第17話:フィリアの「推し(アキ様)」は、実在するのか問題
フィリア・ルーシェ、二十四歳、一級魔術師。
エルフ族の中でも飛び抜けた魔力を持ち、最年少で国家資格を取得した。数多の難関を突破し、それまで積み上げてきたものは全て本物だという自負がある。
その自分が今、何をしているかというと。
「あ、アキ様への考察ノートが……ページが……!」
深夜の宿の一室で、分厚い羊皮紙の束を前にして、頭を抱えていた。
ノートには、この数週間で観察したアキ様のワシンジ所作とその解析が、びっしりと書き込まれていた。オタ芸の動きが古代魔法陣の展開速度と一致する件。コールの音韻がマナ増幅の共鳴周波数と重なる件。サイリウムの光量が術者の感情と連動して変化する件。
どれをとっても、前例のない高度な研究だ。魔術師として非常に充実している。
「……では、なぜ今、ノートをまとめながら顔が熱いのでしょう、わたくしは」
フィリアは自分の頬に手を当てた。
熱かった。
なぜか、分からなかった。
◇
きっかけは、今日の練習中の、ほんの些細な一幕だった。
ミレイが振り付けの途中で転んだ。石畳に膝をついて「いたっ……!」と声を上げたとき、アキ様が真っ先に駆け寄って、「大丈夫か」と膝を確認した。
それだけだ。
それだけのことなのに。
アキ様が「大丈夫か」と聞く声のトーンが、いつもより柔らかかった。しかもミレイの膝に傷がないと確認したあと、「次から石畳の目地に気をつけろ。あそこだけ少し浮いてる」と、転んだ原因まで教えていた。
フィリアはそれを少し離れたところから見ていた。
見ていて、思った。
(アキ様というのは、ああいう人なんだな)
と。
柔らかいのに。誰にでも、ちゃんと目を向ける人なのに。自分がどれだけすごいことをやっているかを、全然分かっていない人なのに。
……待って。
(わたくし、今、何を思った?)
フィリアは自分の思考の流れを、巻き戻した。
「ああいう人なんだな」という感想は、師への崇拝とはまた違う何かだった。もっと近い、もっとフラットな、もっと……。
そこまで考えて、フィリアは一つの言葉を思い出した。
アキ様が何度も口にする言葉。「推し」。
アキ様の言葉を借りるなら――「推し」とは、その人の存在が自分の世界を明るくする、応援せずにはいられない誰かのことを指すらしい。
(……まさか)
(わたくしにとってのアキ様は、とうに『崇拝の対象』ではなく……)
「い、いや!」
フィリアは声に出してしまってから、慌てて口を押さえた。宿の部屋で一人だったのが不幸中の幸いだ。
「これは! 師への崇拝であり、ワシンジの体現者への純粋な学術的関心であって! 断じてそのような! そのような個人的感情が混入しているわけでは!!」
フィリアは立ち上がり、部屋の中を三往復した。
落ち着け。落ち着くのだ、フィリア・ルーシェ。
アキ様はワシンジの体現者だ。古代の奇跡を現代に蘇らせた、稀代の術者だ。わたくしはその研究者として正式に弟子入りを志願し、共にいる。それはあくまで学術的な立場であり、学術的な関心であり、学術的な……。
(でも今日のアキ様の声は、いつもより少し柔らかかった……)
だから何だ!!
フィリアは頭を抱えて、ベッドに倒れ込んだ。
「……わたくしは何をしているのでしょう……」
◇
翌日。
練習の合間に、レナが水を飲みながらフィリアの方を見た。
「なんか顔色が悪いな、エルフ」
「エ、エルフではなくフィリアです……!」
「フィリアな。で、どうした」
「な、なんでもありません……! 昨夜は少し眠れなかっただけです……!」
「ふーん」
レナは特に深追いせず、また練習の方を向いた。
助かった、とフィリアは思った。あの元Aランク冒険者に根掘り葉掘り聞かれたら堪らない。
しかし問題は、フィリアを眠れなくさせた当の本人が、今この瞬間も数歩先で平然としていることだった。
アキ様は練習中のミレイに声をかけている。「そこ、腕の角度をもう少し下げろ。客席の一番後ろまで見えるように動け」。ミレイが「うう、難しい……」と唸る。獣人の少女がその様子をじっと見ている。
ごく普通の練習風景だ。
なのに。
(顔が熱い)
「フィリアさん」
突然、名前を呼ばれてフィリアは飛び上がった。
「は、はいっ!!」
振り返ると、アキ様が怪訝な顔でこちらを見ていた。
「どうした。今日ずっとぼーっとしてるけど、体の具合でも悪いか?」
「だ、大丈夫です……! まったく問題ありません……!」
「そうか。でも、無理するなよ。王宮から帰ってきてまだ一日だし」
「……え」
「体調崩されると困るからな」
「それは……師として弟子の体調を気にしてくださってるということで……?」
「え? まあ、普通に心配してる」
「……」
「……フィリアさん?」
「……普通に……心配……」
「なんで固まってるんだ」
フィリアは固まっていた。外見は固まっていたが、内側では猛烈な勢いで何かが回転していた。
(「普通に心配している」!?)
