第80話 ダークエルフ
翌朝。宮殿の一室で、エルザはレオンの前に立っていた。
ベアトリクスが隣に控え、アビゲイルは少し離れた椅子に座っている。昨夜は宮殿の客室を与えられ、数日ぶりにまともな睡眠を取ることができた。エルザの目に疲れの色はなかった。決意の光が、瞳の奥に宿っている。
レオンは窓辺に立っていた。甲冑を脱いだ姿は、一〇代の少年にしか見えない。黒い短髪に質素な黒い衣服。だが、その存在感は変わらない。窓から差し込む朝日を背に、鋭い目がエルザを見ている。
「レオン様。お話があります」
エルザは真っ直ぐにレオンを見つめた。皇帝ではなく勇者として行動すると言ったレオンに、エルザは「陛下」とは呼ばなかった。
「わたくしは、ダンピールです」
レオンの表情は変わらなかった。驚きもしなければ、眉一つ動かさない。知っていたのか、それとも何を聞いても動じないのか。エルザには判断がつかなかった。
「父はギルバート王。王になる前は帝国兵であり、魔術師でした。母はヴェンツェル王国の王妃ルイーザ。吸血鬼でした。人間と吸血鬼の間に生まれた子供。それがわたくしです」
レオンが僅かに頷いた。
「ギルバートのことは知っている。帝国の団長を務めた男だ。強かった。ルイーザとも一度、剣を交えたことがある。あの女は強かった」
短い言葉だったが、そこに深い敬意が含まれていた。レオンが両親を知っていたことに、エルザは驚いた。しかも、母と戦ったことがあるという。吸血鬼であった母の強さを、最強の勇者が認めている。それは誇らしいことだった。
エルザは一歩前に出た。
「財団はわたくしのダンピールの血を狙っています。これまでは、ドラコやフローレンスたちに守っていただきました。でも、いつまでも守られているだけではいけない。わたくしは強くなりたいのです」
声が震えていた。だが、それは恐怖ではなく決意の震えだ。ドラコが一人で敵の軍勢に立ち向かった夜。ベアトリクスが帝国兵の剣を無抵抗で受けた時。その度に、自分の無力さを痛感してきた。
エルザは頭を下げた。
「レオン様。わたくしに、戦い方を教えてください」
ベアトリクスも一歩前に出て、頭を下げた。
「わたしもお願いします。姫様を守るために、わたしも強くならなければなりません」
レオンは二人を見つめた。沈黙が流れた。窓の外で、鳥の鳴き声が聞こえる。
やがて、レオンが口を開いた。
「断る」
短かった。エルザとベアトリクスが顔を上げた。
「オレは戦い方を教えるのには向いていない」
レオンは窓の外に目を向けた。ターリンガの街並みが朝日に照らされている。
「身につけた技を言葉にして、人に伝えることができない。過去に何度か試みたが、全て失敗した」
最強と称される勇者が、教えることだけはできない。体が勝手に動く。感覚で戦う。それを言葉にする方法が、レオンには分からない。
エルザの表情が曇りかけた。だが、レオンは続けた。
「ただ、そこまで強くなりたいなら、心当たりがある」
エルザが顔を上げた。
「オレの師匠がいる。この街に」
師匠。かつて魔王を倒したとされる勇者の、その師匠。エルザとベアトリクスは顔を見合わせた。
アビゲイルが椅子から立ち上がった。その顔に、微かな驚きが浮かんでいた。
「レオン。まさか、あの人がターリンガにいるの?」
「ああ。ずっとここにいる。街の裏通りで魔術店を開いている」
アビゲイルの表情が変わった。驚きから、懐かしさへ。紅い瞳が揺れていた。
レオンに連れられ、四人はターリンガの街を歩いていた。
大通りから外れ、裏通りに入る。石畳の道が狭くなり、両側に古い建物が並んでいる。人通りはまばらで、表通りの賑わいとは別世界だった。
