第76話 帝国の首都
ターリンガは、巨大な都市だった。
汽車が駅に滑り込んだ時、窓の外に広がる街並みにエルザは息を呑んだ。石造りの建物が整然と並び、大通りには蒸気自動車と馬車が行き交っている。街路樹が等間隔に植えられ、その向こうに巨大な宮殿の尖塔が空に突き出していた。リファランも大きな都市だったが、ターリンガはその比ではない。大陸の中枢。セクレタリア帝国の首都だ。
人種も多様だった。人間、エルフ、さらには大柄なオークの姿も見える。国際色豊かな都市だとアビゲイルが説明していた通りだ。だが、街の活気とは裏腹に、宮殿周辺の警備は厳重だった。武装した帝国兵がそこかしこに立ち、通行人に目を光らせている。他国と同様に、この帝国も吸血鬼の脅威に晒されているのだ。
三人は駅を出て、宮殿に向かった。アセンブリーからの夜行便で一睡もできなかったが、疲労を訴える者はいなかった。ドラコが命を懸けて作ってくれた時間を、一秒たりとも無駄にはできない。
宮殿の正門で、三人は帝国兵に止められた。アビゲイルが名乗り、ドラコの名を出した途端、兵士たちの態度が変わった。すぐに上官への伝令が走り、門が開かれた。どうやらドラコが来ることは、既に宮殿に伝わっていたらしい。ドラコではなくアビゲイルが来たことに兵士たちは怪訝な顔をしていたが、それ以上は何も訊かなかった。
案内された先は、宮殿の謁見の間だった。高い天井から魔術灯の光が降り注ぎ、壁には帝国の紋章と歴代皇帝の肖像画が並んでいる。長い赤い絨毯が奥まで続き、その先に玉座があった。
玉座に座っていたのは、白い甲冑に身を包んだ人物だった。
全身を覆う白い鎧。顔さえも兜のフェイスプレートに隠されており、素顔は一切見えない。玉座の横には、巨大な大剣が立てかけられていた。常人には持ち上げることすらできないであろう鉄塊が、すぐ手の届く場所にある。
皇帝レオン・セクレタリア。かつて魔王を倒し、世界を救ったとされる勇者。
兜の奥から、視線だけがこちらに向けられた。何も言わない。促すでもなく、拒むでもない。ただ、待っている。その沈黙には、一切の感情が読めなかった。関係者が「何を考えているのか分からない」と称する人物。その評判は、伊達ではなかった。
エルザは一歩前に出た。王女としての礼を取り、頭を下げた。
「セクレタリア帝国皇帝レオン陛下。ヴェンツェル王国王女、エルザ・ヴェンツェルです。この度は、お目通りを賜り感謝いたします」
レオンは沈黙していた。数秒の間があった。それから、低い声が兜の中から響いた。
「魔王は」
短い問いだった。言葉数が極端に少ない。
アビゲイルが前に出た。
「ドラコはアセンブリーで財団の軍勢を食い止めています。わたくしたちを逃がすために、一人で残りました」
レオンは僅かに頷いた。それだけだった。驚きも心配も、兜の下からは読み取れない。
エルザは意を決して口を開いた。
「レオン陛下。わたくしたちは、財団を倒すためにここに来ました。ドラコから、レオン陛下なら信用できると聞いています。財団は不老不死の軍隊を作ろうとしています。このままでは、帝国も、他の全ての国も危険です。どうか、共に戦っていただけないでしょうか」
直截的な申し出だった。駆け引きも外交辞令もない。エルザの真っ直ぐな目が、兜の奥のレオンを見つめている。
レオンはしばらく沈黙していた。謁見の間に、三人の呼吸だけが聞こえる。やがて、レオンが口を開いた。
「いいだろう」
短かった。だが、その一言に迷いはなかった。レオンは玉座から立ち上がった。白い甲冑が軋みを上げ、巨大な体躯が三人の前に立った。
