第86話 爪痕
アセンブリ―を発って、数日が過ぎていた。
ライカたちはアンティグア王国の領内に入り、首都リファランを目指して歩いていた。ヴェンツェル王国の首都イルドブルに向かう途中、リファランに立ち寄る理由があった。ドラコの日記に書かれていた、リファランでの吸血鬼による襲撃。ポーラー王女の安否。フローレンスとの別れ。日記を読んだライカは、リファランの現状を自分の目で確かめずにはいられなかった。
街道を歩きながら、ライカはポケットから手帳を取り出した。ドラコの日記ではなく、傭兵たちからの報告書だ。各地に散った傭兵たちが、調査結果を送ってきていた。ライカは歩きながらでも、必ず目を通していた。
リューネットが隣に並び、報告の内容をまとめた。
「各地域の村で、吸血鬼となったゴブリンによる被害が確認されました。ケネロット以外にも、テオドル王国の西部、セアビル王国の辺境、そしてアンティグア王国の山間部でも同様の事例が報告されています。いずれも森の奥にある迷宮に召喚の魔術式が設置されており、そこからゴブリンが無限に湧き出ている構造です」
やはり、とライカは思った。ケネロットの村だけではなかった。財団は各地にゴブリンの召喚術式を仕掛けていたのだ。村人たちが夜ごとに怯え、助けを求めても誰も来ない。そんな苦しみが、大陸のあちこちで起きている。
「傭兵たちは魔術式の破壊に成功した場所もありますが、まだ全てではありません。被害は続いています。特にセアビル王国の辺境では、ゴブリンの数が増え続けており、村の住民が避難を始めているとの報告もあります」
リューネットがメガネを押し上げた。
「魔術式の構造は高度で、熟練の魔術師でなければ描けない水準とのことです。財団には、相当な腕を持つ魔術師がいると見て間違いないかと」
ラミーナが眉をひそめた。
「村の人たちが苦しんでいるのに、まだ止められていないところがあるってことですか」
「うん。だから、みんなの調査は本当に大事なの。兄弟たちに引き続きお願いするしかない。少しでも早く、全ての魔術式を見つけて壊さないと」
ライカの表情が引き締まった。ドラコの日記には、ケネロットでアビゲイルが召喚術式を止めたことが書かれていた。だが、それは一か所だけだ。同じ術式が大陸中に仕掛けられているなら、財団の計画は想像以上に大規模だ。ゴブリンの被害だけではない。この先、さらに大きな何かが待っているかもしれない。
報告書をポケットにしまい、前方に目を向けた。風が吹き、白い髪が靡いた。帽子の鍔を押さえながら、街道の先に目を凝らす。リファランの輪郭が見え始めていた。
リファランが見えてきたのは、その日の午後だった。
街の入口に立った瞬間、ライカは足を止めた。ラミーナもリューネットも、言葉を失った。
街は、ひどい有様だった。
建物の壁が崩れ、焼け焦げた跡が至る所に残っている。通りには瓦礫が積まれ、住民たちが片付け作業に追われていた。商店の看板が折れ、窓ガラスが割れたまま放置されている家もある。活気のあった市場は閑散とし、すれ違う人々の顔には一様に疲労が刻まれていた。
ドラコの日記に書かれていた、リファランへの吸血鬼の襲撃。その爪痕が、まだ色濃く残っている。
「ドラコの日記だと、イルドブルよりは被害が少なかったって書いてあったけど……」
ライカの声が沈んだ。被害が少ないとはいえ、街はまだ立ち直りの途中だった。瓦礫の間を縫うように歩いていると、怪我を治療している者や、壊れた家屋の修繕に汗を流している者が目に入る。子供たちですら、瓦礫の運搬を手伝っていた。
ラミーナが刀の柄を握りしめた。
「こんなところにまで、被害が及んでいたのですね……」
ラミーナの声に苦さが滲んでいた。同胞団の拠点でも同じ光景を見たばかりだ。仲間を失った痛みが、この街の住民たちの姿と重なっている。刀の柄を握る指に、知らず力が入っていた。
リューネットはメガネの奥から冷静に街を観察していたが、その目元は僅かに強張っていた。
宮殿に向かう途中、ライカたちは異様な光景を目にした。
宮殿の前庭に、負傷した兵士たちが横たわっていた。数十人はいる。包帯を巻いた者、腕を吊った者、意識を失ったままの者。簡易の天幕が張られ、その下で治療が行われている。
その中心に、一人の女性がいた。
若い女性だった。淡い朱色の髪を後ろで束ね、質素だが品のある衣服を纏っている。王女であるはずなのに、膝を地面につけて兵士の傍にしゃがみ込んでいた。両手から淡い光が溢れ、横たわる兵士の体を包んでいる。回復術だ。光が傷口に染み込むように吸い込まれ、兵士が苦痛に歪めていた顔を緩めた。
女性は立ち上がり、回復術を施す。額に汗が浮かんでいる。目の下に薄い隈もあった。何日もこの作業を続けているのだろう。それでも手を止めようとしない。王女の手が、一人ひとりの兵士の傷を塞いでいく。
ライカはその姿を見て、すぐに分かった。ドラコの日記に書かれていた人物だ。
「ポーラー王女」
ライカが声をかけた。
ポーラーが顔を上げた。瞳がライカを捉え、大きく見開かれた。白い長髪、青白い肌、帽子。その姿は、ポーラーの記憶にある人物と全く同じだった。
「ドラコさん!? どうしてここに」
ポーラーが駆け寄ってきた。だが、三歩目で足が止まった。目の色が違う。紅ではなく、瑠璃色。そして声。今、自分の名を呼んだ声は、ドラコの低い声ではなかった。透き通った、女性の声だった。
ポーラーは困惑した顔で、ライカの全身を見つめた。帽子も、服装も、白い髪も、青白い肌も、全てドラコと同じだ。だが、纏う空気が違う。ドラコの飄々とした気配はなく、もっと柔らかい。
「あなたは……ドラコさん、ではない?」
ライカは帽子の鍔に手を添え、穏やかに微笑んだ。
「初めまして、ポーラー王女。わたしはライカ。ドラコの体の中にいる、もう一人の人格……とでもいいましょうか。ドラコの妻です」
ポーラーの目が、さらに大きくなった。それから、何かを思い出すように瞬きを繰り返した。
「ライカさん……フローレンスから、お話は聞いています。ドラコさんの中にもう一人の方がいらっしゃると。満月の夜に人格が入れ替わるのだと」
「フローが話してくれていたのね。なら、話が早いわ」
ライカはラミーナとリューネットを紹介した。ポーラーは二人に丁寧に頭を下げ、それからライカに向き直った。
ライカはポーラーの顔を見つめた。ドラコの日記に書かれていた通りの人だ。国を守るために自ら前に出る王女。フローレンスに命を救われた過去がある。吸血鬼たちの襲撃でも逃げずに、ジレーヌと共に戦った人。日記の文字の向こうにいた人物が、今、目の前にいる。ドラコの旅を追体験しているような、不思議な感覚だった。




