第63話 満月の前夜
レオンは大剣を鞘に戻した。白い甲冑の皇帝は、椅子の上の灰をしばらく見下ろしていた。兜の下で何を思っているのか、この部屋には知る者はいなかった。
訊問室の扉が開き、帝国兵が一人入ってきた。兵士は灰になった椅子を見て一瞬ひるんだが、すぐに姿勢を正した。この兵士も、訊問室で何が行われるかは承知の上だった。
「陛下、ご報告いたします」
「何だ」
「先ほど入った情報ですが、アセンブリー近郊にて汽車が停車しました。ヴェアヴォルフ同胞団が対応に当たり、乗客の救護を行っております。その中に……ドラコと思われる人物が含まれている模様です」
白い甲冑が、初めて僅かに動いた。灰を見つめていた兜が、兵士に向けられた。
「あいつが、アセンブリーに」
「はい。同胞団からの報告では、複数名の同行者と共に同胞団の基地に向かったとのことです。同行者の中には、ヴェンツェル王国の王女と思しき人物も含まれているとの情報があります」
ヴェンツェル王国の王女。財団が血を求めているという、あの王女だ。レオンは僅かに顎を引いた。
「引き続き監視を。ただし、接触はするな」
「了解いたしました」
兵士は敬礼をして退室した。
訊問室に、レオンだけが残された。ドルメロの灰が、魔術灯の光に照らされて白く光っている。
扉が再び開いた。今度は兵士ではなかった。
毛先が乱れた長い髪。青白い肌。目の下には深い隈。白いローブを纏った女が、訊問室に入ってきた。手には分厚い書物を抱え、もう片方の手には何かの薬瓶を持っている。書物には大量の付箋が挟まれており、薬瓶の中身は淡い紫色の液体だった。
「終わりましたか。早かったですね」
マリアムだった。レオンの冒険の仲間であり、現在は皇帝の側近を務める魔術師。魔王討伐の旅を共にした仲であり、レオンが数少なく信頼を寄せる人物の一人だ。
マリアムは椅子の上の灰を一瞥し、特に何の反応も見せなかった。死に慣れている。魔王討伐の旅で、数えきれないほどの死を見てきた者の目だった。
「不老不死製造計画、ですか。財団はとんでもないことを考えますね」
「聞いていたのか」
「訊問室の外で待っていましたから。傍受の魔術を使えば、防音の壁なんて薄いものですよ」
マリアムは悪びれもせずに言った。レオンは何も言わなかった。この女の行動を咎めても、意味がないことは分かっている。
「魔王がアセンブリーに着いたそうだ」
レオンが言った。マリアムの目が、僅かに輝いた。
「もうすぐ会えますね」
マリアムの声に、期待が滲んでいた。だが、レオンは首を横に振った。
「明日は満月だ」
その一言だけで、マリアムは何かを理解したようだった。満月。それが何を意味するのか、レオンとマリアムの間では説明の必要がなかった。
「それに、今はまだ互いに会わないほうがいい」
レオンは訊問室の壁に背を預け、腕を組んだ。兜の下で何を考えているのか、その沈黙からは読み取れなかった。かつて敵対していた魔王と、再び顔を合わせる。それがどういう意味を持つのか、レオンは分かっていた。だからこそ、慎重だった。
マリアムは兜に覆われたレオンの顔をしばらく見つめた後、肩をすくめた。
「陛下がそう言うなら、そうなんでしょうね。ボクは陛下の判断を信じますよ」
兜の奥から、視線がマリアムに向いた。
「マリー。一つ訊きたいことがある」
「何ですか」
「お前は最近、書庫だけではなく地下室にも閉じこもっているようだが。一体何をしている」
マリアムの表情が、一瞬だけ固まった。ほんの一瞬。だが、レオンはそれを見逃さなかった。マリアムはすぐに笑みを浮かべた。どこか悪戯っぽい、子供のような笑みだった。
「陛下ったら、ボクのことを監視しているんですか?」
「宮殿の地下に出入りしていれば、衛兵から報告が上がる。監視ではない」
「はいはい。で、ボクが何をしているかですけど」
マリアムは指を一本立てた。
「今は秘密です。後々分かりますよ」
兜の奥から、射抜くような視線がマリアムに向けられた。だが、マリアムは平然としていた。この女はレオンの前でも動じない。魔王を討伐するための旅を共にした頃から、それは変わっていなかった。レオンの寡黙な威圧も、皇帝としての権威も、マリアムには通用しない。
「ボクにはボクの探求があります。陛下には陛下のやるべきことがある。それでいいじゃないですか」
マリアムは書物を抱え直し、薬瓶をローブのポケットに仕舞った。
「それと、調べたいことがあるので、しばらく帝国を離れます」
「どこへ行く」
「それも秘密です」
マリアムはにこりと笑った。隈の深い目が、子供のように輝いていた。この顔をしている時のマリアムは、何を言っても止まらない。レオンはそれを知っていた。
マリアムは訊問室の扉に向かった。扉の前で一度振り返り、小さく手を振った。
「行ってきます。留守番、よろしくお願いしますね」
「……皇帝に留守番を頼む側近がいるか」
レオンが呟いたが、マリアムは笑って扉を閉めた。足音が、廊下を遠ざかっていく。軽い足取りだった。何かに期待しているような、弾んだ足音だった。
レオンは壁に背を預けたまま、しばらくの間、動かなかった。ドルメロの灰を見つめていた。永遠の命が欲しいと泣き叫んだ男の最期。兜の下で、レオンが何を思っているのかは分からなかった。
ドラコがアセンブリーに着いた。かつて敵対した魔王が、この帝国の領内にいる。だが、今はまだ会う時ではない。
数時間後。
レオンはマリアムが閉じこもっていたという地下室の前に立ち、重い鉄の扉を開けた。
中には、何もなかった。
石造りの壁と床。魔術灯の台座。それだけだった。書物も、薬瓶も、魔術の痕跡も、何一つ残っていなかった。まるで最初から誰も使っていなかったかのように、念入りに片付けたのだろう。あるいは、そう見せかけるための魔術を使ったのか。
レオンは空の地下室を見渡した。白い甲冑に包まれた体は微動だにしない。兜の下で何を思っているのか、誰にも分からない。マリアムは何を隠している。何のために帝国を離れる。訊いても答えないことは分かっている。あの女は、自分が話すべきだと判断するまで、決して口を割らない。
「……マリアム」
呟いた名前は、空の部屋に吸い込まれて消えた。
レオンは扉を閉め、地下室を後にした。宮殿の廊下を歩く、白い甲冑の足音だけが静かに響いていた。窓の外では、満月の前夜の月が白く輝いていた。
廊下の先に、帝国の紋章が刻まれた大扉が見えた。玉座の間だ。レオンはその扉を一瞥し、何も言わずに通り過ぎた。




