第19話:獣人少女が、初めて声を出した日
聖歌隊の練習は、毎日続いていた。
レナの動きは日ごとに安定し、ミレイは声量こそ小さいが音程の正確さで他の追随を許さない。二人がそれぞれ着実に伸びている一方で、俺にはずっと気になっていることがあった。
獣人の少女のことだ。
少女は毎日、練習に来る。サイリウムを握って、レナやミレイの動きを目で追って、リズムに合わせて体を揺らす。その動きはすでに三人の中で一番自然で、光の扱い方も一番上手い。
だが、声は出さない。
一度も。
「フィリアさん、あの子の名前、まだ分からないのか」
ある朝、練習前にフィリアに聞いた。
「……はい。自分から話してくれないので。近隣の住民に聞いても、あの子のことを知っている人がいなくて」
「そうか」
「アキ様……もしかして、あの子の声のことを」
「気になってる。声を出さないんじゃなくて、出せないのか、それとも出さないと決めてるのか」
フィリアは少し間を置いた。
「……以前、街の古参の住民から聞いたことがあります。ギルバートに流れ着いた獣人の子供が、路地裏で暮らしていると。獣人の声は人間とは違う響きを持っていて……それを気持ち悪いと言う人間が、少なくないそうです」
「……そうか」
「その子が声を出すたびに、石を投げられたり、罵倒されたりしていた、という話も。それで声を出すのをやめた、と」
「声を出すことで、傷つけられてきたわけか」
「はい。獣人の声帯は人間とは構造が違います。同じ言葉を発しても、倍音が混じって独特の響きになる。それが人間には『不気味』に聞こえることがあるそうで……」
フィリアが、珍しく歯切れ悪く続けた。
「……本当は、とても豊かな声なんですけどね。わたしには、そう聞こえます」
俺は黙った。
礼拝堂の庭では、少女が一人でサイリウムを振っていた。銀色の髪が、朝の光の中で静かに揺れている。
◇
その日の練習は、礼拝堂の中で行った。
外が雨だったこともあるが、音の響きを確かめたかったという理由もある。礼拝堂は石造りで、音がよく反響する。
レナとミレイに基礎の動きを続けさせながら、俺は獣人の少女の隣に立った。
少女は俺を見上げた。大きな瞳が、静かにこちらを見ている。
「今日は少し、違うことをやってみる」
少女は、こくりと頷いた。
「声は出なくていい。ただ、これに合わせて体を動かせ」
俺は懐からサイリウムを取り出した。永久機関のオレンジの光が、薄暗い礼拝堂をぱっと照らす。少女の瞳が、その光を反射してきらりと光った。
俺はゆっくりと、サイリウムを動かし始めた。
単純なリズムだ。前世で何千回もやってきた、基礎中の基礎のOADの動き。大きく、ゆっくり、呼吸に合わせて。
少女が、動いた。
最初は小さく、探るように。だんだんと、サイリウムの軌跡を目で追いながら、体がついてくる。リズムが合ってくる。
「……そうだ、その調子だ」
少女の動きに、引き込まれるような質感があった。他の二人とは違う、サイリウムの光との同調の仕方だ。光が動く先に、もう少女の体が来ている。まるで最初から、光と呼吸が合っているみたいに。
「アキ様……」
後ろでフィリアが、息を呑む声がした。
「見てください。あの子のマナの流れが……サイリウムの光と、共鳴して……!」
俺は動きを止めずに、少女に言った。
「お前、光が好きか」
少女は動きながら、こくりと頷いた。
「そうか。ならいい。光に合わせて動くだけでいい。それがお前のパートだ」
少女の耳がぴんと立った。嬉しいときの反応だと、最近分かってきた。
◇
そのまま、どのくらい続けただろう。
レナとミレイも途中から動きを止めて、少女とサイリウムのやり取りを見ていた。
礼拝堂に、静かな時間が流れた。
サイリウムの光が、石の壁に幾何学の紋章を描く。少女の体が、その光の軌跡を追う。ろうそくの灯りが揺れて、祭壇のルミナ像が柔らかく照らされる。
