第53話 生きていたら
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
朝日が草原を照らし始めた頃、アビゲイルが立ち上がった。ドラコの向かいに座っていたアビゲイルが、ドラコとベアトリクスの方を見た。
「ドラコ。ベアトリクス」
アビゲイルの声は、いつもの軽い調子ではなかった。穏やかだが、真剣な声だった。
「エルザと、二人きりで話をさせてもらえませんか」
ドラコが目を開けた。帽子の鍔の下から、アビゲイルを見た。アビゲイルの紅い瞳には、普段の好奇心旺盛な輝きとは違うものがあった。静かな決意。同じ痛みを知る者の、共感。
ドラコは何も訊かなかった。頷いて立ち上がった。ベアトリクスはエルザの手を離すのを躊躇ったが、アビゲイルの目を見て、小さく頷いた。
「姫様。少しだけ、席を外しますね」
エルザは反応しなかった。窓の外を見つめたまま、動かない。
ドラコとベアトリクスが個室を出て、扉が閉まった。車両の廊下に出た二人の足音が、遠ざかっていた。
個室に残ったのは、アビゲイルとエルザの二人だけだった。
アビゲイルはエルザの向かいに座った。小さな体が、座席に沈む。ベアトリクスと同じくらいの身長しかないアビゲイルは、見た目だけなら少女そのものだった。だが、その瞳の奥には、途方もない歳月が積もっている。
汽車の揺れだけが、二人の間を満たしていた。窓の外では草原が流れ、朝日が地平線から顔を覗かせ始めている。アビゲイルは急かさなかった。エルザが自分のペースで言葉を受け入れられるよう、静かに待っていた。
やがて、アビゲイルが口を開いた。
「姫様って、大変だよね」
いつもの軽い口調だった。だが、その言葉には重みがあった。
「守ってもらうのも、とても大変」
エルザの視線が、初めて窓の外から離れた。虚ろだった瞳に、僅かな光が戻った。アビゲイルの言葉が、心の奥に触れたのだ。守ってもらうことの辛さ。それを、アビゲイルは知っている口調だった。
「アビゲイル……」
エルザの声は掠れていた。泣きすぎて、喉が枯れている。
「姫君だったのですか」
アビゲイルは僅かに笑った。いつもの無邪気な笑顔ではなく、もっと深い、懐かしさを含んだ笑みだった。
「ずっと昔の話。今とは国も時代も違うけどね。わたくしも姫と呼ばれていたことがある。ただ、エルザみたいに国を背負う立場ではなかったけど」
アビゲイルは窓の外に目を向けた。夜明けの空が、少しずつ明るくなっている。草原の向こうに、朝日の気配があった。汽車の振動が、二人の間を静かに揺らしている。
「国を守る責任はなかった。でもね、命を狙われる恐怖は同じだった。理由はエルザとは違ったけど、自分のせいで誰かが傷つく。自分を守るために誰かが血を流す。それが辛くて、たまらなかった」
アビゲイルの声は穏やかだった。遠い過去を語る声だ。数百年、あるいはそれ以上前の記憶を、アビゲイルは静かに手繰り寄せていた。普段の好奇心旺盛で無邪気な姿からは想像もつかない、深い痛みがそこにはあった。
「わたくしを守ってくれた人たちがいた。その人たちが傷つくたびに、わたくしは自分を責めた。わたくしさえいなければ。わたくしが死ねば。何度も、そう思った」
エルザの瞳が揺れた。アビゲイルの言葉が、自分の心をそのまま映している。昨夜、庭園で吸血鬼たちの前に身を晒した時の気持ちと、同じだった。
「でもね、エルザ」
アビゲイルがエルザに目を戻した。紅い瞳が、真っすぐにエルザを見ている。幼い顔立ちの奥に、長い歳月を生きた者の深さがあった。
「死んだら、終わりなの。守ってくれた人たちの想いも、一緒に消えてしまう。あなたが生きているから、みんなの想いは意味を持つ。あなたが死んでしまったら、全部なくなってしまう」
