第65話 決意
午後になって、エルザとベアトリクスが目を覚ました。
基地の食堂で、同胞団の傭兵が用意してくれた食事を取った。パンとスープ、干し肉と果物。質素だが温かかった。エルザは行儀よく食事をし、傭兵たちに丁寧に礼を言った。傭兵たちは少し面食らったように笑い、王女に向かって不器用な敬礼をした。
食事の後、ドラコがエルザを会議室に呼んだ。
ベアトリクスとアビゲイルも同席していた。ラミーナとリューネットは「先に用意しておくことがある」と言って席を外し、扉を閉めた。気を遣ってくれたのだろう。会議室には四人だけが残った。
ドラコはエルザの正面に座った。
そして、帽子を取った。
エルザの前で帽子を取るのは珍しいことだった。ドラコの白色の髪が肩に落ちた。紅い瞳が、真っ直ぐにエルザを見ている。ふざけた様子はなかった。冗談を言う時の軽さも、戦いの時の鋭さも消え、ただ真摯な目がエルザを見つめていた。
「エルザ。お前に話さなければならないことがある」
エルザはドラコの目を見つめ返した。エメラルド色の瞳は穏やかだったが、何かを覚悟しているようにも見えた。ドラコがこの顔をする時は、大事な話だということを、エルザはもう知っていた。
「財団がお前を狙っている理由が分かった。そしてそれは、お前自身に関わることだ」
「……わたくしに関わること、ですか」
「ああ」
ドラコは一拍の間を置いた。
「エルザ。お前の母親、ルイーザ・ヴェンツェルは……吸血鬼だ」
エルザの目が見開かれた。
隣に座っていたベアトリクスも息を呑んだ。エルザの母ルイーザのことは、ベアトリクスも聞かされたことがなかった。宮殿の使用人たちの間でも、先代王妃の話は禁忌のように避けられていた。アビゲイルは静かにエルザの様子を見守っていた。
「お前は、人間の父ギルバートと吸血鬼の母ルイーザの間に生まれた子だ。人間と吸血鬼の混血。ダンピールと呼ばれる存在だ」
エルザの唇が僅かに震えた。だが、取り乱しはしなかった。ドラコの言葉を、一語一語受け止めるように聞いていた。
母のことは、ほとんど知らなかった。父ギルバートは母について多くを語らなかった。「お前の母は、とても強く、美しい人だった」。それだけだった。幼い頃に「お母様はどんな人だったの」と何度も訊いたが、父はいつも同じ言葉を繰り返し、それ以上は話さなかった。悲しそうな、だが温かい目をして。その理由が、今ようやく分かった。
「ダンピールの血には、特殊な力がある。吸血鬼を殺す力。そして、ダンピールの血を摂取した者に完全なる不死を与える力。財団がお前を狙っているのは、この血のためだ」
ドラコの声が、僅かに沈んだ。
「オレは最初からこのことを知っていた。ルイーザとギルバートの娘がお前だと分かった時から。だが、お前にはすぐに伝えなかった。お前はまだ一五歳だ。父を亡くし、国を追われ、命を狙われている最中に、さらにこんな重荷を背負わせたくなかった」
ドラコは頭を下げた。白色の髪がテーブルに垂れた。
「すまなかった、エルザ。黙っていて」
会議室が静まった。ベアトリクスはエルザの顔を心配そうに見つめていた。アビゲイルは腕を組んで目を閉じていた。
エルザは、しばらく黙っていた。
自分が純粋な人間ではないということ。母が吸血鬼だったということ。自分の血が、世界を揺るがすほどの力を持っているということ。一度に受け止めるには、あまりにも大きな事実だった。
だが不思議と、絶望は感じなかった。むしろ、心の中で一つの欠片が嵌まるような感覚があった。
