第87話 傷だらけの男
ポーラーの表情が曇った。
「ライカさん。リファランがこのような状態になってしまい、申し訳ありません。ドラコさんたちが宮殿に来てくださった時に、吸血鬼の襲撃を招いてしまいました。宮殿に泊まることを勧めたのはわたくしです。それが原因で、街にまで被害が及んでしまいました」
ポーラーの声が震えていた。王女として、民を守れなかった責任を感じているのだ。
「ポーラー王女が謝ることじゃないよ」
ライカはポーラーの手を取った。ドラコと同じ手。だが、握り方は違う。優しく、包み込むように。
「襲撃は財団の仕業であって、あなたのせいじゃない。ドラコの日記を読んだわ。あなたがドラコたちをもてなしてくれたこと、フローやジレーヌと一緒に吸血鬼の集団と戦ってくれたこと。こんな状態になっても兵士たちを自分の手で治し続けている。感謝しているのはこちらのほうよ」
ポーラーの目に、薄く涙が浮かんだ。だがすぐに拭い、気丈に笑ってみせた。
「ありがとうございます。今は、まだ負傷している方々の治療が終わっていなくて。回復術で対応しているのですが、重傷者が多くて」
「大変だね。手伝えることがあれば、何でも言って」
ポーラーは首を横に振った。
「お気持ちだけで十分です。それよりも、ライカさんたちはイルドブルに向かわれるのですか?」
ライカは頷いた。
「財団の手がかりを探しに。ドラコが一五年間眠っていた宮殿に、何か残っているかもしれないから」
ポーラーの表情が変わった。何か思い当たることがあるような顔だった。
「実は、フローレンスとジレーヌさんも、同じことを仰っていました」
ライカの目が鋭くなった。
「フローとジレーヌが?」
「はい。お二人は、リファランの襲撃が収まった後に、ジレーヌさんの方から調べたいことがあると仰って、ヴェンツェル王国の首都イルドブルへ向かわれました。財団の手がかりがあの宮殿にあるかもしれない、と」
ライカは少し考えた。フローレンスもジレーヌも、同じ結論に辿り着いている。財団の正体を知る鍵は、ヴェンツェル王国にある。エルザの故郷。ドラコが眠っていた場所。全てが、あの国に繋がっている。
ドラコの日記には、フローレンスの聡明さが何度も書かれていた。ジレーヌと一緒にいるのなら、フローレンスとの関係も進展があったはずだ。日記には、リファランでの別れ際のことも書かれていた。フローレンスがジレーヌと向き合う決意をしたこと。姉妹として、ちゃんと話し合いたいと言っていたこと。
「やっぱり、考えることは同じだね」
ライカは小さく笑った。
「ポーラー王女、情報をありがとう。わたしたちも急ぐね。体も、あまり無理をしないで」
ポーラーは少し困ったように笑い、「まだ治療が終わっていませんから」と答えた。この王女は、自分の体のことよりも民のことを優先する人なのだろう。ドラコが日記で好意的に書いていた理由が分かった。
ライカが踵を返そうとした。その時だった。
空気が、変わった。
ラミーナが腰の刀に手をかけた。リューネットの目が鋭くなり、魔力を練り始めた。ライカも帽子の鍔の下から、前方を睨んだ。
宮殿の門の向こうに、一つの影が立っていた。
大きかった。ライカよりも頭二つ分は高い。幅も広い。鍛え上げられた筋肉が、衣服の上からでも分かるほど隆起している。
男だった。
顔中が傷だらけだった。額から顎にかけて、幾筋も傷痕が走っている。鼻梁を横切る深い傷。頬に刻まれた裂傷の痕。その全てが古く、長い年月を経て白く変色している。数え切れない戦いを潜り抜けてきた顔だ。
だが、傷の多さよりも異質だったのは、男の体そのものだった。露出した腕の筋肉が不自然に隆起している。人間の筋肉ではありえない密度と硬度。肌の色も僅かに灰色がかっており、まるで石か鉄のようだった。
男の瞳には、光がなかった。感情のない、空洞のような目。こちらを見ているのか、見ていないのかすら分からない。だが、その体から放たれる圧は明確だった。殺気ではない。もっと無機質な、機械的な威圧感。生き物が発する気配とは、根本的に違う何かだった。
ライカの本能が警鐘を鳴らしていた。人狼としての嗅覚が、目の前の存在の異質さを嗅ぎ取っている。血の匂いがしない。汗の匂いもしない。人間ではない。吸血鬼でもない。今まで出会ったどの存在とも、違う。
ポーラーの顔が青ざめた。
「あの男……数日前から、街の近くで目撃情報がありました。兵士を何人か送ったのですが、全員が重傷を負わされて……」
「ポーラー王女、下がって。ラミー、リューネ。王女をお願い」
ライカの声が低くなった。穏やかさが消え、総帥の顔になっていた。
ラミーナがポーラーの前に立ち、刀に手をかけた。リューネットもポーラーの傍に寄り、魔力を練りながら男を注視している。
負傷した兵士たちが、恐怖に目を見開いていた。動ける者は這うように天幕の奥へ逃げ、動けない者はただ震えている。ポーラーが「大丈夫です」と兵士たちに声をかけたが、その声も僅かに震えていた。
男が、一歩を踏み出した。石畳が、その足の下で軋んだ。ゆっくりとした歩みだったが、一歩ごとに地面が僅かに振動するのを感じる。あの体は、見た目以上に重い。
「……何者?」
ライカの問いに、男は答えなかった。
代わりに、拳を握った。その腕の筋肉が異常に膨張し、衣服の袖が裂けた。裂けた布の下から覗いた肌に、ライカの瑠璃色の瞳が見開かれた。
肌の表面に、金属の光沢があった。そして、腕の一部に魔術式のような紋様が刻まれているのが見えた。
人間の体ではない。生身の肉体に、何かが混ざっている。
男が、地面を蹴った。
ライカは両腰の拳銃を同時に抜き、咄嗟に横へ跳んだ。男の拳が空を切り、背後の石柱に叩きつけられた。石柱が粉砕された。一撃で。人間にできる破壊ではなかった。
砕けた石の破片が宙を舞う中、ライカは距離を取りながら男を見捉えた。瑠璃色の瞳が、鋭く細められている。本来なら得意の狙撃銃で仕留めたい相手だ。だが、この距離では二丁の拳銃のほうが取り回しが利く。
ポーラーの言葉が脳裏を過った。兵士を何人も重傷にした男。あの破壊力なら、納得がいく。
男がゆっくりと振り返った。感情のない瞳が、真っ直ぐにライカを捉えている。粉塵の中に立つその姿は、まるで石像のように動じていなかった。拳を振り抜いた衝撃で、男自身の腕にも相当な負荷がかかったはずだ。だが、腕には傷一つない。
ライカは両手の拳銃を男に向けた。体の奥で、人狼の力が脈動し始めていた。




