第68話 ロード
エルザが眠りについたのは、日が完全に沈んだ後だった。
泣き疲れたのだろう。母ルイーザの話を聞き終えた後、エルザはしばらくベアトリクスの傍で静かに過ごしていたが、やがて瞼が重くなり、寝台に横になった途端に寝息を立て始めた。穏やかな寝顔だった。涙の跡が頬に残っているが、その表情には安らぎがあった。知りたかったことを知り、心の空白が埋まったのだ。
ベアトリクスが毛布をかけ、エルザの髪をそっと撫でた。しばらくその寝顔を見守ってから、静かに部屋を出た。
階下の会議室に向かう廊下は、夜の静けさに包まれており、月明りが廊下の石壁を青白く照らしていた。
会議室には、ドラコとアビゲイルがいた。ラミーナとリューネットは基地の警備の指揮に当たっている。テーブルの上には先ほどの書類がまだ広げられたままで、魔術灯の光がそれを淡く照らしていた。
ベアトリクスは椅子に座り、ドラコの顔を真っ直ぐに見た。ずっと訊きたかったことだ。あの夜、汽車の屋根の上で自分の体に何が起きたのか。あれからずっと考えていた。だが、エルザのこと、ダンピールのこと、ルイーザのこと。次々と大きな話が続き、自分のことを訊く機会がなかった。
「ドラコさん。訊きたいことがあります」
「何だ」
「汽車の屋根の上で、わたしの体に起きたこと。あの力は、何だったんですか」
ドラコは帽子の鍔を指で押し上げた。待っていたか、という顔だった。ベアトリクスの目を見返し、小さく頷いた。
「あの時お前の体に起きた変化。片方の背中から竜のような翼が生え、腕が竜のように変わり、角が生えた。あれは『ロード』と呼ばれる力だ」
ベアトリクスは自分の右手を見た。あの夜、竜の鱗に覆われていた腕。今は元の華奢な少女の腕に戻っている。だが、あの感覚は忘れられなかった。体の奥から溢れ出す、圧倒的な力。
「ロードは、吸血鬼の中でも『王』の力を持つ者だけがなれる姿だ。上級吸血鬼、その中でもさらに選ばれた存在しか覚醒しない。何百年生きようと、覚醒しない者は一生覚醒しない。逆に、お前のように吸血鬼になって間もない者が覚醒することもある。才能と言っていもいいし、運命と言ってもいい」
ベアトリクスは目を見開いた。
「王の……力? わたしが、ですか?」
信じられなかった。ベアトリクスはただのメイドだ。王女エルザに仕える、一介の使用人。王族の血筋でもなければ、特別な家に生まれたわけでもない。そんな自分が、王の資質を持っているなど。
「わたしはただのメイドです。王の力だなんて、何かの間違いでは」
「間違いじゃない。ロードは血筋や身分で決まるものじゃない。心の強さ、意志の強さ。それが覚醒の条件だ。お前はエルザを守るために命を懸けた。その想いが、王の力を呼び覚ました。身分なんぞ関係ない」
ドラコの声に、迷いはなかった。ベアトリクスは自分の手を見つめた。この手が、王の力を持っている。メイドの手が、姫様を守りたいという、ただそれだけの想いが、そんな途方もない力に繋がったのだ。
胸の奥が、じわりと熱くなった。
ドラコはテーブルに肘をつき、説明を続けた。
「ロードの力は圧倒的だ。まず、魔力がほぼ無限にある状態になる。魔術を自由自在に操ることができる。ロードの状態なら、高度な術も息をするように使えるようになる」
「魔力が、ほぼ無限に……」
ベアトリクスは息を呑んだ。魔力には限界がある。それがほぼ無限になるというのは、想像を超えていた。
「それだけじゃない。ロードの最大の特徴は、自身の血液を完全に支配できることだ」
ドラコは右手を開き、掌をベアトリクスに見せた。
