第55話 汽車の屋根の上で
アビゲイルはドラコたちの後を追い、車両の前端に向かった。ドラコとベアトリクスが道を切り開いた廊下を進み、前方車両との接続口に立つ。向こう側から、まだ食屍鬼が這い寄ってくる。
アビゲイルが魔杖を掲げた。接続口に氷の壁が出現した。分厚い氷の塊が、前方車両からの通路を完全に塞いだ。食屍鬼が壁の向こうで唸り声を上げ、拳を叩きつけるが、アビゲイルの氷はびくともしない。これで、新たな食屍鬼の侵入は止まった。
エルザは、廊下で戦うベアトリクスの姿を見ていた。ベアトリクスが拳銃を撃つたびに、小さな体が跳ねる。それでも、ベアトリクスは止まらない。
横の個室の扉が突然開いた。
中に隠れていた乗客が食屍鬼と化していた。アビゲイルの氷の壁が完成する前に噛まれていたのだ。食屍鬼がエルザのいる個室に向かって飛び出してきた。アビゲイルは車両の前端で氷の壁を維持している最中で、反応が間に合わない。
エルザの体が動いた。
考えるより先に、手が前に出ていた。体の奥から、何かが湧き上がってくる。今まで感じたことのない力だった。
エルザの瞳が、一瞬だけ変わった。エメラルドの瞳が、紅く染まった。吸血鬼の紅だった。その紅い瞳のまま、エルザの手から魔力が放たれた。衝撃波が食屍鬼の体を吹き飛ばし、廊下の壁に叩きつけた。食屍鬼は動かなくなり、灰となった。
エルザ自身も、何が起きたか分かっていなかった。自分の手を見つめている。今放った力は、これまで使用したことがあるどの魔術とも違っていた。もっと原始的で、もっと暴力的な力。制御も詠唱もなく、ただ感情のままに放たれた力だった。
アビゲイルが振り返った。エルザの瞳を見て、息を呑んだ。
「エルザ、今……」
だが、その言葉が終わる前に、エルザの瞳は元のエメラルド色に戻っていた。まるで何事もなかったかのように。だが、アビゲイルは見た。確かに見た。エルザの瞳が、紅く染まった瞬間を。
アビゲイルの表情に、驚愕が走った。だが、今はそれを追求している場合ではない。食屍鬼はまだ追っている。アビゲイルは表情を引き締め、再び魔杖を構えた。
車両内の食屍鬼を全て片付け、四人は個室に戻った。車両の前端では、アビゲイルの氷の壁が食屍鬼たちの侵入を阻み続けている。壁の向こうから唸り声と拳を叩きつける音が響いているが、氷はびくともしなかった。
束の間の安堵が、車両に流れた。ベアトリクスが膝をつき、肩で息をしている。拳銃を握ったままの手が、今になって激しく震え始めた。緊張が解けたのだ。エルザがベアトリクスの傍に膝をつき、その肩に手を置いた。
「ベアト。すごかったです」
エルザの声は、まだ震えていた。だが、そこには確かな称賛があった。ベアトリクスは顔を上げ、汗だくの顔で微かに笑った。
「姫様を、守れましたか」
「ええ。守ってくれた」
エルザが微笑んだ。ベアトリクスの目に涙が滲んだが、すぐに拭った。泣いている場合ではない。まだ、安全ではないのだから。
アビゲイルは車両の前端に目を向けた。氷の壁はまだ保っている。向こうから食屍鬼の唸り声が微かに聞こえるが、壁を破れる気配はなかった。ひとまずは、安全だ。
その安堵は、長くは続かなかった。
窓ガラスが砕けた。
最後尾の車両の窓を突き破り、一つの影が飛び込んできた。人間の形をした影だった。だが、その動きは人間のそれではなかった。吸血鬼の速度。吸血鬼の力。食屍鬼たちとは、根本的に違う。明確な意思を持って、真っすぐにエルザに向かってきた。
影がエルザに向かって突進した。腕が伸び、エルザの首を掴もうとした。
