第97話 師匠の背中
レオンがエルザに向き直った。
「エルザ。お前たちはヴァレシクリットにある魔王城に向かえ」
魔王城。聞きなれない名前に、エルザが目を瞬かせた。
「魔王城……ですか」
「魔王ドラコがかつて住んでいた城だ」
ドラコの城。エルザの脳裏に、あの陽気で頼もしい魔王の姿が浮かんだ。あの人が、かつてそこにいたのだ。
「あの城には武器も物資も十分にある。防御にも優れた拠点だ。ヴェアヴォルフ同胞団の傭兵たちが先に向かっているはずだ。合流しろ」
レオンはレイラに目を向けた。
「レイラ。お前がエルザたちを魔王城まで連れていってくれ」
レイラは腕を組んだ。数秒の沈黙の後、首を横に振った。
「断る」
レオンの眉が動いた。
「お前が行った方が確実だ。道中の護衛も含めて……」
「アタシが行く必要はないよ」
レイラの声には一切の迷いがなかった。
「エルザもベアトリクスも、三週間で十分に強くなった。アビーもいる。道中の敵くらい、自分たちで切り抜けられるさ。アタシが手を引いて連れて行くような子供じゃない」
弟子たちの力を信じる師匠の言葉だった。エルザとベアトリクスは、その言葉を胸の奥に刻んだ。
「それよりも、アタシはここに残る。街にいる吸血鬼どもを片づけるよ。こっちの方がアタシ向きだ」
レイラの口元に不敵な笑みが浮かんだ。膨大な数の敵を前にしても、彼女にとってはいつもの戦場に過ぎない。
レオンは一瞬だけ目を閉じた。レイラの性格は、よく知っている。一度決めたことは変えない。そして、レイラの判断は常に正しかった。
「分かった。オレがエルザたちと一緒に行く」
レオンはそう言って、エルザに向き直った。エルザは頷いた。
そして、レイラの前に立った。背筋を伸ばし、師匠の目を真っ直ぐに見上げた。
「レイラ。三週間、ありがとうございました」
深く丁寧な礼だった。王女の礼ではなく、弟子から師匠への礼だ。
「あなたのおかげで、わたくしは剣を振れるようになりました。まだまだ未熟ですが、教えていただいたことは全て、ここに刻んであります」
エルザが胸に手を当てた。エメラルド色の瞳が、感謝の光に満ちている。
ベアトリクスも隣で深く頭を下げた。
「わたしもです。レイラさんがいなかったら、わたしはまだ怖がってばかりでした。自分の中にある力に気づけたのは、レイラさんのおかげです。本当に、ありがとうございます」
ベアトリクスの声が少し詰まった。涙を堪えているのだ。つい先ほど、この師匠に初めて拳を当てた。あの瞬間に芽生えた確かな手応えを、ベアトリクスは忘れないだろう。
アビゲイルもレイラの前に立った。いつもの余裕ある笑みは消え、真剣な表情で見つめている。
「レイラ。無茶をしないでね」
「何百年と無茶をし続けてきた女に、それを言うかい」
レイラが鼻で笑った。アビゲイルは苦笑いを浮かべた。そして、小さく「また会おうね」と呟いた。レイラは答えなかった。だが、白銀の髪の下で、口元が僅かに弧を描いた。
レイラはエルザの肩を軽く叩いた。それから、ベアトリクスの頭に手を乗せた。
「いいかい。お前たちが強くなったのは、アタシの教えのおかげじゃない。お前たち自身の力だ。それを忘れるなよ」
二人は頷いた。レイラは満足げに目を細めた。
そして、視線を遠くへ向けた。炎に染まった帝国の夜空を見つめている。その目の奥に、ほんの一瞬だけ、懐かしさに似た何かが過った。
「ダミアンに会ったら、よろしく頼むよ」
レイラの声が、僅かに柔らかくなった。
「あのバカ弟子に、たまには師匠のことも思い出せって伝えておいてくれ」
弟子たちを送り出す師匠の顔だった。厳しくも温かい。エルザはその表情を、目に焼き付けた。
「伝えます。必ず」
エルザが答えた。ベアトリクスも涙を堪えるように唇を引き結び、力強く頷いた。
レオンがレイラに向き直った。短い沈黙が流れた。弟子と師匠。多くを語る必要はない。
「死ぬなよ、レイラ」
「それはこっちの台詞だよ。バカ弟子が」
レオンの口元が僅かに緩んだ。それが別れの挨拶だった。
レオンが踵を返した。
「行くぞ。時間がない」
エルザ、ベアトリクス、アビゲイルがレオンの後に続いた。大通りの包囲が崩れた隙間を駆け抜け、南の市街地を目指す。ヴァレシクリットは帝国の南に位置する都市だ。そこに、ドラコの城がある。
走りながら、レオンが前方の吸血鬼を斬り伏せていく。大剣の一振りで、三体の吸血鬼が同時に灰になった。レイラの下で修業をしたエルザの目でもかろうじて追える程度の剣速だ。これが、魔王を打倒したとされている勇者の力。
ベアトリクスが走りながら後方を振り返り、追ってくる食屍鬼の群れに向けて拳銃を撃った。三発。全弾が頭部に命中し、食屍鬼が崩れ落ちる。走りながらの射撃でこの精度。ドラコから教わった射撃の基本が、体に染みついている。三週間前の自分には考えられなかったことだ。
アビゲイルが後方に向けて氷の壁を生み出し、追手の進路を塞いだ。厚さ数十センチの氷壁が、吸血鬼たちの突進を阻む。砕かれるまでの数秒が、逃走の猶予を生んだ。
南の市街地に入ると、大通りほどの被害はなかった。だが、遠くから悲鳴と爆発音が絶え間なく聞こえてくる。街全体が戦場と化している。
走りながら、エルザは一度だけ振り返った。
大通りの中央に、レイラが立っていた。長剣を片手に下げ、増援と共に迫り来る吸血鬼の群れに向かって歩みを進めている。五〇、一〇〇、それ以上。数えることすら意味のない数の敵が、一人の剣士に殺到していく。だが、レイラの背中に恐れはなかった。この戦場の中で唯一、退く気配を見せない者がいた。
レイラが長剣を振り上げた。夜空に弧を描いた銀の軌跡が、ターリンガの炎に照らされて一瞬だけ輝く。最初の一振りで、五体の吸血鬼が灰になった。吸血鬼の灰が、雪のように舞い散った。
エルザは前を向いた。師匠の背中を胸に刻み、走り続けた。再び出会うその日まで。




