第67話 二つの血
「ルイーザは吸血鬼だ。吸血鬼は人間の肉を食べなければ、体を維持することができない。だが、お腹の中の子は吸血鬼ではない。半分は人間の血を引く子だ。母体が人間の肉を摂取すれば、お腹の子に悪い影響が出るかもしれない。ルイーザはそう考えた」
エルザの呼吸が、僅かに浅くなった。この先に何が待っているのか、予感していた。
「ルイーザは人間の肉を食べることをやめた。代わりに、普通の食事を取るようになった。パン、野菜、果物。吸血鬼の体にとって、それは栄養にならない。食べても食べても、体が受け付けない。吐き戻すこともあった。日に日に痩せていった。顔色が悪くなり、力が抜け、剣を持つこともできなくなった。あれほど力強かったルイーザが、椅子から立ち上がるだけで息が切れるようになった」
ドラコの紅い瞳が、テーブルの一点を見つめていた。
「オレたちは何度も説明した。このままでは体が持たない。せめて少しは肉を食べろと。だが、ルイーザは首を横に振り続けた。『この子のためなら、何でもする。母親ってのは、そういうもんだろう』と。あの馬鹿は、笑いながら言いやがった」
ドラコの声が、僅かに掠れた。
「ルイーザは苦しみ続けた。何か月もの間、吸血鬼としての本能に逆らい続けた。それがどれほどの苦痛か、オレたちには想像がつかない。体の奥から肉を求める衝動が湧き上がる。それを、母としての意志だけで抑え込み続けた」
アビゲイルが、静かに口を開いた。
「わたくしも何度もルイーザのところに通った。魔術で体を支える方法がないか、ずっと調べてた。でも、吸血鬼の体の仕組みは根本的に人間と違う。魔術で一時的に回復させることはできても、栄養そのものを補うことはできなかった。ルイーザはそれでも『大丈夫だ。この子が元気ならそれでいい』って、いつも笑ってた」
アビゲイルの声が震えた。あの時の無力さを、今も忘れていないのだ。
ドラコが続けた。
「ギルバートも毎日ルイーザの傍にいた。あいつは魔術師だ。魔術で妻を支える方法を、夜通し研究していた。だが、限界があった。ルイーザの体は日に日に弱り、最後の方は寝台から起き上がることもできなくなっていた。それでもルイーザは腹に手を当てて、子守唄を歌っていた。まだ生まれてもいない子に、毎晩な」
「そして、ルイーザは無事に赤ん坊を産んだ。元気な女の子だった」
ドラコの目が、エルザを見た。
「それがお前だ、エルザ」
エルザの目から、涙が一筋流れた。
「ルイーザはお前を抱いた時、泣いていたよ。嬉し泣きだ。『この子は、わたしとギルの宝だ』と。骨と皮だけになった腕で、それでもお前をしっかりと抱いていた。あれほど幸せそうなルイーザの顔は、見たことがなかった。ギルバートも泣いていた。あの堅物が、声を上げて泣いていた」
ドラコの声が途切れた。一度、息を整えた。
「だが、ルイーザはお前を産んですぐに死んだ。栄養失調だ。何か月もの間、吸血鬼としての栄養を取らなかった体は、もう限界を超えていた。不老不死である吸血鬼であっても、栄養を取らなければ死ぬ。ルイーザはそれを分かっていた。分かった上で、お前を選んだ」
ドラコは一拍の間を置いた。
「最期に、ルイーザはギルバートに言った。『この子を頼む。わたしの分まで、愛してやってくれ』と。そしてお前の額にキスをして、目を閉じた。穏やかな顔だった。後悔のない、母の顔だった」
沈黙が降りた。
エルザは、泣いていた。声を上げずに、静かに泣いていた。涙が頬を伝い、膝の上で重ねた手の甲に落ちていく。
母は、自分のために死んだ。自分が生まれてくるために、命を懸けた。会ったことのない母の愛が、こんなにも深かったことを、エルザは初めて知った。母の顔を知らない。声を聞いたことがない。抱きしめてもらった記憶もない。だが、母が自分をどれほど愛してくれていたかは、今はっきりと分かった。あの温かさは、母から受け継いだものだったのだ。
ベアトリクスも涙を流していた。主であり親友であるエルザの母の壮絶な愛に、胸が締め付けられた。そして、ふと、自分のポケットの中にある金属の容器に手を触れた。フローレンスからもらった薬。吸血鬼でも人間の肉を食べなくとも空腹が満たせる、あの薬。
フローレンスが、かつて言っていた言葉が蘇った。「吸血鬼が不老不死であっても、栄養失調によって死亡することがある」。あの時は、ただの注意だと思っていた。だが違った。フローレンスはルイーザのことを知っていたのだ。仲間の死を、間近で見ていたのだ。だからこそ、あの薬を作ったのかもしれない。同じ悲劇を繰り返さないために。フローレンスが薬を渡す時に見せた、あの優しい笑顔の意味が、今ようやく分かった。
ベアトリクスは薬の包みを、そっと握りしめた。フローレンスへの感謝が、胸の奥から溢れてきた。
アビゲイルは目を閉じたまま、小さく唇を嚙んでいた。ルイーザの最期を、彼女もまた覚えている。忘れられるはずがなかった。
エルザは涙を拭った。何度も拭った。だが、涙は止まらなかった。悲しいだけではなかった。母の愛の深さに、胸が溢れそうだった。
ベアトリクスがそっとエルザの肩に寄り添った。何も言わず、ただ傍にいた。エルザはベアトリクスの肩に額を預け、しばらくの間、静かに泣いた。
やがて、エルザは顔を上げた。涙で赤くなった目が、ドラコを真っ直ぐに見つめていた。
「……ありがとうございます、ドラコ」
声が震えていた。だが、その奥には確かな温もりがあった。
「母のことを、教えてくれて。わたくしは、母に会ったことがありません。顔も、声も、知りません。でも、今日、母がどんな人だったのか。どれほどわたくしを愛してくれていたのか。それを知ることができました」
エルザは涙の中で、笑った。
「わたくしは母に、感謝しています。命を懸けて、わたくしを産んでくれた母に」
エルザは涙を拭い、ドラコを見つめた。
「そして、母のことを教えてくれたドラコにも。ドラコがいなければ、わたくしは母のことを何も知らないままでした。ありがとうございます」
ドラコは何も言わなかった。帽子の鍔を深く下げ、紅い瞳を隠した。その奥で、何かが光ったように見えた。
アビゲイルが立ち上がり、エルザの傍に歩み寄った。そっとエルザの頭に手を置いた。
「ルイーザが見たら、きっと喜ぶよ。自分の娘がこんなに立派になったって」
エルザは小さく頷いた。涙がまた一粒、頬を伝った。
夕陽が窓から差し込み、部屋を橙色に染めていた。四人の影が、壁に長く伸びている。
エルザは涙を拭い終え、静かに息を吐いた。胸の奥にあった空白が、少しだけ埋まった気がした。母の名前。母の姿。母の想い。それを知っただけで、自分の中にある何かが、確かに変わった。
ルイーザ・ヴェンツェル。勇敢な騎士であり、誇り高い吸血鬼であり、そして――命を懸けて娘を守った、母だった。
エルザは窓の外を見た。夕陽が街並みの向こうに沈もうとしている。空が赤く燃えていた。その赤が、母の紅い瞳と、父の温かい手と、自分の中に流れる二つの血を照らしているように感じた。
わたくしは、あなたたちの娘です。エルザは心の中で、会ったことのない母に語りかけた。あなたが命を懸けて産んでくれたこの命を、無駄にはしません。




