人が、杖のようなものを掲げていた。先端に、見覚えのある紋章——八つの目を持つ蛇が、輪を描いて尾を喰らっている図——が刻まれていた。
「邪神教団……!」とフィリアが叫んだ。
先頭の一人が、ゆっくりと立ち止まった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
風が、村の中を吹き抜けた。黒い靄が、その風に乗って、わずかに揺れた。
「光の女神の聖歌隊か」
ようやく、フードの奥から低い声がした。
「エルドラドだけでは飽き足らず、この国にまで足を伸ばすとは」
「お前らこそ」と俺は言った。「ここで何をしている」
「決まっている」フードの奥で、男が嗤った気配がした。「我らが主、邪神ナイアル様の御業を、この地にも広めるのみ」
「ナイアル……」
その名前を、俺は初めて聞いた。だが、フィリアの顔が、さらに青ざめた。
「アキ様……邪神教団の信仰する、その名」
「知ってるのか」
「文献に、一度だけ目にしたことがあります」とフィリアは、声を抑えながら言った。「世界各地の信仰を呑み込み、すべてを『無』に帰そうとする存在、と」
「無に帰す……」
フードの男が、杖を掲げた。
「問答は無用だ。ここを、新たな更地にするだけのこと」
地面の亀裂が、一斉に広がった。
黒い靄が、噴水のように噴き出した。村の空気が、一気に重くなった。空の青さが、急速に灰色に染まっていく。
「来るぞ……!」とヴァルターが叫んだ。
「全員、構えろ!」
俺は、サイリウムを構えた。
サイリウムの光が、噴き出す黒い靄に照らされて、いつもより力強く見えた。前世のライブで、暗闇の中でひと際輝くペンライトの光と、同じだった。
「迎え撃つより、やることがある」
「やること、とは」とゴエモンが聞いた。
「演舞だ」
「は? 今からか?」
「今からだ」
俺は、メンバーを見渡した。
レナが、剣を抜きかけて、止めた。ミレイが、魔術書を構えかけて、俺を見た。シルが、サイリウムを構えた。ツバキが、緊張した面持ちで頷いた。
四人の目に、迷いはなかった。
「これは戦いじゃない」と俺は言った。「ライブだ」
「……は?」
「奪われたものを取り返すんじゃない。届けるものを、届けるだけだ。それで、瘴気は押し返せる」
ゴエモンが「お前、ほんま変な奴やな……」と呟きながらも、刀の柄に手をかけた。その口元に、わずかだが、笑みが戻っていた。「ええわ、信じたるわ。前線は俺とレナで支える」
「頼む」
「あんさんは、歌う方に集中せえ」
レナとゴエモンが、瘴気の前に立った。レナが剣を抜き、ゴエモンが刀の鞘を払う。二人の間に、不思議な連携の気配が漂っていた。初めて組むはずなのに、すでに息が合っているように見えた。
「行くぞ」
俺はサイリウムを掲げた。
光が、夜明け前の村に灯った。
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