(「普通に」!?)
(それは「弟子として」ではなく「普通に」!? それはつまり一人の人間として気にかけているということで!? アキ様がわたくしを一人の人間として!?)
「ちょっとフィリアさん、本当に大丈夫か」
「だ、大丈夫です!!!」
「そんな大きな声で言われると余計心配なんだが」
フィリアはとっさに、ノートを取り出した。
「今のお言葉、記録させていただきます! 師が弟子の体調を案じる際の言語パターンについての考察を……!!」
「……なんで急にノートを出した」
「アキ様の一挙一動は、すべてワシンジの研究に直結しますので……!」
「それはさすがに直結しないと思う」
「しますっ……!」
アキ様は首を傾げながら、また練習の方へ戻っていった。
フィリアはノートを胸に抱えて、深く息を吐いた。
鼓動が、少し速かった。
(これは……)
(これは絶対に、ただの学術的関心だ)
(アキ様はワシンジの体現者で、わたくしはその研究者で、この胸の高鳴りは、古代魔術の謎を解明しようとする知的興奮に他ならない)
(絶対に、そうだ)
(そうに、決まっている)
◇
その夜。
ガルドがお茶を出してくれた礼拝堂の片隅で、フィリアはノートを広げていた。向かいにアキ様が座り、明日の練習の段取りを確認している。
「レナのパートを増やしたい。あいつ、体の使い方が一番安定してきた」
「そうですね。動きに芯が出てきました」
「ミレイの魔力のコントロールが、あと一息なんだよな」
「ええ。歌声に乗せることで魔力が安定するはずなのですが……もう少しかと」
「獣人の子は……まだ声が出ないな」
「……ええ」
「焦らなくていいとは思ってるけど、あの子のパートをどう設計するかは、声が出てからじゃないと決められない」
「おっしゃる通りです」
静かな礼拝堂に、ろうそくの灯りが揺れていた。
ごく普通の、打ち合わせだ。
なのに。
アキ様がノートを覗き込むために、少し前傾みになった。
それだけで、フィリアは視線を羊皮紙に落とした。
(これは学術的関心だ)
「……フィリアさん」
「は、はいっ!」
「次のページ、見せてくれるか」
「あっ、はい……どうぞ……」
羊皮紙を渡すとき、指先が少し触れた。
それだけで、フィリアはまた顔が熱くなった。
(……学術的……関心……)
翌朝、アキ様は練習前にぽつりと言った。
「フィリアさんって、いいツッコミ役だよな」
「……はい?」
「なんかこう、俺が変なこと言うたびに、ちゃんとツッコんでくれるし。俺には必要なポジションだと思って」
「……ツッコミ役」
「ありがたいよ、本当に」
フィリアは、しばらく黙った。
(ツッコミ役)
(わたくしは……ツッコミ役……)
「……そう、ですか」
「うん。いてくれて助かってる」
「……そう、ですか」
「え、なんか変なこと言ったか?」
「いいえ」
フィリアは微笑んだ。完璧な微笑みだった。一級魔術師として培った、感情を表に出さない術がここで役立った。
「ありがとうございます。わたくしも、アキ様のそばにいられることを光栄に思います」
「そうか。じゃあ練習始めるか」
「はい」
アキ様が背を向けて歩いていく。
フィリアはその背中を見ながら、小さく、本当に小さく、息を吐いた。
(……ツッコミ役、か)
心の中で、何かがひっそりと笑った。
自分でも、なぜ笑ったのかよく分からなかった。
でも、悪い気分では、なかった。
「フィリアさん、行くぞ」
「は、はいっ……!」
フィリアは駆け出した。
ルミナ像が、礼拝堂の奥で、いつも通り微笑んでいた。まるで「全部お見通しだよ」と言っているような、あの表情で。
「……神様まで、そんな顔しないでください」
フィリアは小声で言って、足早に庭へ向かった。
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