ドラコが割り込んだ。短機関銃の銃身で影の腕を払いのけ、蹴りで吹き飛ばした。影が車両の壁に叩きつけられ、壁がへこんだ。普通の吸血鬼なら、この一撃で動けなくなる。
だが、すぐに立ち上がった。ゆっくりと、楽しむように。壁にめり込んだ背中を剥がし、首を鳴らす。痛みを感じている様子はなかった。
男だった。長い黒髪を無造作に垂らし、薄い唇に笑みを浮かべている。紅い瞳が、暗い車内で妖しく光っていた。着崩した外套の下に、鍛え上げられた体が見える。食屍鬼とも、これまで戦った吸血鬼とも違う。格が、違う。
「よう、ドラコの旦那」
男の声は、陽気だった。場違いなほどに。戦場の真ん中で、旧友に声をかけるような調子だった。
「久しぶりだな。元気してたか」
ドラコの紅い瞳が、鋭く細まった。
「ウィンガル」
ドラコの声は低く、冷たかった。帽子の鍔を引き下げ、短機関銃を構え直す。
ウィンガル。魔王ドラコを倒すために、世界で一番強い吸血鬼になろうとしている男。昔からの因縁の相手。ドラコが一五年の眠りについている間も、この男は力を求め続けていたのだろう。
ベアトリクスとエルザが、ウィンガルの存在に怯えていた。食屍鬼とは次元の違う威圧感だ。ベアトリクスはあの夜の恐怖を思い出していた。首に短剣を当てられた感触。あの時の男が、また目の前にいる。アビゲイルだけが平静を保ち、二人の前に立って魔杖を構えている。
ウィンガルの紅い瞳が、エルザに向けられた。あの時と同じ、獲物を見る目だった。
「おっ、王女もまだ元気じゃねえか。また会えて嬉しいぜ」
ドラコがエルザの前に立ち、ウィンガルの視線を遮った。
「エルザには触れさせない。前も言ったはずだ」
「つれないねえ、旦那。前と同じ返事かよ」
ウィンガルは肩をすくめた。だが、その目は笑っていなかった。紅い瞳の奥に、獣のような飢えが光っている。この男が求めているのは、本当はエルザの命ではない。ドラコとの戦いだ。
「オレが用があるのは、昔から旦那一人だ。ここじゃ狭い。外に出ようぜ」
ウィンガルが窓枠に足をかけ、砕けた窓から外に出た。汽車の屋根に飛び乗る。風が唸りを上げ、ウィンガルの黒髪を巻き上げた。
ドラコはアビゲイルに目配せした。
「エルザとベアトリクスを頼む」
アビゲイルが頷いた。その紅い瞳には、先ほどのエルザの瞳の変化への疑問がまだ残っていたが、今はドラコを送り出すことが先だった。
ドラコは窓枠に手をかけ、汽車の外に身を乗り出した。背中には散弾銃、手には短機関銃。風が帽子を飛ばしそうになるが、片手で押さえて屋根に上がった。
汽車の屋根の上。
風が轟々《ごうごう》と吹き付けている。線路の振動が足元から伝わり、体が揺れる。夜空には月が浮かび、草原を銀色に照らしていた。草原が高速で流れていく。
屋根の向こう側に、ウィンガルが立っていた。風の中で平然と立ち、笑みを浮かべている。外套の裾が風に煽られ、激しくはためいていた。だが、ウィンガルの体は微動だにしない。揺れる汽車の屋根の上で、地面に立っているのと同じように安定している。
「こっちのほうが広くていいだろ、旦那。思い切り暴れられる」
「相変わらず、ふざけた男だ」
ドラコは短機関銃を左手に、背中から散弾銃を抜いて右手に構えた。二丁の銃。ウィンガルは外套の内側から二本の短剣を抜き、両手に一本ずつ構えた。あの夜と同じ。だが、その短剣が銃弾よりも危険であることを、ドラコは知っていた。この男の短剣は、あらゆるものを切り裂く。
月明かりが草原を照らし、汽車の屋根の上に二つの影を浮かび上がらせていた。
二人の紅い瞳が、汽車の屋根の上で交差した。風が二人の間を吹き抜け、草原の彼方へと消えていく。因縁の対決が、今始まろうとしていた。




