第56話 屋根の上の死闘
月光が、汽車の屋根を白く照らしていた。
ウィンガルの両手に握られた短剣が、月明かりを受けて鈍く光る。二本だけではなかった。外套の内側から、さらに短剣を抜いた。四本。六本。八本。両手の指の間に挟み、腰のベルトに差し、果ては外套の裏地に縫い込まれた鞘から次々と引き抜いていく。膨大な数の短剣が、ウィンガルの全身を覆うように展開された。
風が唸りを上げ、ウィンガルの黒髪を巻き上げた。
ウィンガルの紅い瞳が、ドラコの全身を舐めるように見た。白い長髪。青白い肌。美しい女性の外見。だが、その体の主は男だ。ウィンガルはそれを知っている。そして、その体が本当は誰のものなのかも。
ウィンガルの口元が、にやりと歪んだ。
「しっかし、相変わらず綺麗な顔と体してるな、旦那。いや、その体は旦那のじゃなかったか。愛しの嫁さんの体だったな」
短剣の先でドラコを指し、楽しそうに言い放つ。
「世界最強の魔王が、女房の体を借りて暮らしてるってのは、何度見ても笑えるぜ。本当の旦那の姿はどこにいったんだよ。まさか嫁さんに体を取られて、出てこれなくなったんじゃねえだろうなぁ?」
ドラコの紅い瞳が、冷たく光った。帽子の鍔を引き下げ、低い声で答える。
「ライカを笑うのは許さん」
「おぉ怖い怖い。でもよぉ、旦那。嫁さんの体でオレと戦うのかぁ? また首飛んじまったら泣いちまうんじゃねえのぉ、嫁さん」
「黙れ。貴様を潰すのに、力を使う必要はない」
「……はっ、言うじゃねえか。じゃあ試してやるよ。その綺麗な体、どこまで保つかなぁ!」
ウィンガルが地を蹴った。汽車の屋根を踏み砕く勢いで突進し、右手の短剣がドラコの喉を狙う。ドラコは体を捻って避け、散弾銃を至近距離で撃ち込んだ。銃声が夜空に響き、散弾がウィンガルの胸を抉った。
だが、止まらない。
ウィンガルは散弾を受けながらも前進し、左手の短剣を薙いだ。ドラコが短機関銃の銃身で受けたが、衝撃で体が後方に押された。足が屋根の縁を踏み、一瞬体勢が崩れる。その隙を逃さず、ウィンガルは連続で短剣を振るった。上段、中段、下段。三つの斬撃が同時にドラコを襲う。
ドラコは二丁の銃を交差させて受け、蹴りでウィンガルの腹を突いた。距離が開く。だが、ウィンガルは着地と同時に四本の短剣を扇状に投擲した。ドラコが弾き、避けた先にウィンガルが跳び込んでいた。投擲は囮だった。
「遅いぜ、旦那ぁ!」
ウィンガルの膝がドラコの腹に突き刺さった。ドラコの体が折れ、僅かに動きが止まる。ウィンガルは畳み掛けるように、手に残った短剣をドラコの胸に突き立てようとした。
ドラコは歯を食いしばり、散弾銃の銃口をウィンガルの顔面に押し当てた。
「遅くはない」
銃声。
ウィンガルの頭部が弾け、後方に吹き飛ばされた。だが、吹き飛ばされながらもウィンガルは笑っていた。頭部の傷が見る間に再生していく。上級の吸血鬼の再生力。銀や付呪が付与されていない散弾では、致命傷にならない。
互いに距離を取り、屋根の上で睨み合う。風が二人の間を吹き抜ける。ウィンガルの外套はもう弾痕だらけだったが、本人は涼しい顔で首を鳴らしていた。
ドラコの短機関銃の弾倉が空になった。舌打ちをし、弾倉を交換する。その僅かな隙に、ウィンガルが再び距離を詰めてきた。
汽車の屋根が、激しい戦闘で軋みを上げている。二人の吸血鬼が衝突するたびに、金属が悲鳴を上げた。
