第13話:ケチャで王妃が完治した件について
王妃の寝所は、広く、薄暗かった。厚いカーテンが日差しを遮り、空気には薬草を焚いた匂いが満ちている。部屋の奥に置かれた天蓋つきの大きな寝台、その中央に、一人の女性が横たわっていた。
近づいて、息を呑んだ。
ひどく、痩せていた。かつては美しかったであろう面影は確かにある。だが今は頬がこけ、唇は乾き、肌は紙のように白い。緩やかにうねる金色の髪だけが、生気を失った顔の周りで、不釣り合いなほど豊かに広がっていた。
胸が、かすかに上下している。生きてはいる。だが、その呼吸はあまりに浅く、今にも止まりそうだった。
「これが……」
「……三月前まで、この国で最もお美しいと謳われた御方だ」
背後で、ヴァルターの声が震えた。
「それが、今ではこの有様だ。我らはただ、見ていることしかできなかった」
シルヴァンは寝台の反対側に立ち、油断なく俺を見ている。何かあれば即座に止める、という構えだ。フィリアは入口で、祈るように両手を握りしめていた。
俺は寝台のそばに立ち、王妃の顔を見下ろした。
そして、気づいた。
「……あれ」
この顔。頬がこけて、やつれてはいるけれど。この優しげな目元。すっと通った鼻筋。緩くうねる金色の髪。
「……似てる」
「何?」とシルヴァンが鋭く反応する。
俺は答えなかった。答えられなかった。
似ているんだ。ルミナちゃんに。
いや、正確には違う。年齢も雰囲気も違う。でも、この顔のつくりは、前世で何百回もペンライトを振って見つめた、あの推しの面影に、確かに重なる部分があった。教会のルミナ像を初めて見たときと、同じだ。
胸の奥で、何かが疼いた。
推しが――いや、推しに似た誰かが、目の前で消えそうになっている。弱って、痩せて、今にも灯が消えそうになって、それでも必死に呼吸をしている。
それを見た瞬間、俺の体が勝手に動いた。理屈じゃなかった。考えてやったことじゃない。ただ、目の前の命をどうしても消したくないと、そう思った瞬間、手が上がっていた。
「おい、何をする気だ!」
シルヴァンが杖を構える。だが、止まらなかった。
俺は両手を、王妃の体の上にかざした。
「うおおおおお……ルミナちゃあああああん……ッ!!」
ケチャを、打った。
◇
両手の指を、ひらひらと、波打たせる。天に祈りを捧げるように。最前列で、推しに全身全霊の祈りを届けるように。
前世で、何千回もやった動きだ。推しのソロパートで、推しが感動的な高音を響かせるその瞬間、ヲタクが全身全霊で命のエネルギーを送る、あの神聖なる所作――ケチャ。
「ルミナちゃん……俺の命、全部持っていけ……!!」
指先から、何かが流れ出る感覚があった。サイリウムは懐に入れたままだ。なのに、俺の両手のひらから、ほのかなオレンジの光が滲み出している。その光が、王妃の体に、ゆっくりと降りていく。
「な……何だ、これは……!?」
シルヴァンが目を見開いた。俺自身、自分の手から出る光を見ていた。
光は、王妃の胸の上で薄く広がった。そして、王妃の体の中から、黒いものが浮かび上がってきた。
煙のようでもあり、染みのようでもあった。王妃の白い肌の下で蠢いていた黒い靄が、俺の光に引きずり出されるように、じわじわと表面へ浮き上がってくる。
「……呪い、だと……!?」
シルヴァンが愕然と呟いた。
「馬鹿な……これは古代の呪詛……我らが見抜けなかったはずだ……治癒魔術が効かぬわけだ……これは病ではない、呪いだったのか……!」
黒い靄が、王妃の体から完全に剥がれ落ちる。そして、俺の手から放たれるオレンジの光に触れた瞬間、しゅう、と音もなく、黒い靄は光に溶けて消えた。跡形もなく。
部屋に、静寂が戻った。
俺はゆっくりと両手を下ろした。息が上がっていた。全力でケチャを打ったときの、あの心地よい疲労感。前世のライブ終わりと同じ感覚だった。
「……どうだ」
俺は誰にともなく呟いて、寝台の王妃を見た。
その頬に、血の気が差していた。紙のように白かった肌にほんのりと赤みが戻り、乾いていた唇が潤いを取り戻していく。浅く今にも止まりそうだった呼吸が、深く、安らかなものに変わっていく。
そして、王妃の睫毛が、かすかに震えた。
「……ぁ……」
目が、開いた。澄んだ、青い瞳だった。
その瞳がぼんやりと宙をさまよい、やがて、俺の顔の上で止まった。
