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ブラッディ―メイデン  作者: しましまましま
第Ⅰ章 プリンセス オブ ブラッド

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第75話 日記の真実

 ベアトリクスの声が微かに震えた。ドラコとライカは同じ体にいるのに、直接会話ができない。片方が起きている時、もう片方は眠っている。顔を合わせることも、声を交わすこともできない夫婦。その二人が繋がる唯一の方法が、日記だった。

 ドラコは毎晩、日記を書いていた。今日あったこと。出会った人のこと。戦いのこと。些細な出来事でも、全てを書き留めていた。ライカが目覚めた時に読めるように。自分が見た世界を、ライカにも見せてあげるために。

 あの夜のドラコの横顔を思い出す。窓辺で手帳に向かい、一文字一文字を丁寧に書いていた。時折ペンを止めて、何かを思い出すように宙を見つめていた。あの時ドラコは、ライカのことを想っていたのだ。


「ライカも同じように日記を書くの。ドラコに読んでもらうために。二人はずっとそうやって、文字を通じて会話をしてきた。何百年もの間。同じ体にいて、同じ景色を見ることができないのに。手紙のように日記を書き、返事のように日記を書く。それが二人の唯一の対話の方法」


 アビゲイルの声が、僅かに詰まった。長い付き合いの中で、アビゲイルはその光景を何度も見てきたのだ。夜の窓辺で手帳に向かうドラコの横顔。朝の光の中で同じ手帳を開くライカの横顔。二人がその手帳を書いている時の表情は、驚くほど似ていた。相手を想う時の顔は、性別も声も違うのに同じだった。

 アビゲイルは目を伏せた。


「わたくしはずっと、二人の傍にいた。ドラコの日記を見て、ライカの日記を見て。二人が書いた文字の温もりを、一番近くで見てきた。だから分かる。あの二人がどれだけ、お互いを想っているか」

「ドラコさんは……ずっと、そうやって」


 ベアトリクスは目を伏せた。あの夜、ドラコは言った。日記を書くのには「愛する人に、見てもらうためだ」と。「あいつに読んでもらうため」と。あの時の、少しだけ寂しそうな笑顔の意味が、今になって分かった。

 あの言葉の「愛する人」が、ライカのことだったのだ。全てが符号ふごうする。ベアトリクスは胸が締め付けられるような想いだった。

 エルザが唇を震わせた。


「自分の体を捨ててまで、奥様を救ったのですね」


 エルザの目に、新たな涙が浮かんでいた。だが、先ほどまでの悲しみの涙とは違った。ドラコという存在の深さに触れた涙だった。


「ドラコがいつも明るく振舞っていたのは……」

「全部、本物よ。ドラコの明るさは嘘じゃない。辛い状況の中でも笑えるのが、ドラコの強さ。ライカも同じ。二人とも、悲しみに溺れることを選ばなかった。今ある形の中で、精一杯生きることを選んだ」


 アビゲイルは静かに頷いた。


「ドラコは、ライカを失うことだけは耐えられなかった。自分の体がなくなっても、ライカが生きていれば。そう思ったの。でも、その代償は大きかった。二人は同じ体にいるのに、二度と直接会えなくなった。触れることも、声を聞くこともできない。日記だけが、二人を繋ぐ糸」


 エルザが胸に手を当てた。同じ体にいるのに、会えない。それは、離れていて会えないこととは違う苦しみだ。相手がすぐそこにいるのに、触れることができない。声が届かない。目を合わせることすらできない。その孤独は、どれほどのものだろう。


「ライカさんは……それを受け入れたのですか」

「ライカが目覚めた時、ドラコの体はもうなかった。自分の体に、ドラコの魂が入っていた。最初は何が起きたのか分からなかったと思う。でも、ドラコが日記に全てを書き残していた。何をしたのか。なぜそうしたのか。ライカはそれを読んで……泣いたと、後でドラコの日記に書いてあったわ。ライカの涙の跡が、ドラコの手帳のページに残っていたの」


 アビゲイルの声が微かに揺れた。


 車内に沈黙が広がった。汽車の車輪の音と、遠い風の音だけが聞こえる。

 ベアトリクスは窓の外を見た。草原が月明りに照らされ、果てしなく続いている。ドラコの抱えていたもの。あの軽口の裏にあった孤独。毎晩手帳に向かう姿。全てが繋がった。

 エルザが目を拭い、顔を上げた。


「ドラコにも、辛い過去があったのですね。わたくしたちと同じように」

「同じ、じゃないわ」


 アビゲイルが小さく首を振った。


「ドラコとライカの苦しみは、わたくしたちには想像もできないもの。愛する人と同じ体にいるのに、会えない。その苦しみの中で、二人はそれでも前を向いて生きてきた。日記を書いて、読んで。文字の向こうにいる相手を想いながら」


 エルザは頷いた。そして、静かに、だが確かな声で言った。


「必ず、また会いましょう。ドラコにも、ライカさんにも」


 ベアトリクスも頷いた。


「はい。必ず」


 アビゲイルは二人の顔を見て、微笑んだ。疲れた顔だったが、温かい笑みだった。


「きっと会えるよ。ドラコは約束を破らない人だから」


 窓の外で、空の端が白み始めていた。満月が西の空に傾き、代わりに東の地平線が薄い橙色に染まり始めている。長い夜が、ようやく明けようとしていた。

 汽車は草原を走り続けている。セクレタリア帝国の首都ターリンガへ。皇帝レオンが待つ場所へ。

 エルザは窓の外の夜明けを見つめた。フローレンス。ドラコ。ライカ。それぞれの場所で、それぞれの戦いを続けている。自分たちだけが、守られて前に進んでいる。その事実が重かった。だが、重いからこそ、無駄にはできない。

 エルザは拳を握った。リファランの宮殿でポーラーに教えてもらった。財団の真の狙いは自分だと。ダンピールの血だと。ならば、自分が強くなるしかない。守ってもらうだけの王女ではなく、皆と共に戦える自分になるために。ターリンガで、かつて勇者と呼ばれたレオンの元で、力をつけよう。そう決意した。

 アビゲイルは席にもたれ、再び目を閉じた。小さな体が、汽車の揺れに合わせて僅かに揺れている。ターリンガまで、まだ時間がある。束の間の休息を取るべきだった。ドラコとの約束を果たすために。二人を、必ず届ける。

 ベアトリクスは目を閉じた。瞼の裏に、ドラコの笑顔が浮かんだ。帽子の鍔を上げて、軽口を叩く顔。あの笑顔の裏に、これほどの痛みがあったとは。自分の体を失い、妻と直接話すこともできず、それでも笑い、戦い、仲間を守り続けてきた。

 ルイーザは、エルザを産むために命を捧げた。ドラコは、ライカを救うために自分の体を捨てた。この旅で出会った人たちは皆、大切な誰かのために何かを犠牲にしてきた。そのことの重さが、ベアトリクスの胸にずしりとのしかかった。

 いつか、ドラコとライカの二人に「ありがとう」と言いたい。直接。面と向かって。その日が来ることを信じて、ベアトリクスは目を開けた。

 朝日が、草原を金色に染め始めていた。ターリンガは、まだ遠い。だが、三人は前に進んでいる。ドラコが作ってくれた道を、フローレンスが守ってくれた時間を、無駄にしないために。

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