エルザの唇が震えた。
「今は辛くても、生きていたら、きっといいことがある」
アビゲイルは微笑んだ。その笑顔には、数え切れないほどの夜を越えてきた者の温もりがあった。辛い夜も、悲しい夜も、全て越えてきた。だからこそ言える。生きていれば、きっと。
「わたくしも、何度も死にたいと思った。でも、生きていたから、ドラコに会えた。フローにも会えた。エルザにも、ベアトリクスにも会えた。生きていなかったら、こうやって話すこともできなかった」
アビゲイルの声が、僅かに震えた。だが、すぐに穏やかな声に戻った。
「守られていることを、負い目に感じなくていい。守りたいと思う人がいて、守られる人がいる。それは、とても自然なこと。エルザが誰かの重荷になっているんじゃない。エルザがいるから、みんな強くなれる」
エルザの目から、再び涙が溢れた。だが、先ほどまでの涙とは違っていた。絶望の涙ではなかった。もっと温かい、何かに触れた涙だった。
「……ありがとう、ございます」
エルザの声は小さかった。だが、そこには確かな感謝があった。虚ろだった瞳に、光が戻り始めている。窓から差し込む朝日が、エルザの涙に濡れた頬を照らしていた。
「アビゲイルに、そう言ってもらえて。わたくしは、まだ立てます」
エルザは両手で涙を拭った。まだ震えている。まだ怖い。まだ辛い。だが、心の底が僅かに温まっていた。自分と同じ痛みを知る人が、隣にいる。それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。
エルザの口元に、微かな笑みが浮かんだ。泣き顔のまま、笑っていた。壊れそうな笑顔だったが、それでも笑顔だった。
アビゲイルは満足そうに頷いた。
「うん。その顔が見たかった」
アビゲイルはそっとエルザの肩に手を置いた。小さな手だった。だが、その手には数え切れない歳月の重みがあった。
「一人で抱え込まないで。辛い時は、みんなに頼っていいの。ドラコも、ベアトリクスも、フローも、わたくしも。みんな、エルザの味方だから」
エルザは頷いた。今度は、しっかりと。声は出なかったが、頷きに力があった。
その時、個室の扉が開いた。
ドラコとベアトリクスが戻ってきた。だが、二人の顔を見て、アビゲイルの表情が変わった。
ドラコの顔は険しかった。飄々とした空気は消え、紅い瞳が鋭く光っている。ベアトリクスも緊張した面持ちで、無意識に拳を握りしめていた。二人が廊下で何かを確認してきたことは、その表情だけで分かった。
ドラコは個室の扉を静かに閉め、帽子の鍔を引き下げた。低い声で言った。
「どうやら、この汽車も終わっている」
アビゲイルの紅い瞳が、鋭くなった。
「どういうこと」
「乗客に紛れている。吸血鬼が、一体や二体じゃない」
ドラコは腕を組んだ。声を落として続ける。
「さっき車内を見て回った。前方の車両に、匂いが混じっている。人間の中に、吸血鬼が何体か紛れ込んでいる。リファランから逃げる乗客に混じって乗り込んだのか、最初から待ち伏せていたのか。どちらにしても、気づいていない振りをしている。まだ動くつもりはないらしいが、時間の問題だ」
個室の中の空気が、一瞬で凍りついた。
エルザの顔から、再び血の気が引いた。たった今、ようやく取り戻しかけた心の平穏が、再び揺さぶられている。だが、今度は先ほどとは違った。エルザの手が、拳を握りしめていた。震えてはいる。だが、俯いてはいなかった。アビゲイルの言葉が、まだ胸の中にあった。生きていたら、きっといいことがある。
汽車の車輪が、線路の上を規則的に叩いている。その音だけが、沈黙の中に響いていた。逃げ場のない鉄の箱の中で、新たな戦いが始まろうとしていた。




