第70話 満月
戦場は、地獄と化していた。
基地の正門を突破した食屍鬼の群れが雪崩込み、傭兵たちに襲いかかった。剣で斬っても、銃で撃っても、倒した端から新しい食屍鬼が押し寄せてくる。その背後から、吸血鬼の戦闘部隊が跳躍し、傭兵たちの死角を突いていった。
悲鳴が上がった。一人の傭兵が喉を嚙み切られ、崩れ落ちた。また一人、背中を爪で切り裂かれて倒れた。歴戦の傭兵たちが、次々と倒れていく。返り血が石畳を赤く染め、夜の空気に鉄の匂いが充満した。
ラミーナが刀を振るっていた。一閃で吸血鬼の首を刎ね、返す刃で食屍鬼を両断する。一太刀ごとに敵が倒れていく。だが、敵の数が多すぎた。一人で斬り伏せられる数には限界がある。
「正門を死守しろ! 退くな!」
ラミーナの声が戦場に響いた。だが、正門は既に半壊していた。食屍鬼の群れが壁のように押し寄せ、傭兵たちの防衛線を押し潰していく。
リューネットが魔杖を振り、攻撃の魔術を放った。黄色い光の奔流が食屍鬼の前列を吹き飛ばす。だが、その後ろから更に多くの食屍鬼が這い出てきた。側面からは吸血鬼の別働隊が壁を乗り越え、基地の内部に侵入し始めている。
「キリがない……!」
リューネットが歯を食いしばった。魔力の消耗が激しい。このままでは持たない。
そこに、短機関銃の連射音が響いた。基地の入口から飛び出したドラコが、食屍鬼の群れに弾丸を叩き込んでいた。頭部を正確に撃ち抜き、一発ごとに食屍鬼が崩れ落ちる。弾倉が空になると、背中の散弾銃に切り替えた。至近距離で放たれた散弾が、三体の食屍鬼の上半身をまとめて吹き飛ばす。
だが、一〇〇を超える敵の波は止まらなかった。弾は有限だ。すぐに散弾銃の弾も尽きた。ドラコは両方の銃を投げ捨て、素手で食屍鬼に踏み込んだ。拳で頭蓋を砕き、蹴りで体を両断する。吸血鬼が飛びかかってくれば、その腕を掴んで引きちぎった。圧倒的な身体能力だった。銃がなくとも、ドラコは戦場を圧倒していた。だが、それでも敵の数は減らない。倒しても倒しても、闇の中から湧き出してくる。一人倒す間に、その倍が押し寄せてくる。
傭兵たちの被害は甚大だった。三〇人近くいた精鋭が、見る間に数を減らしていく。食屍鬼に組み伏せられた傭兵の悲鳴が聞こえ、その声がすぐに途絶えた。仲間を「兄弟」「姉妹」と呼び合う傭兵たちが、目の前で命を落としていく。ラミーナの目に、怒りと悲しみが滲んでいた。
それでもラミーナは退かなかった。血に濡れた刀を構え直し、押し寄せる食屍鬼の群れに斬りかかる。リューネットも魔杖を振るい続けた。二人の連携は見事だった。ラミーナが前衛で斬り込み、リューネットが後衛から魔術で援護する。だが、それでも戦線は徐々に押し込まれていった。基地の外壁が二箇所で突破され、食屍鬼が建物の中にまで入り込んできている。
二階では、アビゲイルがエルザとベアトリクスの前に立っていた。
爆発音で目を覚ましたエルザは、窓から外を見た瞬間、顔が蒼白になった。無数の食屍鬼と吸血鬼が基地を包囲し、傭兵たちが倒れていく光景。
エルザは拳を握りしめた。
「わたくしも戦います」
先ほど決意したばかりだ。守ってもらうだけの王女ではいたくないと。ダンピールの力で戦うと。
だが、アビゲイルが静かに、しかし断固とした声で言った。
「だめだよ、エルザ」
エルザの目を真っ直ぐに見つめている。
「気持ちは分かる。でも、今のエルザには戦闘の経験がない。ダンピールの力があっても、使い方を知らなければ意味がないの。あの数の中に飛び込めば、足手まといになるだけじゃない。エルザ自身が殺される」
