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ブラッディ―メイデン  作者: しましまましま
第Ⅰ章 プリンセス オブ ブラッド

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第72話 一対一〇〇の戦場

 走りながら、アビゲイルが呟いた。


「ライカ。後は頼んだわ」


 小さな声だった。エルザにもベアトリクスにも聞こえないほどの声だった。だが、その一言には万感の想いが込められていた。アビゲイルは振り返ることなく走り続けた。

 三人は夜の路地を駆け抜けていった。アセンブリーの街は眠りについているはずだったが、基地の方角から響く轟音と遠吠えに、あちこちの家の灯りが点り始めていた。住民たちが窓から顔を出し、怯えた目で夜空を見上げている。

 エルザが走りながら叫んだ。


「アビゲイル! さっきのは何だったのですか!? ドラコの体が……あの姿は……!」


 エルザの声は震えていた。目の前でドラコの体が獣に変わっていく光景は、あまりに衝撃的だった。


「説明は汽車の中で。今は走って」


 アビゲイルの返事は短かった。だが、一つだけ付け加えた。


「一つだけ言えることがあるの。あれはドラコではないわ」

「ドラコさん、ではない……?」


 ベアトリクスが走りながら聞き返した。あの姿がドラコではない。では、あれは誰なのか。あの銀色の人狼の中にいるのは、一体何者なのか。

 だが、アビゲイルはそれ以上何も言わなかった。前だけを見て走っている。今はまず生き延びること。説明は後だ。


 路地を二つ曲がり、大通りに出た。石畳の広い道が、駅に向かって真っ直ぐに伸びている。街灯の灯りが等間隔に並び、夜の道を細く照らしていた。基地の方角から響く戦闘音が、距離と共に少しずつ小さくなっていく。それでも遠吠えだけは、街全体を揺るがすように響き続けていた。

 ベアトリクスはエルザの手を強く握っていた。姫様の手が震えている。自分の手も震えている。だが、足は止めなかった。

 前方に、アセンブリー駅の建物が見えた。石造りの駅舎は小さいが、蒸気機関の煙が煙突から上がっている。汽車がまだ停まっているのだ。夜間便だ。間に合う。

 だが、安堵したのも束の間だ。

 大通りの向こうから、灰色の影が這い出てきた。食屍鬼だ。基地を包囲していた大軍の一部が、街の中にまで流れ込んでいたのだ。三体。いや、路地の奥にも影が見える。五体以上はいた。虚ろな目が三人を捉え、灰色の体が一斉にこちらに向かって動き始めた。

 エルザが足を止めかけた。ベアトリクスがエルザの前に出て、拳を構えた。だが、その前にアビゲイルが一歩前に出た。魔杖を構え、先端に氷の魔力が集まる。


「ベアトリクス、エルザを頼んで。すぐに終わらせる」


 アビゲイルの魔杖から、氷の槍が放たれた。一本目が先頭の食屍鬼の頭部を貫き、凍結させた。二本目、三本目が続けざまに飛び、食屍鬼の胴体を氷漬けにしていく。凍りついた食屍鬼がその場で砕け散った。残りの食屍鬼が這い寄ってきたが、アビゲイルが魔杖を一振りすると、地面から氷の壁が隆起し、食屍鬼たちの進路を塞いだ。氷壁に激突した食屍鬼が、そのまま凍りついて動かなくなった。

 一〇秒もかからなかった。アビゲイルは魔杖を下ろし、二人を振り返った。


「行こう」


 三人は再び走り出した。駅舎に飛び込み、ホームに出た。汽車が停まっていた。蒸気を吐き出す機関車の後ろに、客車が数両連なっている。乗客はほとんどいなかった。深夜の便だ。駅員が一人、ホームに立って不安そうな顔をしている。基地の方角から聞こえる爆発音に怯えているのだろう。

 アビゲイルが駅員に声をかけた。


「この汽車はターリンガに向かいますか」

「え、あ、はい。首都方面行きです。もうすぐ出発しますが」

「乗ります」


 汽笛が鳴った。出発が近い。

 三人はホームを走り、最寄りの客車に飛び乗った。扉が閉まり、汽車がゆっくりと動き始めた。ホームが後方に流れていく。アセンブリーの街並みが、窓の向こうで遠ざかっていた。

 車内は空いていた。深夜の便に乗る客は少ない。三人は窓際の席に腰を下ろした。息が荒い。走り続けた体が、ようやく休息を得た。

 街の方角から、また遠吠えが聞こえた。基地のある辺りから、炎の光が上がっている。まだ戦いは続いている。あの獣の姿で、まだ戦い続けている。

 ベアトリクスは窓に手をつき、遠ざかる街を見つめた。エルザも隣で窓の外を見ている。涙が頬を伝い、窓硝子に落ちた。

 フローレンスを、リファランに残してきた。ドラコを、アセンブリーに残してきた。旅を共にした仲間が、一人ずつ減っていく。守られてばかりだ。いつも誰かが犠牲になって、自分たちの道を作ってくれる。

 エルザが声を押し殺して泣いていた。ベアトリクスはエルザの肩にそっと手を回した。自分も泣きたかった。だが、ここで泣けばエルザが余計に辛くなる。メイドとして、姫様を支えなければ。

 アビゲイルは二人の向かいに座り、静かに目を閉じていた。疲労の色が顔に出ている。食屍鬼との戦闘で魔力を使い、全力で走り続けた。小さな体には大きな負担だっただろう。だが、その表情は穏やかだった。ドラコの判断を、信じている顔だった。

 汽車が速度を上げ、アセンブリーの灯りが闇の中に小さくなっていった。やがて、街は完全に見えなくなった。草原だけが、月明かりの下に広がっている。



 同じ頃。アセンブリー、ヴェアヴォルフ同胞団基地。

 人狼の戦いは、凄まじいものだった。

 銀色の獣が、食屍鬼の群れを薙ぎ倒していく。鉤爪の一撃で食屍鬼が引き裂かれ、跳躍の衝撃で地面が陥没する。吸血鬼が束になって襲いかかっても、人狼の腕の一振りで全員が吹き飛ばされた。牙が吸血鬼の首に食い込み、嚙みちぎる。血しぶきが月明かりの下で黒く散った。

 だが、敵の数が多すぎた。

 一〇〇を超える吸血鬼と食屍鬼の大軍。人狼が一〇体倒す間に、更に二〇体が押し寄せてくる。統率の取れた吸血鬼の部隊が、人狼の四方から同時に攻撃を仕掛けた。正面から食屍鬼が壁のように突進し、側面から吸血鬼が高速で斬りかかる。一対一なら敵ではない。だが、これは戦争だ。一対一〇〇の戦場では、どれほどの力を持っていても消耗は避けられない。

 人狼の体に、傷が増え始めた。鉤爪で薙ぎ払った直後に背中を斬られ、跳躍した瞬間に足を掴まれる。銀色の体毛が赤く染まっていく。それでも人狼は戦い続けた。吠え、引き裂き、嚙み砕き、踏み潰す。だが、敵は途切れない。

 生き残った傭兵たちが、離れた場所で息を潜めていた。人狼の戦いに巻き込まれれば、味方であっても命はない。それほどの暴力が、戦場を支配していた。ラミーナだけが刀を構えたまま、人狼の背後を守るように立っていた。リューネットもラミーナの傍で魔杖を構えている。二人とも、その時を待っていた。

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