「……あぁ……」
王妃の唇が、震えながら動いた。
「光の……女神の、御使いが……」
掠れた、けれど確かな声だった。王妃は俺を見上げて、安らかに微笑んだ。
「……来て、くださったのね……」
そして再び、静かに目を閉じた。今度は健やかな眠りだった。胸が、規則正しく、ゆったりと上下している。
◇
寝所は、しばらく完全な沈黙に包まれていた。誰も、声を出せなかった。
最初に動いたのは、シルヴァンだった。老魔術師はふらりとよろめき、杖を取り落とした。それが石の床にカランと乾いた音を立てる。
「……ありえぬ」
膝が、折れた。二十年王宮魔術師団を率いてきた主席魔術師が、その場にくずおれた。
「七人がかりの治癒魔術が……三月の間、あらゆる手を尽くしても、針の先ほども動かせなかった……あの呪いが……」
シルヴァンは自分の両手を見つめて、震えていた。
「数秒だと……? たった数秒で……? しかも、あのような……手をひらひらさせるだけの所作で……」
「ケチャ、です」
俺がそう言うと、シルヴァンは掠れた声で聞き返した。
「け、ケチャ……?」
「ルミナ様に命を捧げる、神聖な祈りの所作です」
正確には推しに祈りを届けるヲタクの所作だが、まあ、間違ってはいない。
シルヴァンは、くずおれたまま俺を見上げた。さっきまでの敵意も警戒も、そこにはなかった。あるのは、ただ純粋な畏怖だった。
「私は……貴公を、軽宗教の信者と侮った。暗黒竜の噂も、作り話だと断じた……」
「いいんですよ、別に」
「いいや」
シルヴァンは震える手で杖を拾い、それを支えにゆっくりと立ち上がった。そして―― 深々と、頭を下げた。
「謝罪する、聖下。私は生涯をかけて魔を研究してきたが……貴公の御業の前では、井の中の蛙であった」
「やめてください。頭を上げて」
「いや、これだけは言わせてくれ」
老魔術師は顔を上げ、潤んだ目で俺を見た。
「王妃陛下を……お救いいただき、感謝する。心から」
その隣で、ヴァルターが鎧の袖でぐいと目元を拭っていた。屈強な近衛騎士団長が、声を殺して泣いていた。
「……王妃陛下が……お助かりに……」
入口では、フィリアが両手で口を覆い、ぽろぽろと涙をこぼしながら、何度も頷いていた。
「ワシンジの奇跡……これぞ、ワシンジの……」
俺は、眠る王妃にもう一度目をやった。健やかな寝息を立てる、推しに似た面影の女性。
「……間に合ってよかった」
俺は小さく息を吐いた。
ルミナちゃん、見てたか。お前に似た人を、一人、助けられたよ。
◇
王妃完治の報せは、その日のうちに王宮中を駆け巡った。
俺がろくに休む間もなく、寝所の外には侍従や女官たちが詰めかけ、誰もが涙を浮かべて俺を拝もうとした。
そして夕刻、俺は再び謁見室へ呼び出された。
玉座には、国王が座っていた。だが、その姿は昼間とはまるで違っていた。威厳に満ちていた王が、今は、一人の夫の顔で、震えていた。
「聖下」
国王は玉座から立ち上がり、こちらへ歩み寄ってきた。そして、あろうことか、一国の王が、俺の前で深く頭を下げようとした。
「陛下!」
ヴァルターが慌てる。
「王たる御方が、軽々しく頭を――」
「よいのだ、ヴァルター」
国王は構わず頭を下げた。
「妻を……救ってくれて、礼を言う。この恩は、生涯忘れぬ」
俺は、少し慌てた。
「あの、頭を上げてください。俺はただ、やれることをやっただけなので」
国王が顔を上げた。その目は、まだ潤んでいた。
「聖下。望みを言うがよい」
「望み……?」
「何でもよい。金か、領地か、爵位か。そなたの望むものを、何でも与えよう。それでもまだ、妻の命の重さには到底足りぬが」
何でも。その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中で、また、あのスイッチが入った。
これは。これは、とんでもない営業チャンスだ……!!
「陛下」
俺は一歩前に出た。
「実は、お願いしたいことが、いくつかあります」
「申してみよ」
国王が力強く頷く。
俺は心の中で、前世のヲタ仲間に手を合わせた。推しを天下に届けるためだ。許してくれ。
そして―― 口を開いた。
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