「自分の血を自在に操れる。体の外に出した血を固めて、剣にも盾にも槍にも変えられる。血が武器になり、防具にもなる。しかも、いくら血を流しても倒れることがない。通常の吸血鬼なら大量出血すれば動けなくなるが、ロードにはそれがない。血を流せば流すほど、それがそのまま武器になる。自分の体が武器庫になるということだ」
ベアトリクスは思い出していた。あの夜、ウィンガルの短剣で何度も刺されながら、力が衰えるどころか増していった感覚。血が流れるほどに、体が熱くなり、強くなっていった。あの圧倒的な力。ウィンガルの心臓を握り潰した時の、手応え。あれが、ロードの力だったのだ。
同時に、怖さも思い出した。あの力が暴走したら、自分がどうなるか分からない。制御できていたのは、エルザを守りたいという一心があったからだ。
「完全無敵、と言いたいところだが、弱点が一つだけある」
ドラコは窓の外を見た。暗い夜空に、月が浮かんでいる。
「ロードの力は、夜にしか使えない。日の光を浴びると、力が徐々に解除される。上級吸血鬼であれば普段は太陽の下でも活動できるが、ロードの状態を維持することだけはできない。太陽はロードの天敵だ。だから、あの力は夜の間だけのものだと思え」
ベアトリクスは頷いた。夜限定の力。裏を返せば、夜の間は無敵に近い力を持っているということだ。財団の襲撃は夜に行われることが多い。使える場面は十分にある。
だが、もう一つ気になることがあった。
「あの時、わたしの体が変わりました。片方の背中から翼が生えて、腕に鱗が出て、額に角が……あの姿は」
「ロードの身体変化だ。竜のような翼、腕、角。それがロードの外見的な特徴だ。力を解放すればするほど、変化は強くなる。だが、力を収めれば元の姿に戻る。今のお前のようにな」
ベアトリクスは自分の腕を見た。今は普通の腕だ。あの竜の鱗は跡形もない。だが、体の奥深くに、あの力がまだ眠っているのを感じていた。火種のように、小さく、だが確かに。
アビゲイルが補足した。
「ロードの姿は吸血鬼によって個人差があるの。ドラコから聞いたけど、ベアトリクス、あなたの場合は右側に変化が集中してたんだっけ。翼も腕も右側。それはあなた固有の特徴だと思う。ドラコのロードはまた全然違う姿になるよ」
ドラコは苦笑した。
「オレの話はいいだろう。問題はベアトリクス、お前がこの力とどう向き合うかだ」
「ドラコさんも、ロードの力を持っているんですか」
ベアトリクスが訊いた。ドラコは帽子の鍔を下げ、口元に笑みを浮かべた。
「ああ、持っている」
軽い口調だった。だが、その後の言葉には重さがあった。
「というより、オレが『魔王』と呼ばれている理由がそれだ。ロードの力を持つ吸血鬼は、王の資質を持つ者。オレの場合は力が桁外れに強すぎてな。使うのを躊躇っている。ロードの力は圧倒的だが、制御を誤れば周囲にも被害が出る。オレがロードになれば、街一つくらいは簡単に消し飛ぶ」
冗談のように言ったが、目は笑っていなかった。ベアトリクスは背筋が冷えるのを感じた。街一つ。それは比喩ではないのだろう。この人は、それほどの力を内に秘めながら、普段は帽子を被って軽口を叩いている。そのことに、改めて畏怖と敬意を覚えた。
「だからオレは、いつか来る本当に強大な敵のためにロードの力を温存している。今はまだ、使う時じゃない。使わなくても戦える相手には、銃と体術で十分だ」
ドラコは軽く笑ったが、その目の奥には確固たる意志があった。温存している。つまり、ドラコはいずれロードの力を解放しなければならない時が来ることを、既に想定しているのだ。財団との戦いが、そこまで激しいものになることを。