なぜ父ギルバートが、あれほど自分を守ろうとしていたのか。なぜ危機に瀕した時のための回避方法を教え、ドラコという吸血鬼に自分を託したのか。なぜ財団が、一国の王女に過ぎない自分をこれほど執拗に追うのか。なぜドラコは初めて会った時から自分を守ると言ったのか。全てが、繋がった。
そして、もう一つ。自分の中にある不思議な感覚。吸血鬼であるドラコやベアトリクス、アビゲイルとフローレンスの傍にいても恐怖を感じなかった理由。それは王女としての器量だけではなく、自分の中に流れる血のせいでもあったのかもしれない。
エルザは顔を上げた。
「ドラコ。頭を上げてください」
その声は、震えていなかった。
ドラコが顔を上げた。エルザのエメラルド色の瞳は潤んでいた。だが、そこには涙以上のものがあった。
「黙っていたことは、きっとわたくしを守るためだったのでしょう。それを責めるつもりはありません」
エルザは、小さく息を吸った。
「わたくしの母は、吸血鬼だった。わたくしは、ダンピール。それが、わたくしが狙われている理由」
言葉にすると、不思議と落ち着いた。自分が何者なのか。なぜ追われているのか。その答えが、ようやく見えた。
「怖くないと言えば噓になります。でも、逃げているだけでは何も変わりません」
エルザの声が、僅かに強くなった。
「わたくしも、戦います」
ドラコの紅い瞳が見開かれた。ベアトリクスが驚いた顔でエルザを見た。
「姫様、でも……」
「ベアト。あなたは汽車の屋根の上で、わたくしを守るために命を懸けて戦ってくれた。ドラコも、フローレンスも、アビゲイルも。みんながわたくしを守ってくれている。なのにわたくしだけがなにもせず、ただ守られているだけなんて」
エルザの目に、涙が光っていた。だが、それは悲しみの涙ではなかった。
「わたくしはヴェンツェル王国の王女です。民を守るのが王族の務めであるなら、自分の身くらい自分で守れるようにならなければ。守ってもらうだけの王女ではいたくないのです」
エルザの目が、ドラコを真っ直ぐに見た。
「わたくしの血が、財団に狙われる原因なのだとしたら。この血を使って、わたくし自身が財団と戦う理由になります。ダンピールには吸血鬼を倒す力があるのでしょう。なら、その力を使えるようになりたい」
会議室が静まった。
アビゲイルが先に動いた。エルザの肩にそっと手を置いた。落ち込んでいるだろうと思って励ますつもりだったが、その必要はなかった。アビゲイルは小さく笑った。
「強いね、エルザは」
「強くなんて……まだ何もできていません」
「決意することが、一番難しいんだよ。わたくしはそれを知ってる」
アビゲイルの声が優しかった。数百年を生きた魔術師の言葉には、重みがあった。
ベアトリクスはエルザの手を握った。エルザの手は冷たかった。緊張で血の気が引いていたのだ。ベアトリクスは両手で包むようにエルザの手を温めた。言葉は出なかったが、その手の強さが全てを語っていた。一緒に戦う。どこまでも。エルザはベアトリクスの手を握り返した。
ドラコは帽子を手に持ったまま、エルザを見つめていた。紅い瞳が、静かに揺れている。ギルバート、お前の娘は立派に育ったぞ。ルイーザ、お前に似て芯の強い子だ。二人の友に、心の中で報告した。
ドラコは帽子を被り直した。
「よく言った、エルザ」
その一言に、ドラコの全てが込められていた。
エルザは小さく微笑んだ。涙を指先で拭い、背筋を伸ばした。王女の姿勢だった。守られるだけの少女ではない。自分の意志で立ち上がった。一人の人間の姿だった。
窓の外では、午後の陽光がアセンブリーの街並みを照らしていた。長かった夜が終わり、新しい戦いが始まろうとしている。だが、もう逃げるだけの旅ではない。
エルザ・ヴェンツェルは、自分の足で立つことを選んだ。




