第58話 届かぬ刃
ウィンガルの体が、震えていた。
恐怖ではない。怒りだった。何百年もの間、力を求め続けてきた。ドラコを超えるために、数え切れないほどの吸血鬼を喰い、血を浴び、戦い続けてきた。それなのに。
目の前の少女が、自分が届かなかった場所に立っている。
ウィンガルは奥歯を嚙み砕くほどに食いしばり、残っていた短剣を全て抜いた。両手に四本ずつ。八本の短剣が、月光を受けて鈍く光る。
「認めねえ」
ウィンガルの声は低く、凄みがあった。先ほどまでの軽薄さは消え、殺意だけが剥き出しになっている。
「こんなガキが王だなんて、絶対に認めねえぞ!」
ウィンガルが跳んだ。八本の短剣を同時に振るい、ベアトリクスに斬りかかった。上下左右、あらゆる角度から刃が迫る。一撃一撃が吸血鬼の膂力を乗せた致命の斬撃だった。
ベアトリクスの竜の腕が動いた。
鱗に覆われた右腕が、短剣の一本を弾いた。金属同士がぶつかる甲高い音が響き、短剣が宙に飛ぶ。続く二本目、三本目。ベアトリクスは竜の腕一本で、ウィンガルの連撃を捌いていく。速さも力も、先ほどまでとは比べ物にならなかった。ロードの力が、ベアトリクスの吸血鬼としての能力を何倍にも引き上げている。
届かない。
ウィンガルの短剣が、ベアトリクスに届かない。さっきまで腹を貫き、死にかけさせた相手に、刃が届かない。ウィンガルの額に脂汗が滲んだ。全力で振るっている。これ以上の速度は、出ない。それでも、届かない。
何故だ。何故、この小娘にロードの力が宿る。ウィンガルは思った。オレは何百年もかけて力を追い求めた。ドラコを倒すためだけに生きてきた。仲間も、故郷も、本当の名前すらも捨てて、ただ強くなることだけを選んだ。それなのに、たかが数週間前に吸血鬼になったばかりの小娘が、王の力を手にしている。こんな理不尽があるか。
ベアトリクスの紅い瞳が、静かにウィンガルを見ていた。怒りも憎しみもなかった。ただ、まっすぐに。あの夜、首に短剣を当てられて震えていた少女の目ではなかった。
ウィンガルは短剣の構えを変えた。八本のうち四本を逆手に持ち替え、間合いを詰める。通常の斬撃が通じないなら、至近距離での乱撃で押し潰す。ウィンガルが何百年もかけて磨き上げてきた戦法だった。ドラコ以外の全ての敵を、この技で屠ってきた。
踏み込んだ。四本の短剣が同時にベアトリクスの喉、胸、腹、太腿を狙う。残りの四本が追撃の軌道を描く。八つの刃が、死の檻を作り上げた。
ベアトリクスの竜の腕が、一閃した。
甲高い金属音が連鎖した。弾かれた短剣が三本、宙を舞って汽車の屋根から落ちていく。残りの五本も軌道を逸らされ、ベアトリクスの体には掠りもしなかった。
ウィンガルの顔が、歪んだ。
「くそがぁ!」
ウィンガルが叫び、残った短剣を全て投擲した。五本の刃が扇状に広がり、ベアトリクスの全身を狙う。逃げ場のない攻撃だった。
ベアトリクスの足元に、再び魔術式が浮かんだ。
竜の翼が大きく広がり、ベアトリクスの体が浮き上がった。短剣の全てが、空を切った。ベアトリクスは汽車の屋根から数メートル上空に舞い上がり、月を背に浮かんでいた。翼が夜風を受け、力強く脈動している。眼下に汽車の屋根が見える。草原が月に照らされて銀色に光り、地平線の彼方まで続いていた。空を飛んでいる。たった数週間前まで、宿屋でシーツを畳んでいた自分が、空を飛んでいる。
見上げるウィンガルの顔に、初めて絶望が浮かんだ。
飛んでいる。あの少女が、空を飛んでいる。短剣は投げ尽くした。届く武器が、もうない。何百年かけて磨き上げてきた短剣の技が、何の意味も持たない。ウィンガルの全てを懸けた戦い方が、根底から否定されていた。
ベアトリクスは空中から、ウィンガルを見下ろしていた。風が頬を打つ。月が近い。自分が何をしているのか、半分も理解できていなかった。体が勝手に動いている。ロードの力が、ベアトリクスの意志に応えるように流れ込んでくる。魔術の知識はない。剣の技もない。だが、この力は知っている。守るために何をすべきか、この力が知っている。
ベアトリクスの竜の腕に、炎が宿った。赤い鱗の隙間から、溶岩のような光が溢れている。魔術式が回転し、炎がさらに凝縮されていく。
ベアトリクスが腕を振り下ろした。
火炎が、一直線にウィンガルに向かって放たれた。先ほどの火柱とは違う。絞り込まれた一条の炎が、槍のようにウィンガルの体を貫いた。
車内にいたアビゲイルが、天井を見上げた。屋根の金属板が赤熱し、熱気が車内に降り注いでいる。窓の外から見える草原が、昼間のように明るく照らされていた。何が起きているのか、車内からは分からない。だが、途轍もない力が屋根の上で解放されたことだけは、アビゲイルとエルザは肌で感じていた。
ウィンガルの体が燃え上がった。外套が一瞬で灰になり、肌が焼け、肉が炭化していく。上級吸血鬼の再生力が追いつかないほどの火力だった。だが、ウィンガルは倒れなかった。燃える体のまま、歯を食いしばって立っている。膝が震え、体が傾いても、地に伏すことだけは拒んでいた。
「まだだ……まだ、終わってねえ!」
ウィンガルは死を前にしてなお、折れなかった。燃え盛る腕で、屋根に突き刺さっていた短剣を拾い上げた。先ほどの乱撃で落とした一本が、まだ残っていた。肉が焼け、指が炭化していく。それでも刃を握りしめた。痛みなど、とうに超えている。何百年もの執念が、この体を動かしている。
ウィンガルはベアトリクスに向かって跳んだ。最後の一撃。残った全ての力を込めた突進だった。燃える体が、夜空に弧を描く。炎の尾を引きながら、真っすぐにベアトリクスに向かっていく。その姿は、燃え落ちる流星のようだった。
ベアトリクスが降りてきた。
翼を畳み、真っすぐにウィンガルに向かって落下する。竜の腕を前に突き出し、ウィンガルの短剣ごと、その体に突っ込んだ。空中で二つの影が交差した。
短剣がベアトリクスの左肩を掠めた。メイド服が裂け、血が飛んだ。だが、それだけだった。
ベアトリクスの竜の腕が、ウィンガルの胸を貫いていた。
鱗に覆われた指が、ウィンガルの体の奥で心臓を掴んでいた。二人は屋根の上に着地した。ベアトリクスの紅い瞳と、ウィンガルの紅い瞳が、至近距離で交差した。
ウィンガルの口から、血が溢れた。体の炎は消えかけていた。もう再生する力も残っていなかった。胸を貫かれた衝撃で、膝が揺れている。それでもウィンガルは立っていた。最後の意地だった。
「……嘘だろ。こんな、ガキに」
ウィンガルの声は、もう怒りではなかった。呆然とした、力の抜けた声だった。自分が負けたという事実を、まだ受け入れられずにいた。
声が途切れた。ベアトリクスの手が、握りしめられた。
ウィンガルの心臓が、潰れた。