その瞬間だった。
「……あ」
小さな、本当に小さな声だった。
少女自身が、驚いたように動きを止めた。自分の喉に手を当てて、目を丸くしている。
俺は動きを止めなかった。
ただ、サイリウムをもう少しゆっくり、もう少し大きく動かした。
少女は、また体を動かし始めた。
そして。
「……んぁ……」
もう一度、声が出た。
今度は最初より少し長く、少し大きく。震えるような、でも確かな音だった。
人間の声とは、確かに違った。もっと深く、もっと豊かで、まるで複数の音が重なっているような、そんな響きだった。
礼拝堂の石壁が、その音を受け取った。
反響した。
一度、二度、三度。そのたびに音が重なって、礼拝堂の空気が振動するのが分かった。サイリウムの光が、その振動に反応するように、ぱっと一段階明るくなった。
「……っ」
ミレイが、口元を手で覆った。
レナが、腕を組んだまま、わずかに目を細めた。
フィリアが「ワシンジの……」と言いかけて、最後まで言わなかった。
礼拝堂全体が、温かいオレンジの光に包まれていた。祭壇のルミナ像が、まるで笑みを深めたように見えた。
少女は、両手でそっと自分の喉を押さえていた。信じられないものに触れたような顔で。
「……止まるな」
俺は静かに言った。
少女がこちらを見た。
「その声、続けてみろ」
少女は、しばらく俺を見ていた。その大きな瞳が、揺れていた。
それから、ゆっくりと、手を喉から離した。
「……んぁあ……」
今度は、もっと長く。
もっと自由に。
声が、礼拝堂に広がっていった。まだメロディにはなっていない。ただの音の連なりだ。でもその音には、ずっと封じられていたものが、ようやく解き放たれていくような、そういう力があった。
光が、揺れた。
ルミナ像が、光の中で微笑んでいた。
◇
しばらくして、少女が声を止めた。
礼拝堂に、しんとした静寂が戻った。
少女はサイリウムを握りしめたまま、俯いていた。肩が、かすかに震えている。
泣いているのか、と思って近づいたら、違った。
笑っていた。
声を出さずに、口元だけで、くしゃっと笑っていた。今まで見たことのない表情だった。
「……いい声じゃないか」
俺は笑った。
少女が顔を上げた。その目が、少し潤んでいた。
「名前、教えてくれるか」
少女は少し考えてから、地面に指で文字を書いた。
「シル」
たった二文字だった。
「シル、か」
少女……シルが、こくりと頷いた。
「いい名前だ」
シルは、また小さく笑った。
◇
「アキ様……!」
礼拝堂を出たところで、フィリアが飛んできた。
「今のは……! あの子の声がサイリウムの光と共鳴して、礼拝堂全体に古代の共鳴術式が展開されていました……! これはワシンジの奥義中の奥義……! 獣人の声帯が持つ固有振動が、アキ様のサイリウムの波長と完全に一致していたということで……!!」
「フィリアさん、あの子の名前、シルだって」
「え……? あ、はい……! シル……シルさんというお名前が……! って、今はそういう話じゃなくて……!!」
「まあ、落ち着けって」
俺は礼拝堂を振り返った。
中では、レナがシルの隣に腰を下ろして、何か話しかけていた。ミレイが興味津々で隣に寄っている。シルは頷いたり首を傾げたりしながら、少しだけ、また声を出していた。
さっきより、少し大きく。
さっきより、少し伸びやかに。
「ルミナちゃん」
俺は小さく呟いた。
「三人、ちゃんと揃ってきたぞ」
外では、雨が上がり始めていた。
「よし、続きやるぞ」
俺は礼拝堂に向かって声をかけた。中からレナの「分かった」、ミレイの「はいっ」、そしてシルの小さな「……んっ」という声が返ってきた。
三人分の声が、揃った。
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