レオンは甲冑を着ていなかった。黒い衣服に大剣だけを背負った姿は、ただの少年にしか見えない。だが、すれ違う人々が無意識に道を開けるのは、この少年から漂う気配のせいだろう。
エルザは歩きながら、レオンの背中を見つめていた。この人の師匠とは、どんな人物なのだろう。最強の勇者を育てた人物。想像もつかなかった。
やがて、レオンが一軒の店の前で足を止めた。
小さな店だった。木造の建物で、看板には「魔術店」とだけ書かれている。窓は薄汚れており、中の様子はよく見えない。とても繫盛しているとは思えない佇まいだった。
レオンが扉を開けた。古い蝶番が軋んだ音を立てた。
「入れ」
店内は薄暗かった。棚には瓶や巻物、魔術の道具が雑然と並んでいる。埃っぽい空気の中に、香草の匂いが混じっていた。奥の壁には古い剣や槍が掛けられている。どれも年季が入っているが、手入れは行き届いていた。その下に一脚の椅子が置かれている。
その椅子に、一人の女性が座っていた。
黒い肌。長い白銀の髪。尖った長い耳。ダークエルフだ。年齢は外見からは判別できない。若く見えるが、途方もない歳月を生きてきたようにも見える。足を組み、椅子の背にもたれて、入ってきた四人を静かに見つめていた。
その目は、深い。底の知れない瞳だった。レオンとはまた違う種類の気配。レオンの気配が鋭い刃なら、この女性の気配は深い湖だ。静かで、底が見えない。
レオンが口を開いた。
「レイラ。客を連れてきた」
レイラ。レオンの師匠。その名を聞いた瞬間、アビゲイルが前に出た。
レイラの目が、アビゲイルを捉えた。一瞬の沈黙。そして、レイラの口元がゆっくりと綻んだ。
「アビー?」
その声は低く、落ち着いていた。だが、その一言に込められた感情は深かった。アビー。愛称で呼ばれたアビゲイルの目に、涙が浮かんだ。幼い少女の顔が、一瞬だけ年相応の子供のように歪んだ。
「レイラ……!」
アビゲイルがレイラに駆け寄った。レイラは椅子から立ち上がり、アビゲイルを受け止めた。小さな体を抱きしめる。アビゲイルの頭が、レイラの胸元に埋まった。
エルザとベアトリクスは驚いていた。いつも冷静で、大人びたアビゲイルが、子供のように泣いている。
「久しぶりだね、アビー。元気そうで何よりだよ」
レイラがアビゲイルの白い髪を撫でた。穏やかな手つきだった。
「レイラ、会いたかった。ずっと、会いたかった」
「アタシもだよ。ダミアンから一五年ぶりに手紙が届いていたから、無事なのは知っていたけど。やっぱり直接顔を見ないとね」
レイラはアビゲイルの頭を撫で続けた。まるで母親が子供をあやすように。アビゲイルよりも遥かに長い時を生きてきた者の手つきだった。
アビゲイルが顔を上げた。涙を拭い、照れたように笑った。
「ごめんなさい。取り乱してしまって」
「いいんだよ。泣きたい時は泣けばいい。あの時だって、そうだったでしょう」
あの時。二人の間にどんな過去があるのか、エルザには分からない。だが、この再会がどれほど深い意味を持つものか、アビゲイルの涙を見れば分かった。
レイラはアビゲイルの肩を離し、改めてエルザたちの方を向いた。長い白銀の髪が揺れ、黒い肌に星のような瞳が光っている。
その目が、エルザを見た。
一瞬、レイラの動きが止まった。まるで時が止まったかのように、レイラはエルザの顔を凝視していた。驚きではない。懐かしさだ。何かを確かめるように、エルザの顔を、髪を、瞳を、じっと見つめていた。やがて、レイラの目に感慨の色が浮かんだ。
「……ルイーザの娘だね」
エルザが息を呑んだ。母の名前が、この女性の口から出た。