車内では、アビゲイルが氷の壁を維持しながら、屋根の上から響く戦闘音に耳を澄ませていた。銃声と金属音が交互に響いている。ドラコが押されているわけではない。だが、ウィンガルも退いていない。
エルザは、窓の外を見上げていた。月明かりの中で、二つの影が屋根の上を駆け回っている。剣戟と銃声が、風に混じって聞こえてくる。
ベアトリクスは拳銃を握りしめ、屋根の方を見ていた。拳銃の感触は、もう手に馴染んでいた。先ほどの食屍鬼との戦いで、引き金を引くことへの躊躇いは薄れていた。だが、屋根の上にいるのは食屍鬼ではない。あの夜、自分の首に短剣を当てた吸血鬼だ。次元が違う。
それでも、ベアトリクスの足が動いた。
砕けた窓に手をかけ、外に出ようとする。エルザがベアトリクスの腕を掴んだ。
「ベアト、何を……」
「姫様」
ベアトリクスが振り返った。紅い瞳が、真っすぐにエルザを見ている。
「ドラコさんを援護します。お許しを、いただけますか」
エルザの手が震えた。ベアトリクスを行かせたくなかった。あの恐ろしい吸血鬼がいる屋根の上に、親友を送り出すことなどできない。だが、ベアトリクスの瞳を見た。そこに迷いはなかった。あの夜、首に刃を当てられた少女の目ではなかった。戦う者の目だった。
エルザは唇を噛み、ベアトリクスの腕を離した。
「必ず、戻ってきてください」
「はい。必ず」
ベアトリクスは短く答えて窓枠に足をかけた。吸血鬼の身体能力で汽車の外壁を這い上がり、屋根に体を引き上げた。
目に飛び込んできたのは戦場だった。ドラコとウィンガルが激しく斬り結んでいる。風圧で体が持っていかれそうになる。
ベアトリクスは膝をつき、低い姿勢で拳銃を構えた。両手で握り、照準を合わせる。二人の動きが速すぎる。誤ってドラコに当ててしまう恐怖が、指を止めた。
ドラコとウィンガルが一瞬だけ距離を取った。
今だ。
ベアトリクスが引き金を引いた。銃声が風に乗り、弾丸がウィンガルの肩を貫いた。ウィンガルの体が僅かに揺れた。
「あぁ?」
ウィンガルの紅い瞳が、ベアトリクスに向いた。肩の傷から血が流れているが、痛みなど感じていないかのように笑みを浮かべる。
「おいおい。あの時の嬢ちゃんじゃねえか。今度は銃なんか持ち出して」
「撃てるようになったんだ、この子は」
ドラコが散弾銃を撃ち込み、ウィンガルの注意を自分に引き戻そうとした。だが、ウィンガルは散弾をものともせず、視線をベアトリクスに捉えたまま笑った。
「なるほどな。旦那の弱点が増えたってわけだ」
ウィンガルが跳んだ。ドラコに向かってではない。ベアトリクスに向かって。
ベアトリクスの顔が引きつった。反射的に引き金を引いたが、ウィンガルは弾丸を体で受けながら突進してくる。急所を外れた弾では、この男は止まらない。
ドラコが叫んだ。
「ベアトリクス!」
ベアトリクスに届くより早く、ウィンガルの短剣が振り下ろされた。ベアトリクスは身を翻して避けようとしたが、揺れる屋根の上では満足に動けない。短剣の切っ先がメイド服の袖を裂き、腕を掠めた。鋭い痛みが走る。
ウィンガルは追撃の手を緩めない。二本目の短剣が、ベアトリクスの胸を狙う。
影が割り込んだ。
ドラコだった。ベアトリクスの前に立ち、ウィンガルの短剣を自らの体で受けた。短剣がドラコの左肩を深く貫いた。




