第57話 血の覚醒
「ドラコさん!」
ベアトリクスが叫んだ。ドラコの背中から、血が噴き出している。
「やっぱり旦那は甘いな」
ウィンガルが笑い、ドラコの肩に突き刺さった短剣を捻った。ドラコの顔が苦痛に歪む。だが、ドラコはウィンガルの手首を掴み、離さなかった。
「甘くて結構だ」
ドラコが歯を食いしばり、散弾銃をウィンガルの腹に押し当てた。だが、もう片方のウィンガルの手が動いていた。短剣がドラコの脇腹を抉り、その勢いでドラコの体が屋根の縁に押し出された。
足が、屋根から離れた。
ベアトリクスの目の前で、ドラコの体が汽車の屋根から落ちていった。白い長髪が風に煽られ、月明かりの中で銀色に光る。ドラコの紅い瞳が、一瞬だけベアトリクスを見た。
何かを言おうとしていた。だが、声は風にかき消された。
ドラコの体が闇の中に消えた。
「ドラコさん!!」
ベアトリクスの絶叫が、夜空に響いた。手を伸ばしたが、届かない。汽車は走り続けている。
膝が震えた。
屋根の上に、ベアトリクスとウィンガルだけが残された。
風が、二人の間を吹き抜けていく。月が頭上に浮かび、草原を銀色に染めている。汽車の車輪が線路を叩く音だけが、規則的に響いていた。
「さて」
ウィンガルが短剣を構え直した。肩の銃弾の傷も、散弾の傷も、既に塞がっている。紅い瞳がベアトリクスを見据えて、嘲るような笑みを浮かべている。
「旦那がいなくなっちまったな、嬢ちゃん。一人でどうする?」
ベアトリクスは拳銃を構えた。両手が震えている。だが、構えることをやめなかった。照準をウィンガルの頭に合わせる。引き金を引いた。銃声が鳴り、弾丸がウィンガルの額を貫いた。
ウィンガルの頭が仰け反った。だが、すぐに頭を戻した。額の穴が、見る間に再生していく。ウィンガルの口元が歪んだ。
「効かないぜ。オレを殺したきゃ、銀か魔術じゃないとなぁ」
ウィンガルは踏み込んだ。ベアトリクスは二発、三発と撃ったが、ウィンガルは弾丸の中を歩くように近づいてくる。距離が詰まる。短剣が閃いた。
ベアトリクスの腹部を、短剣が貫いた。
熱い痛みが全身を駆け抜けた。ベアトリクスは声を出すこともできず、口から血が溢れた。ウィンガルが短剣を引き抜くと、傷口から血が噴き出した。
膝が折れた。ベアトリクスは屋根の上に崩れ落ちた。両手で腹部の傷を押さえるが、指の隙間から血が止まらない。吸血鬼の再生力が、この傷に追いつかない。傷が深すぎるのだ。
視界が霞んだ。月の光が滲んで見える。体が冷たくなっていく。
「あ……」
涙が、頬を伝った。
「まだ、死にたくない」
小さな声だった。風に消えそうな、掠れた声だった。ベアトリクスの紅い瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。拳銃を握ったままの手が、力なく屋根の上に落ちた。
「姫様に、まだ……」
ウィンガルが、ベアトリクスを見下ろしていた。笑みは消えていた。つまらなそうな顔だった。
「悪いが、旦那に見せつけるために、ここで死んでもらうぜ」
ウィンガルが短剣を振り上げた。月光が刃に反射し、銀色の光が瞬いた。とどめの一撃。ベアトリクスの心臓を貫く、最後の一振り。
短剣が振り下ろされた。
ベアトリクスの手が動いた。
考えてのことではなかった。体が勝手に動いた。もう力など残っていないはずの手が持ち上がり、ウィンガルの短剣の刃を、素手で掴んだ。
刃が掌に食い込んだ。指の間から血が流れ、屋根の金属板を濡らした。痛みが腕を走り抜ける。だが、ベアトリクスの手は離れなかった。
ウィンガルの瞳が見開かれた。
「なに……」
ベアトリクスの体の奥から、何かが湧き上がっていた。今まで感じたことのない力だった。血が熱くなる。心臓が、激しく脈打つ。体の中で、何かが目覚めようとしていた。
――どんな状況でも、必ず。必ず、姫様を守る。
ベアトリクスの瞳が燃えた。紅い瞳が、さらに深い紅に染まっていく。瞳孔が細くなり、獣のような鋭さを帯びた。
足元に、光が走った。
汽車の屋根の金属板に、大きな円形の魔術式が浮かび上がった。強烈な光が夜闇を照らし、ウィンガルの顔を白く染める。魔術式はベアトリクスを中心に広がり、屋根全体を覆い尽くした。
ウィンガルは咄嗟に短剣を引こうとしたが、ベアトリクスの手が離さない。華奢な少女の手が、上級吸血鬼の腕を押さえつけている。先ほどまで死にかけていた少女の力ではなかった。
「嘘だろ、おい」
ウィンガルの声が、初めて揺らいだ。
魔術式から、炎が噴き上がった。
火炎の魔術。だが、ベアトリクスがこれまで見たどの魔術とも規模が違った。汽車の屋根を起点に、巨大な火柱が夜空に向かって吹き上がった。炎は草原を照らし、遥か彼方の地平線まで赤く染めた。ウィンガルの体が炎に包まれ、弾き飛ばされた。
炎が収まった後、屋根の上にベアトリクスが立っていた。
だが、その姿は変わっていた。
右肩から伸びた翼。竜のような赤い翼が、月明かりの中で広がっていた。片翼だけだ。だが、その翼は夜風を受けて力強く脈動している。右腕も変わっていた。人間の腕ではなく、竜を思わせる赤い鱗に覆われた腕。指先には鋭い爪が光っている。そして、額に。額の両側から、二本の小さな角が生えていた。
ベアトリクスの紅い瞳が、暗闇の中で妖しく輝いている。腹部の傷は、既に塞がっていた。掌を貫いていた切り傷も、跡形もなく消えている。体から溢れる魔力が、夜気を震わせていた。
ウィンガルは屋根の上で体を起こした。火炎で焼かれた外套がぼろぼろに焦げ、体のあちことが黒く焦げている。だが、致命傷ではない。上級吸血鬼の再生力が、傷を癒していく。
だが、ウィンガルの顔から余裕が消えていた。
目の前に立つ少女の姿を見て、ウィンガルの紅い瞳が大きく見開かれた。竜の翼。竜の腕。額の角。そして、全身から溢れる圧倒的な魔力。ウィンガルは、この姿を知っていた。吸血鬼の中の「王」。世界で一番強い吸血鬼になるために何百年も力を求め続けてきたウィンガルが、ついぞ届かなかった領域だ。
「ロード、だと……」
ウィンガルの声が、震えていた。あの宿屋でドラコの首を落とした男が。メイド服の少女の首に短剣を当てた男が。生まれて初めて、恐怖と屈辱の色を浮かべていた。
「ふざけんな。あのガキが、王だと?」
ベアトリクスの紅い瞳が、静かにウィンガルを見据えていた。涙の跡が、頬に残っている。だが、その瞳にはもう涙はなかった。
風が吹き、ベアトリクスの竜の翼が大きく広がった。月光が翼を照らし、赤い鱗が宝石のように輝いた。
汽車の屋根の上で、少女は静かに立っていた。その姿は、かつて空を支配した者の面影を宿していた。