「財団の動きは把握している。帝国としても、放置はできない。協力する」
エルザの顔に安堵が広がった。ベアトリクスも肩の力を抜き、アビゲイルは小さく微笑んだ。ようやく、味方を得た。
だが、その安堵は長くは続かなかった。
謁見の間の扉が開き、数人の帝国兵が入ってきた。レオンの護衛たちだ。武装した屈強な兵士たちが、エルザたちの姿を見た瞬間、表情が変わった。
一人の兵士が声を上げた。年かさの男だった。頬に古い傷跡がある。
「陛下。失礼ですが、この者たちの中に吸血鬼がいます」
その目は、ベアトリクスに向けられていた。紅い瞳。それだけで分かる。吸血鬼の証だ。アビゲイルにも視線が向けられた。
兵士の声には、敵意が滲んでいた。
「吸血鬼を宮殿に入れるなど、正気ですか。我々の仲間がどれだけ吸血鬼に殺されたか、陛下はご存知でしょう」
その声には、生々しい怒りがあった。この兵士は実際に吸血鬼との戦闘を経験しているのだろう。仲間を失い、その恨みが消えないまま、今も戦い続けている。
別の兵士も声を上げた。
「協力するだと? 吸血鬼と手を組んで財団と戦う? 馬鹿げている。こいつらが財団の手先でないと、どうして言い切れる」
また別の兵士が吐き捨てた。
「前の襲撃で、オレの同期が三人死んだ。吸血鬼にやられたんだ。その吸血鬼と同じ目をした奴が、今ここにいる。信用しろと言う方が無理だ」
空気が張り詰めた。兵士たちの目には、憎悪があった。吸血鬼に仲間を殺された者たちだ。その恨みは深い。理屈ではなく、感情が拒絶していた。レオンはまだ何も言わない。兜の下で、ただ黙ってこの状況を見つめていた。
エルザが口を開こうとした。だが、それより先に動いた者がいた。
頬に傷のある兵士が、腰の剣を抜いた。一瞬の出来事だった。剣がベアトリクスに向かって振り下ろされた。
ベアトリクスは避けなかった。
吸血鬼の身体能力があれば、避けることは容易だった。受け止めることも、反撃することもできた。だが、ベアトリクスは動かなかった。体が動けなかったのではない。動かないことを、選んだ。
剣の峰がベアトリクスの肩を打ち、鈍い音が謁見の間に響いた。ベアトリクスが膝をついた。メイド服の肩が裂け、赤い血が滲む。痛みが走った。だが、この痛みは、兵士たちが吸血鬼に受けた痛みに比べれば、何でもない。
「ベアト!」
エルザが叫んだ。駆け寄ろうとしたが、ベアトリクスが手で制した。
「大丈夫です、姫様」
ベアトリクスは膝をついたまま、兵士を見上げた。紅い瞳が、真っ直ぐに兵士の目を見つめている。恨みもなく、怒りもなく、ただ静かに。
「お気持ちは分かります。吸血鬼を信じられないのは当然です」
兵士が歯を食いしばっていた。剣を握る手が震えている。
「わたしは吸血鬼です。それは事実です。でも、わたしたちは味方です。それを信じてもらうために、わたしは反撃しません」
ベアトリクスの声は穏やかだった。肩から血が流れている。痛みはあるだろう。だが、その顔に苦痛の色はなかった。ただ、真っ直ぐに兵士を見つめていた。
兵士が二撃目を振り上げた。だが、別の兵士がその腕を掴んだ。
「やめろ。無抵抗の相手を斬るな」
「黙れ! こいつは吸血鬼だぞ! オレの部下がどれだけ殺されたと思っている!」
兵士たちの間で怒号が飛び交った。味方同士が睨み合い、一触即発の空気が広がる。
アビゲイルが静かに二人の前に立った。魔杖は構えていない。ただ、立っているだけだ。その小さな背中が、二人を守るように。




