第81話 魔王と勇者の師匠
「わたくしの母を、ご存知なのですか」
「知っているよ。ギルバートのことも。あの二人がよくアタシの店に来ていたのは、もう二〇年以上前のことかね。ルイーザの面影がそのまま残っている」
レイラはエルザの目を見つめた。
「だが、目の光はギルバートだ。あの男の目は、いつも真っ直ぐだった。お前もそうだ」
レイラの声は穏やかだったが、途方もない歳月を生きてきた者だけが持つ重みがあった。エルザは胸が熱くなった。母の笑顔を覚えている人がいる。父の目を覚えている人がいる。旅の中で出会う人たちが、少しずつ両親の輪郭を教えてくれる。それだけで、心強かった。
レオンが口を開いた。
「レイラ。この二人に戦い方を教えてやってくれ」
「お前が教えればいいだろう、レオン」
「オレには無理だ」
「……相変わらずだね。戦うことは天才的なのに、伝えることだけは壊滅的だ」
レイラが小さくため息をついた。だが、その目は笑っていた。長い歳月を共にしてきた師匠と弟子。二人の間には、言葉では測れない時間が流れている。
レイラはエルザの前に歩み出た。黒い肌と白銀の髪。長い耳。途方もない時を生きてきたダークエルフの女性が、エルザの目を真っ直ぐに見つめた。
「名前を聞かせてもらおうか」
「エルザ・ヴェンツェルです」
「エルザ。ルイーザの娘。それに」
レイラの目が、エルザの瞳を覗き込んだ。何かを見透かすような視線だった。
「ダンピールか。道理で、ただの人間とは違う気配がする」
エルザは驚いた。一目で見抜かれた。だが、これほど長い時を生きた者ならば、それも当然なのかもしれない。
ベアトリクスが前に出た。
「わたしはベアトリクスと申します。エルザ様のメイドです。わたしにも、戦い方を教えていただけないでしょうか」
レイラはベアトリクスを見た。紅い瞳。吸血鬼だと一目で分かる。だが、レイラの表情に嫌悪はなかった。むしろ、興味深そうにベアトリクスの全身を見回していた。
「吸血鬼のメイドか。面白い組み合わせだね。ダンピールの王女に仕える吸血鬼。昔なら考えられなかったよ」
レイラはエルザとベアトリクスを交互に見た。それから、アビゲイルの方を振り返った。
「アビー。この子たちは、ダミアンが連れてきた子たちかい」
ダミアン。聞いたことのない名前だった。エルザとベアトリクスは顔を見合わせた。
「ダミアン……?」
エルザが首を傾げた。アビゲイルが振り返った。
「ドラコのことよ。ダミアンは、ドラコの本当の名前。レイラはずっとその名前で呼んでいるの」
ドラコの、本当の名前。エルザは息を呑んだ。「魔王ドラコ」ではない、本来の名前があったのだ。ベアトリクスも目を見開いていた。
「そうよ。ドラコが命を懸けて守った子たち」
アビゲイルの声は静かだったが、そこに込められた想いは重かった。レイラは頷いた。
「ダミアンが命を懸けて守った子たちなら、それだけの価値があるんだろう」
レイラの口から出てくるのは「ダミアン」だ。彼女にとっては、魔王ドラコではなく、ダミアンという一人の人間なのだろう。
レイラは腕を組み、エルザを見つめた。長い歳月を生きた瞳が、若い王女の覚悟を見定めている。
「いいよ。引き受けた」
短い言葉だった。レオンに似た、簡潔な応答。
「ルイーザの娘を、放っておくわけにはいかないからね。それに」
レイラの目が、わずかに細くなった。
「レオンだけじゃなく、ダミアンの師匠でもあったアタシが教えるんだ。覚悟はしておきなさい。楽な修行にはならないよ」
エルザは目を見開いた。ダミアン――ドラコの師匠。レオンの師匠であるこの女性が、ドラコの師匠でもある。
「ドラコの……師匠でもあるのですか」
エルザの声に驚きが滲んでいた。レイラは少し遠い目をした。
「ダミアンもレオンも、アタシの元に来た時はただの若者だったよ。ダミアンはまだ人間だった頃。レオンも勇者なんて呼ばれる前のこと。二人とも剣の握り方すら知らない子供だった」
人間だった頃。その言葉が、エルザの胸に刺さった。ドラコには、人間だった時代があったのだ。
「あの二人は元々はよく似ていたんだよ。真っ直ぐで、不器用で、自分より他人のことばかり考える。まさか、あの二人が魔王と勇者として敵対するなんてね。師匠として、これほど皮肉なことはなかったよ」
レイラの声に、僅かな苦しみが混じった。自分が育てた二人の弟子が、世界を巻き込んで戦うことになった。それは師匠として、最も辛い結末だっただろう。
剣。レイラの言葉に、ベアトリクスが反応した。
「剣、ですか。ドラコさんは銃を使っていましたが」
「ああ、あのバカ弟子は今は銃を使っているのかい。だが、元々は剣士だよ。アタシが最初にダミアンに教えたのは剣の握り方からだ。筋がよくてね。レオンとは違うタイプだったが、才能はあった」
ドラコが剣士だった。あの飄々とした銃使いが、元は剣を振るっていた。帽子の下の紅い瞳。軽口を叩きながら拳銃で敵を撃ち抜く姿しか知らない。あの人が剣を持っていた時代があったのだ。
魔王ドラコを「バカ弟子」と呼び、本名の「ダミアン」で呼ぶ。魔王になる前の、人間だった頃を知っている。それがこの女性だ。
「……覚悟はできています」
ベアトリクスも頷いた。
「よろしくお願いいたします」
レイラは二人の顔を見て、ふっと笑った。そしてアビゲイルの方を向いた。
「アビー。お前の教え子たちは、いい目をしているね」
「わたくしの教え子ではないわ。ドラコの預かりものよ」
「同じことだよ」
レイラは棚に立てかけてあった古い木剣を二本取り、エルザとベアトリクスに投げ渡した。エルザが慌てて受け止める。ずしりとした重さが、両手に伝わった。
「まずは基礎からだ。立ち方、構え方、足の運び。剣も魔術も、全ての土台はそこにある。ダミアンにもレオンにも、最初に教えたのはそこからだった。明日から始める。今日は休みなさい。長い旅だったんだろう」
エルザは木剣を握りしめた。重い。だが、この重さを支えられる自分になる。ドラコが守ってくれた時間を、無駄にしないために。
ベアトリクスも木剣を両手で握った。メイドの手には不似合いな武器だ。だが、この手で姫様を守ると決めた。次は、斬られるだけでなく、守り返せる力が欲しい。
レオンは壁にもたれ、腕を組んでいた。何も言わない。だが、エルザとベアトリクスの木剣を握る姿を、静かに見つめていた。
窓から差し込む光が、埃っぽい魔術点の中を照らしていた。小さな店の中に、歴戦の師匠と最強の勇者と、新しい弟子たちが揃っている。新しい日々が、ここから始まる。




