第71話 遠吠え
エルザはドラコの手を両手で握った。
「必ず、また会いましょう。約束です」
「ああ。約束だ」
ドラコはベアトリクスを見た。
「ベアトリクス。エルザを頼んだぞ」
「はい。命に代えても」
ベアトリクスの声が僅かに震えていた。だが、その目は真っ直ぐだった。ドラコは満足そうに頷いた。
アビゲイルがドラコに歩み寄った。長い付き合いの二人だった。言葉は多くなかった。
「必ず生きてて」
「当たり前だ。オレが死ぬわけないだろ」
アビゲイルは小さく笑った。それから、エルザとベアトリクスの方を向いた。
「二人とも。ターリンガまで、わたくしが必ず守る。約束する」
その言葉には、普段の穏やかな口調とは違う、硬い決意があった。アビゲイルは二人の肩にそっと手を置き、それから二人をそっと抱き寄せた。小さな体だが、その腕には確かな温もりがあった。
「出会えてよかった。二人とも」
エルザが泣きながら頷いた。ベアトリクスも目を赤くして、アビゲイルの背中に手を回した。短い間だった。だが、この旅で共に過ごした時間は、三人の中に確かに刻まれていた。
外で爆発音が響いた。壁の一部が崩れ、食屍鬼の腕が隙間から突き出した。時間がなかった。
ドラコは三人に背を向け、基地の外に歩き出した。食屍鬼と吸血鬼の大軍が月明りの下に広がっている。その中に、一人で踏み込んでいく。堂々とした足取りだった。一〇〇を超える敵を前にして、その背中には微塵の怯えもなかった。
ラミーナがドラコの姿に気づいた。血まみれの刀を構えたまま、一瞬だけ目を見開いた。ドラコが一人で前に出ようとしている。その意味を、ラミーナは即座に理解した。
数歩進んだところで、ドラコは振り返った。ベアトリクスを見て、不敵に笑った。
「ベアトリクス。さっき話かけた、オレのもう一つの力。今から見せてやる」
ベアトリクスは息を呑んだ。
ドラコは空を仰いだ。雲が完全に晴れ、満月がその全貌を現していた。白く冷たい光が夜の街を照らしている。食屍鬼と吸血鬼の大軍が、ドラコの前方に広がっていた。一〇〇を超える敵。その全てが、たった一人のドラコに向かって殺意を向けている。
だが、ドラコは笑っていた。
敵の群れの前に一人で立ち、空を見上げ、笑っていた。
ドラコの紅い瞳が、満月を映した。
瞬間、ドラコの体が変わり始めた。
最初に変わったのは目だった。紅い瞳が金色に染まっていく。人間の目ではない。獣の目だ。次に、白色の髪が全身を覆うように広がり、銀色の体毛に変わっていった。帽子が地面に落ちた。指の爪が鉤のように伸び、顔が前方に突き出した。口が大きく裂け、鋭い牙が並ぶ。
変身の衝撃で周囲の地面が放射状にひび割れ、砂埃が舞い上がった。食屍鬼の群れが本能的に後退した。獣の威圧。それだけで、知性のない食屍鬼すら怯えている。
人型の狼。銀色の体毛に覆われた、獣と人の中間の姿。金色の瞳が、月の光を受けて爛々《らんらん》と輝いている。低い唸り声が腹の底から響いてくる。それだけで空気が震えた。
ウェアウルフ。人狼。
伝承の中にだけ存在すると思っていた存在が、目の前に立っていた。
エルザが息を呑んだ。ベアトリクスは目を見開いたまま動けなかった。あの帽子を被って軽口を叩いていた者が、月の下で獣になった。先ほどまで自分たちと言葉を交わしていた吸血鬼が、人ならざるものに変貌している。ロードとは異質の、根本から違う力だった。
アビゲイルがエルザとベアトリクスの腕を掴んだ。
「今のうちに行くよ。走って」
その声は冷静だったが、有無を言わさぬ強さがあった。アビゲイルはドラコの変身を見届けることなく、二人を引いて走り出した。裏口から基地を出て、夜の路地に駆け込む。駅はそう遠くない。今なら間に合う。
ベアトリクスは走りながら一度だけ振り返った。月明かりの下、銀色の人狼が敵の大軍の前に立っているのが見えた。
人狼となったドラコが、天を仰いだ。
そして、吠えた。
遠吠えが夜空を貫いた。アセンブリーの街全体を揺るがすような、魂の底を震わせる咆哮だった。建物の窓硝子がびりびりと鳴り、食屍鬼の群れが一斉に足を止めた。吸血鬼たちの紅い瞳に、明確な怯えの色が浮かんだ。
遠吠えが止んだ瞬間、人狼が動いた。銀色の影が食屍鬼の群れに突っ込んだ。一振りの腕で食屍鬼が三体まとめて宙を舞い、鉤爪の一撃で吸血鬼の胴が真っ二つに裂けた。桁違いの暴力だった。先ほどまでのドラコの戦いとは、まるで次元が違う。銃も体術も必要としない。獣そのものの力で、敵を蹂躙していく。食屍鬼の群れが恐慌状態に陥った。統率の取っていた吸血鬼の指揮官が後退の号令をかけたが、人狼の速度はそれを許さなかった。
ベアトリクスは前を向いた。アビゲイルの背中を追い、エルザの手を引いて走った。目に涙が滲んでいた。だが、振り返らなかった。ドラコが命を懸けて作ってくれた時間を、無駄にするわけにはいかない。
エルザも走っていた。涙で前が見えなかったが、ベアトリクスの手を握りしめて走った。ドラコ。フローレンス。アビゲイル。みんなが自分を守ってくれる。その想いに応えるためにも、今は生き延びなければならない。
アビゲイルは一度も振り返らなかった。前だけを見て走っていた。だが、その横顔には涙の跡があった。ドラコを一人残してきたことの重さを、誰よりも感じているのはアビゲイルだった。それでも走った。ドラコの判断を信じて、走った。
背後で、狼の遠吠えがもう一度響いた。戦いの雄叫びだった。
満月の光が、三人の走る路地を青白く照らしていた。




