第33話:歌巫女ツバキ、魂の一曲を歌う
数日後、宵ノ國で年に一度の祭りが開かれることになった。
「夏越の祭り」とゴエモンが教えてくれた。一年の半分が終わる節目に、穢れを払い、後半の無事を祈る祭りだという。花街の歌巫女が、その夜に奉納の歌を捧げるのが慣わしらしい。
「今年は、ツバキが歌うことになっとる」とゴエモンが言った。
「毎年やってることですか」
「そや。毎年、宵ノ國中の客が集まる、一番でかい現場やな」
その言葉に、俺は少し驚いた。ゴエモンが「現場」という単語を自然に使っていた。いつの間にか感染している。
「ツバキさんは、その話を知ってるんですか」
「知っとるで。今、めちゃくちゃ悩んどる」
◇
その日の午後、宵ノ國の座敷でツバキと顔を合わせた。
ツバキは、いつもより硬い表情をしていた。
「祭りの話、聞きました」
「……はい」とツバキは頷いた。「夏越の祭りでありんす。宵ノ國始まって以来、毎年歌巫女が歌う行事でありんす」
「今年は、ツバキさんが歌う番ですか」
「……そうでありんす」
ツバキは、膝の上で手を握っていた。
「正直に申し上げますと」とツバキは続けた。「怖いのでありんす」
「怖い、というのは」
「今までは、ただ正確に歌えばよかりんした。技術だけで十分でありんした。でも、今は」
ツバキの声が、少し震えた。
「心を込めて歌おうとすると、何をどうすればいいか分からなくなりんす。今までの歌い方では駄目な気がして、でも、新しい歌い方も分からなくて」
「そうですか」
「もし、祭りの場で、何も込められないまま終わってしまったら……それなら、今まで通り、技術だけで歌った方がいいのではないかと」
俺は、ツバキの言葉を聞いていた。
「ツバキさん」
「……はい」
「失敗してもいいです」
ツバキが、顔を上げた。
「俺たちのコールも、最初は全然揃わなかった。何十回も失敗した。今でも完璧じゃない。でも、それでも前に進んでる。一回の祭りで完璧にする必要はないです」
「……でも、これは毎年一度の、大切な奉納で」
「大切だからこそ、ちゃんと自分の今の気持ちで歌った方がいい。技術だけの歌より、不完全でも心が乗った歌の方が、ずっと人に届きます」
ツバキは、しばらく俺を見ていた。
「……根拠は、ありんすか」
「俺たちが証明してます」
ツバキが、少しだけ笑った。困ったような、でも温かい笑い方だった。
「……そうでありんしたね」
◇
夏越の祭りの夜。
宵ノ國の通りは、提灯と屋台で埋め尽くされていた。前世の夏祭りそのものだった。串焼きの匂い、太鼓の音、子供たちの笑い声。俺はその空気を吸い込むたびに、胸の奥が熱くなるのを感じた。
神社の境内に、特設の舞台が組まれていた。観客は、もう数百人を超えていた。ヤマトの民だけでなく、近隣の村からも人が集まってきているらしい。
「すごい人数でありんすね」とミレイが、舞台の袖で言った。
「毎年こうなんや」とゴエモンが言った。「夏越の歌巫女の奉納は、宵ノ國一番の見世物やからな」
レナが「緊張してきた」と珍しく弱音を吐いた。
「お前らが緊張してどうする」と俺は言った。「今日の主役はツバキさんだ」
舞台の中央に、ツバキが立っていた。
桜色ではなく、今日は白地に金の刺繍が入った特別な衣装を纏っていた。長い黒髪を高く結い上げ、白粉の顔は、いつもより張り詰めていた。
観客が静まり返った。
太鼓の音が、一度、鳴った。
ツバキが、目を閉じた。
俺は、舞台の袖から、その横顔を見ていた。
(誰を、思い浮かべてる)
ツバキは、しばらく目を閉じたままだった。
それから、ゆっくりと、口を開いた。
最初の一音が、夜の境内に響いた。
◇
技術は、変わらず完璧だった。
音程は狂わない。声量も制御されている。それは、十年間積み上げてきたものだから、当然だった。
でも、何かが違った。
声に、震えがあった。
緊張からくる震えではない。何かを抱えながら、それでも前に進もうとする、確かな震えだった。
ツバキの目は、観客の方を見ていなかった。視線が、定まらず揺れていた。
俺は、それを見て分かった。
(誰を思い浮かべればいいか、まだ迷ってる)
歌は、まだ宙ぶらりんだった。技術はあるのに、行き先が定まらない声。空に向かって投げられた声が、誰にも受け止められずに消えていく。
このままだと、また、いつもの歌になる。
俺は、サイリウムを握った。
舞台に出るかどうか、迷った。でも、これはツバキが一人で乗り越えるべき瞬間だ。
その時。
ツバキの視線が、舞台の袖に、止まった。
シルが、そこに立っていた。
サイリウムを胸に抱えて、じっとツバキを見ていた。
ツバキの目が、シルに合った。
そして——歌が、変わった。
◇
声の震えが、止まった。
代わりに、声に、芯が通った。
ツバキの目が、シルだけを見ていた。たった一人だけに、声を届けようとしていた。
シルが、サイリウムを掲げた。オレンジの光が、夜の境内に灯った。
ツバキの歌声が、その光に呼応するように、強くなった。
観客が、息を呑んだ。
「……あれは」「歌が……変わった……?」「なんと美しい……!」
レナが、隣で小さく言った。「……変わったな」
「ああ」
俺は、ツバキの歌を聴いていた。
技術は変わらない。でも、声に体温があった。シルに届けようとする一心が、声の中に確かに乗っていた。
歌が、続いた。
ツバキの目から、涙が一筋流れた。
歌いながら、泣いていた。声は乱れなかった。技術が、その涙を支えていた。
夜空に、光が満ちていった。
シルのサイリウムの光と、ツバキの歌声が共鳴して、境内全体がオレンジに包まれていく。提灯の灯りと混ざって、神社の屋根まで、温かい光が満ちた。
観客が、誰からともなく、すすり泣き始めた。
「……なんと美しい歌でありんしょう」「胸が、痛い……」「これが、心を込めた歌……」
ツバキの一曲が、終わった。
境内が、静まり返った。
それから、割れんばかりの拍手が、夜空に響いた。
◇
ツバキは、舞台の上で、肩で息をしていた。
涙が、まだ頬を伝っていた。
俺は、舞台の袖から歩み出た。
「ツバキさん」
ツバキが、こちらを見た。
「……アキ様」
「いい歌じゃねえか」
その瞬間、ツバキの涙が、また溢れた。
「……これが」とツバキは言った。「これが、心を込めるということでありんすね……」
「そうです」
「わっち……」ツバキの声が、震えた。「初めて、分かりんした。歌を、誰かに届けるということが」
「シルさんを見て歌いましたね」
「……はい」ツバキが、舞台の袖を見た。シルが、サイリウムを抱えて、じっとこちらを見ていた。「あの子の光が見えたとき、急に、何を歌えばいいか分かりんした。あの子に、届けたいと思いんした」
「届きました」
「……本当に、でありんすか」
「観客みんな泣いてました。あなたの歌は、ちゃんと届きました」
ツバキは、もう一度、涙を拭った。
それから、深く頭を下げた。
「……ありがとうございんす」
その言葉は、十年間誰にも言ったことのない、心からの感謝だった。
夜空に、まだ光の余韻が、ゆらりと残っていた。
太鼓の音が、また一つ、祭りの続きを告げるように響いた。
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