第31話:わっちには、推しがおざりんせん
カムロ・ツバキ、十七歳。宵ノ國の歌巫女。
その夜、ツバキは行燈の灯りの下で、一人、三味線の弦を爪弾いていた。
音は出ていた。正確で、澄んでいて、師匠に何年も褒められてきた音だった。
でも、弾く手が、途中で止まった。
(どうしてでありんしょう)
ツバキは弦を見つめた。
今日、神社で見たものが、頭から離れなかった。
あの、銀の髪の子の声が。
◇
ツバキが歌巫女になると決まったのは、物心つく前のことだった。
宵ノ國の歌巫女の家系に生まれた子は、歩き始めるより前に音に触れる。母が歌い、祖母が歌い、その母も歌い手だったと聞かされて育つ。ツバキも、そうだった。
「声は、道具でありんす」
師匠にそう言われたのは、六つの頃だった。
「感情を乗せる必要はありんせん。正確に、美しく。それが神への奉納でありんす」
その言葉を、ツバキは疑わなかった。
疑う理由がなかった。周りの大人たちも、師匠も、全員そう言った。歌巫女の歌とは、そういうものだと。心ではなく、技術で歌うものだと。
十年かけて、ツバキは完璧な技術を身につけた。
音程は狂わない。息は乱れない。声量の制御は、師匠が「これ以上教えることはない」と言うほどになった。
それで、十分だと思っていた。
ずっと、十分だと思っていた。
(でも)
ツバキは三味線から手を離した。
(あの子の声は、なんでありんしたか)
シルという名の、銀の髪の子。獣人だと、あの異国の男は言った。人間とは声帯の作りが違うのだと。
だから、あの声は人間の声とは違っていた。倍音が重なって、一つの声なのに、複数の音が鳴っているような。神社の境内で、あの声が響いたとき、玉砂利の上に光が広がった。
ツバキは、それを見て、胸が痛くなった。
技術ではなかった。あの子の声は、技術で言えば、完璧ではなかった。音程が揺れるところがあった。声量が一定でないところがあった。
なのに、あの声は、ツバキの胸の奥まで届いた。
(なぜでありんしょう)
ツバキは行燈の炎を見つめた。
あの異国の男は言っていた。「誰かに届けようとして歌っている。それだけです」と。
届けようとする。
誰かに。
(わっちには、そのような相手が、おりんせん)
ツバキは、自分の手のひらを見た。
生まれてからずっと、歌ってきた。朝に歌い、夜に歌い、祭りに歌い、神社に歌い。誰かのためではなく、正確に美しく歌うために、歌い続けてきた。
届けたいと思ったことが、あっただろうか。
(……ない)
正直に言えば、ない。
歌は仕事だった。仕事だから、上手くやる。それだけだった。
なのに、今日初めて見た異国の聖歌隊の歌に、胸を締め付けられた。
◇
あの異国の男の話に、ツバキは引っかかっていた。
「推し」というものの話だ。
心から応援したい誰か。その人のために力を出したいと思える誰か。その人が喜ぶところを見たくて、夜も眠れなくなるような誰か。
(そのようなものが、あるのでありんしょうか)
ツバキには分からなかった。
宵ノ國で育って、十七年。見てきたものは、歌の稽古と、神社の奉納と、花街の四季だった。心が動くとしたら、三味線の新しい曲を覚えたとき、くらいのものだった。
それを推し、と言えるのだろうか。
(違う気がいたしんす)
あの男が言う「推し」は、もっと違うものだとツバキには分かった。命を燃やすような、何かだ。あの男がサイリウムという光る棒を振るとき、全身からそういうものが滲み出ていた。あれが、推し活というものの姿なのだとしたら。
ツバキには、そんなものがない。
(ないのでありんす)
三味線の弦に、また指を触れた。
音が出た。正確で、澄んだ音が。
その音を聴いて、ツバキは思った。
この音に、誰かの胸を締め付ける力があるだろうか。
(ない)
あっさりと、そう思えた。技術はある。でも、あの銀の髪の子がやっていたことは、できない。届けようとする相手もいないし、届けようとする気持ちもない。
ただ、正確に音を出すだけだ。
それが、十七年間のわっちの歌だ。
(……悔しい)
その感情が出てきたとき、ツバキは少し驚いた。
悔しい、と思ったのは、久しぶりだった。いや、こういう悔しさは、初めてかもしれなかった。技術で負けたわけではない。でも、確かに何かで負けた気がした。
