第74話 魔王の嫁
汽車が草原を走り始めて、しばらくが経った。
アセンブリ―の街はとうに見えなくなり、窓の外には月に照らされた草原だけが広がっている。車輪が線路の継ぎ目を叩く音だけが、規則的に響いていた。
エルザの涙がようやく止まった。ベアトリクスが差し出したハンカチで目元を拭い、深く息を吐いた。だが、瞳の奥にはまだ不安と混乱が渦巻いていた。ドラコが獣に変わった光景が、瞼の裏に焼きついて離れない。
アビゲイルが目を開けた。二人を見て、小さく頷いた。
「落ち着いた?」
「はい……」
エルザが弱々しく頷いた。ベアトリクスも姿勢を正し、アビゲイルに目を向けた。
「アビゲイルさん。先ほど言っていたこと、聞かせてください。あれはドラコさんではない、と」
ベアトリクスの声は落ち着いていたが、目の奥には切実な問いがあった。あの獣の姿は何だったのか。ドラコに何が起きたのか。
アビゲイルは膝の上に魔杖を置き、二人の顔を交互に見た。
「順を追って話すね。少し長くなるけど、聞いて」
汽車の振動が、三人の間を静かに揺らしていた。
「さっきドラコの体に起きたこと。あれは『人狼化』と呼ばれる力なの。人が狼の姿に変わる。ドラコが教えてくれたロードの力とは全く違う、別の力。そして、これが重要なんだけど」
アビゲイルは一度言葉を切り、二人の目を見つめた。
「人狼化の力は、ドラコの力ではないの」
「ドラコさんの力では、ない……?」
ベアトリクスが繰り返した。ドラコの体が変わったのに、ドラコの力ではない。意味が分からなかった。
アビゲイルは頷いた。
「あの力は、『ライカ』という女性の力。そしてライカは、ドラコのお嫁さんよ」
「お嫁さん……」
エルザが目を見開いた。ドラコに、妻がいた。あの飄々とした吸血鬼に。
「ライカは、ヴェアヴォルフ同胞団の総帥。わたくしたちの古い仲間で、人狼化の力を持つ女性。それがドラコの妻」
アビゲイルの声は穏やかだったが、言葉の一つ一つに重みがあった。ベアトリクスは黙って聞いている。エルザも口を噤んで、アビゲイルの言葉を待っていた。
「ドラコとライカは、一つの体を共有しているの」
その言葉に、二人の表情が凍った。
「共有……?」
「そう。あの体は、元々はライカの体。ドラコの本来の体は、もう存在しないわ」
アビゲイルは窓の外に目を向けた。月が草原を照らし、銀色の光が汽車の中にまで差し込んでいる。
「昔、ライカが命の危機に陥ったことがあったの。詳しい経緯は今は省くけど、ライカの体は無事だった。でも、魂が消えかけていた。体は生きているのに、中身が死にかけている。そんな状態だった」
アビゲイルが紅色の瞳に、遠い過去の記憶が映っていた。
「ドラコは、ライカを救うためにある決断をした。吸血鬼の力の一つに、他者の体を取り込むというものがある。正確に言えば、自分の魂を他者の体に移すこと。ドラコは自分の体を捨てて、ライカの体に入ったの」
ベアトリクスは息を呑んだ。自分の体を、捨てた。愛する人を救うために、自分自身の体を犠牲にした。
「それは……どういう意味ですか。ドラコさんの元の体は」
「もう、ない。ドラコの本来の体は、あの時に失われた。二度と戻ることはできない。今ドラコが使っているのは、ライカの体。ドラコは自分の全てを捨てて、ライカの命と引き換えにしたの」
ベアトリクスは言葉を失った。それは、想像を絶する選択だった。自分の存在の根幹を手放すということ。それでもなお、ライカの命の方が大切だと。ドラコはそう決断した。
「ドラコの魂がライカの体に入ったことで、ライカの消えかけていた魂は安定した。ドラコの存在が、ライカの魂を繋ぎ止めたの。結果として、一つの体の中に二つの魂が共存するようになった。体はライカのもの。でも、普段の魂と声はドラコのもの。だから、ドラコの姿は女性の外見なのに、声だけが男性的なの」
エルザは思い出していた。ドラコの美しい女性の容姿と、そこから発せられる低い男性の声。不思議に思っていた。だが、訪ねることはしなかった。今、その理由が分かった。あの体はドラコのものではない。ライカの体なのだ。
「でも、二つの魂は同時には表に出られない。普段はドラコが体を動かしていて、ライカは眠っている状態。二人が入れ替わる条件は一つ」
アビゲイルは月の方を見た。窓の外で、満月がまだ輝いている。
「満月を目に映すと、強制的に人狼化が起きる。人狼化はライカの力だから、その時に魂が入れ替わるの。ドラコが眠り、ライカが目覚める。人狼の姿から元に戻った時、そこにいるのはドラコではなく、ライカ」
エルザが口を開いた。
「では、その逆もあるのですか。ライカさんが表にいる時に、満月が来れば」
「うん。ライカの時に満月を見て人狼化すれば、今度はドラコが目覚める。満月が来るたびに、二人は入れ替わるの。交互に、一つの体を使って生きている」
だから、アビゲイルは言ったのだ。あれはドラコではない、と。人狼化が終わった後に目を覚ますのはライカ。ドラコの魂は、体の奥で眠りについている。
「では……今、ドラコは」
エルザの声が震えた。
「眠っているわ。ライカが起きている間は、ドラコの意識はない。また次の満月が来て、ライカが人狼化すれば、再びドラコが表に出る。二人は交代でこの体を使っているの。満月が来るたびに、交互に」
沈黙が落ちた。汽車の揺れだけが、車内に響いている。
ベアトリクスの脳裏に、一つの光景が蘇った。リファランの宮殿での夜。ドラコが窓辺で手帳に何かを書いていた姿。あの時、ベアトリクスは訊いた。何を書いているのか、と。ドラコは「日記だ」と答えた。
「日記」
ベアトリクスが呟いた。アビゲイルが頷いた。
「そう。ドラコが日記を書いていた理由。気づいた?」
「ライカさんに、読んでもらうため……」




