第32話:アイドルの「現場」は、心が動く場所
「今日から、ツバキさんに『推し』を見つけてもらう特訓をする」
朝、宵ノ國の茶屋の前で、俺はそう宣言した。
「特訓、でありんすか」とツバキが言った。
「そうだ。歌う前に、まず心が動く体験をしてもらう。話はそれからだ」
「……心が動く体験とは」
「街を歩いてもらう」
「街は、毎日歩いておりんす」
「いつもと違う歩き方をする」
ツバキが「違う歩き方……?」と首を傾げた。
ゴエモンが横で「アキ、また変なこと言い出したな」と笑った。
「変じゃないです。ヲタ活の基本です」
「ヲタ活の基本が街歩きなんか」
「現場の外で心が動く瞬間を見つけることも、ヲタ活には大事です」
ゴエモンが「ようわからんけど、まあ付き合うわ」と言って、結局ついてきた。
◇
最初に向かったのは、宵ノ國の外、ヤマトの庶民が暮らす商人町だった。
朝の市場は、活気にあふれていた。魚を売る声、野菜を売る声、子供たちが走り回る声。
「ここで何を」とツバキが聞いた。
「何も。ただ見てください」
「見るだけ、でありんすか」
「人を見てください。何でもいい。気になる人を一人見つけて、その人をしばらく目で追ってみてください」
ツバキは戸惑いながらも、市場を見渡した。
しばらくして、一人の老婆に目が止まった。年老いた手で、丁寧に大根を選んでいる。隣には、小さな孫らしき子供がいて、老婆の袖を引っ張って何かをねだっていた。
老婆が、孫の頭を撫でて、優しく笑った。
ツバキは、その様子をじっと見ていた。
「……」
「何か、感じましたか」
「……何も」とツバキは言った。「ただの、ありふれた光景でありんす」
「そうですか」
「特に、心が動くようなことは」
そう言いながらも、ツバキの目は、まだ老婆と孫を追っていた。
俺は何も言わなかった。今はこれでいい。
◇
次に向かったのは、神社の参道近くにある小さな広場だった。
そこでは、子供たちが集まって、何かの遊びをしていた。輪になって、歌いながら手を叩く遊びだ。
「あれは何の遊びですか」と俺はゴエモンに聞いた。
「ああ、わらべ歌や。子供の頃にみんなやるやつ。意味のない歌詞やけど、リズムが楽しいんよな」
「アキ様……!」
フィリアが、いつの間にか羊皮紙を構えて隣に立っていた。「これはワシンジにおける『童心鍛錬法』にございます……! 幼き者たちが無心に声を重ねることで、未来の術者としての素養を育む、古代の教育術式……!」
「フィリアさん、ただの遊びです」
「同じことですアキ様」
「いや違います」
「歌詞に意味がないのも、深い意味があるからこそでございます……! 言葉を超えた魂の共鳴を、子供たちは本能で行っているのです……!」
「無理矢理すぎませんか」
「無理矢理ではありません、これは考察です」
ツバキが、その様子を横目で見ながら「……賑やかな方でありんすね」とぽつりと言った。
「いつもこうです」
「お疲れになりんせんか」
「もう慣れました」
子供たちの歌声は、お世辞にも上手いとは言えなかった。音程はバラバラで、リズムも所々崩れていた。
でも、子供たちは全力で楽しそうだった。
ツバキは、その様子を眺めていた。
「……下手、でありんすね」とツバキが、小さく言った。
「そうですね」
「音程も、リズムも、揃っておりんせん」
「揃ってないですね」
「でも」
ツバキの目が、子供たちから離れなかった。
「……楽しそうでありんす」
「ええ」
「なぜ、あんなに下手なのに、楽しそうなのでありんしょう」
「上手いことと楽しいことは、別だからです」
ツバキが、俺を見た。
「歌巫女として育てられたわっちには、それは……」
そこで、ツバキは言葉を止めた。
子供の一人が、輪から外れて、こちらに駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、一緒に歌う?」
無邪気な目で、ツバキを見上げていた。