あの聖歌隊の歌に。
あのシルという子の声に。
(わっちにも、できるのでありんしょうか)
ツバキは、しばらく行燈の炎を見ていた。
◇
翌朝、宵ノ國の茶屋の前で、ツバキはあの男を待った。
来るかどうか、分からなかった。でも、昨日「また来る」と言っていた。あの男の言葉は、妙に信用できた。理由はなかったが。
「おはようございます」
石畳の向こうから、声がした。
あの男が来た。アキラと名乗っていた。後ろに、あの一行が続いていた。
「来ると思っていました」とツバキは言った。
「昨日そう言いましたから」
「……そうでありんしたね」
「ツバキさんの方こそ」
「わっちも、来ると言いありんした」
「でも、もしかしたら来ないかと思ってました」
ツバキは少し間を置いた。
「……正直な方でありんすね」
「ツバキさんが正直に話してくれるので、俺も正直に返しています」
「……昨日も、そう仰いありんした」
「昨日も、今日も同じです」
ツバキは、アキラを見た。
この男は、変な男だ。異国から来て、光る棒を振り回して、歌に心を込めろと言う。理屈は、分からなくもない。でも、それだけでは到底届かないはずの何かを持っている。
「一つ、聞いてもよろしいでありんすか」
「どうぞ」
「昨日、わっちに心を込めて歌えるようになると思うか、とは仰いありんせんでした。わっちには、なれますか」
アキラが、少し考えてから言った。
「なれると思います。でも、それはツバキさんが決めることです」
「わっちが決める……」
「技術はもう持っている。あとは使い方の問題です」
ツバキは、また黙った。
「使い方……」
「届けたい相手を、一人だけ思い浮かべれば、歌は変わります。誰でもいい。ただ一人だけ。その人の顔を思い浮かべて、その人に届くように声を出してみてください」
「そのようなことを言われても、わっちには……」
「誰かいませんか。歌を聴かせたい人が」
ツバキは、少し考えた。
思い浮かべた。
宵ノ國の子供たちの顔が浮かんだ。花街で育った子供たちは、ツバキの歌を何度も聴いてきた。「ツバキ姉さんの歌は上手いね」と言ってくれた子がいた。ただそれだけだった。上手い、と言われた。心が動いたわけではなく、ただ、上手いと言ってくれた。
(あの子たちに、届いていたのでありんしょうか)
「……少しだけ、思い浮かんだ方がおりんす」
「それで十分です」
「でも、確信はありんせん。その方の心に、わっちの歌が届いているかどうか」
「届いているかどうかは、歌ってみないと分からない」
ツバキは、俯いた。
「……わっちにも、心を込めた歌が、歌えるようになりんすか」
その言葉を、ツバキは自分が言うとは思っていなかった。
こんな弱音を漏らすのは、初めてだった。十七年間、弱音など言わなかった。技術でやっていけると思っていたから。でも今、初めて、分からなくなっていた。
アキラが、ツバキを見た。
「なれます」
「根拠はありんすか」
「さっき、思い浮かんだ方がいると言いましたね」
「……はい」
「その瞬間、顔が少し変わりました」
「……顔が」
「柔らかくなった。ほんの一瞬だけど」
ツバキは、自分の顔に手を当てた。白粉で固めた、感情を出さないための顔だ。でも、その下で、何かが動いていたのかもしれない。
「……そうでありんしたか」
「それが、あなたの歌の入口だと思います」
ツバキは、しばらくアキラを見ていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……少し、やってみます」
「一緒にやりましょう」
「手伝っていただけるのでありんすか」
「それが目的で来てるので」
ツバキは、また少し間を置いてから、言った。
「……よろしく、お願いいたしんす」
それが、ツバキが初めて、自分から誰かに頭を下げた言葉だった。
背後から、ゴエモンの「おお、珍しいな」という声が聞こえた。
ツバキは振り向かなかった。
でも、その耳の先が、少しだけ赤かった。
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