厳しい言葉だった。だが、真実だった。エルザは唇を噛んだ。分かっている。分かっているが、何もできない自分が悔しかった。
ベアトリクスがエルザの前に立った。
「姫様。戦うのは今日ではありません。今はわたしたちにお任せください。姫様を守ることが、わたしの務めです。どうか今は、わたしたちを信じてください」
ベアトリクスの声は穏やかだが、揺ぎなかった。エルザは涙を堪えて小さく頷いた。悔しかった。決意したばかりなのに、その決意を試す場が来た途端、何もできない。自分の無力さが、痛いほど身に染みた。
だが、ベアトリクスの言う通りだった。今日ではない、今ここで死ぬわけにはいかない。生き延びて、力をつけて、その時こそ。
窓の外で、また一人の傭兵が倒れた。エルザは目を逸らさなかった。この光景を、忘れない。自分を守るために戦っている人たちの姿を。
階下で、ドラコの声が響いた。
「アビー、降りてこい!」
アビゲイルはエルザとベアトリクスを連れて階段を駆け下りた。基地の一階は既に半壊していた。壁に穴が開き、夜風が吹き込んでいる。床には傭兵たちの血が広がり、食屍鬼の灰色の残骸が転がっていた。
ドラコが入口付近に立っていた。返り血にまみれている。服のあちこちが裂け、頬にも血が飛んでいた。だが、傷は浅い。紅い瞳が三人を見た。
ベアトリクスはドラコの背後に目をやった。基地の外では、まだ戦闘が続いている。ラミーナの怒号とリューネットの詠唱が重なり、傭兵たちの剣戟が夜を切り裂いていた。だが、その音は確実に減っている。味方の数が減り続けているのだ。
ドラコは空を見上げた。雲の切れ間から、月が顔を覗かせていた。完全な円。満月だった。
「アビー。今日は満月だな」
戦闘の喧騒の中で、その声だけが不思議なほどはっきりと聞こえた。
アビゲイルは、一瞬だけ息を止めた。そして、静かに頷いた。
「うん」
短い返事だった。だが、その一言にはドラコとアビゲイルにしか分からない、深い意味が込められていた。
ドラコは頷き返した。
「アセンブリ―の駅はまだ近い。夜間も汽車は動いている。お前たちは先にターリンガへ向かえ。勇者殿のところへ行ってくれ」
エルザの目が見開かれた。
「ドラコ、あなたは」
「オレはここで喰い止める。この数を相手にしながら全員で逃げるのは無理だ。オレが壁になる。その間に、三人で汽車に乗れ」
ドラコの声に、迷いはなかった。だが、それは同時に、ここで別れるという意味だった。一〇〇を超える敵を一人で相手にするということだ。いかにドラコであっても、無事で済む保証はない。
エルザが声を上げた。
「ドラコ、だめです! 一人で残るなんて……!」
「エルザ。帝国に着けば安全だ。レオンのところへ行け。あいつは信用できる。面倒くさい奴だが、悪い奴じゃない」
ドラコはエルザに笑いかけた。いつもの軽い笑みだった。だが、その目の奥には別れの覚悟が滲んでいた。
外では戦闘の音が激しさを増している。傭兵たちの悲鳴が減り始めていた。それは戦況が好転したからではない。叫ぶ者が減ったのだ。時間がない。
「しばらく会えなくなる」
その言葉に、エルザの目から涙が溢れた。ベアトリクスも、唇を強く嚙んでいた。出会ってからまだ日は浅い。だが、この人がいなければ、自分たちは今ここに立っていない。ヴェンツェル王国の宮殿で命を救われ、共に冒険をし、財団の真実を教えてもらい、母の話を聞かせてもらった。ドラコとの旅は短かったが、二人の人生を根底から変えた旅だった。
ドラコはエルザの頭にそっと手を置いた。大きな手だった。不器用に優しい手だった。
「泣くな。また会える。オレはそう簡単にはくたばらない」