ツバキが、固まった。
「……わっち、でありんすか」
「うん! お姉ちゃん、いい着物着てるから、輪に入ってよ!」
ツバキは、困った顔で俺を見た。助けを求める目だった。
俺は何も言わなかった。ただ、見ていた。
「……分かりんした」
ツバキは、おずおずと輪に加わった。
子供たちの下手な歌に、ツバキの完璧な声が混ざった。明らかに浮いていた。技術が違いすぎた。子供たちが「お姉ちゃん上手ー!」と笑いながら言った。
ツバキは、戸惑いながらも、最後まで歌い切った。
歌い終わったあと、子供たちが「ありがとー!」と言って、また走り回り始めた。
ツバキは、その場に立ち尽くしていた。
「……」
「どうでした」
「……分かりんせん」とツバキは言った。「ただ……」
「ただ?」
「あの子が、嬉しそうに笑っていたのが……なぜか、嬉しかったでありんす」
俺は、にやりとした。
「それです」
「それ、とは」
「今、ツバキさんの中で何かが動いた。それが、推しの種です」
ツバキが「種……?」と戸惑った。
「育てれば、ちゃんとした感情になります」
ツバキは、自分の胸に手を当てた。何かを確かめるような仕草だった。
◇
昼過ぎ、俺たちは宵ノ國に戻った。
茶屋の座敷で、シルが一人、サイリウムを磨いていた(光るので磨く必要はないのだが、シルはこの行為が好きらしい)。
「シル」
俺が声をかけると、シルが顔を上げた。
「ツバキさんに、歌を聴かせてやってくれないか」
シルは、こくりと頷いた。
ツバキが、少し緊張した顔でシルの前に座った。
シルが、小さく息を吸って、声を出した。
短い、メロディにもならないただの一音。でも、その音には、複数の音が重なるような独特の響きがあった。
ツバキは、目を閉じて聴いていた。
歌い終わったあと、ツバキはしばらく黙っていた。
「……今、何を考えながら歌いんしたか」
ツバキが、シルに聞いた。
シルは、地面に指で文字を書いた。
「みんなに とどけたい」
「みんな、とは」
シルは、もう一度書いた。
「あき れな みれい ふぃりあ つばき」
ツバキの目が、揺れた。
「……わっちも、含まれているのでありんすか」
シルが、こくりと頷いた。
ツバキは、しばらく何も言えなかった。
それから、小さく、本当に小さく、声を出した。
「……ありがとう」
歌巫女としての完璧な発声でも、花魁としての言葉遣いでもない、ただのありがとう、だった。
シルが、耳をぴんと立てた。
◇
夕方、ゴエモンが俺の隣に来て、小声で言った。
「お前、なかなかうまいことやるな」
「何がですか」
「ツバキに、いろんな心動かす場面、見せまくってるやろ」
「特訓ですから」
「特訓って言うか……まあ、ええわ」
ゴエモンは、ツバキの方を見た。
ツバキは、まだシルと何か話していた。普段の能面のような顔ではなく、興味津々という顔だった。
「あいつ、ずっとああいう顔できるようになったらええんやけどな」
「そう思ってるなら、応援してやればいいじゃないですか」
「俺は応援なんかしとらんで」
「してるじゃないですか、さっきから」
「茶々入れとるだけや」
「茶々を入れるフリして応援してるのでは?」
ゴエモンが「うるさいわ」と言って、視線を逸らした。耳が少し赤くなっていた。
この男も、なかなか素直じゃない兄貴分らしかった。
「明日も特訓するんか」とゴエモンが聞いた。
「します」
「次は何させるんや」
「考え中です」
「適当やな」
「ヲタ活に正解はないんです。心が動くものを、片っ端から見せていくだけです」
ゴエモンが「お前のそのフラフラした感じ、嫌いやないで」と笑った。
夕暮れの宵ノ國に、提灯の灯りがまた一つ、灯り始めていた。
ツバキの横顔が、その灯りに照らされて、いつもより少し、柔らかく見えた。
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